■ 第九夜
夢の中でもいい。
一目逢いたいと願っても、…最愛は。出てきては、くれない。
***
山吹ノ国を去って以降、ゲッコウガは、もう何日も山野を駆け巡っている。
目撃情報も噂も、聞き取っていけば思う以上にたくさんあった。
見慣れぬ美麗な鳥がいた、荒んだ気配を放つからとてもではないが近付けなかった、ちょっかいを出す奴らをことごとく返り討ちにする異様に強いポケモンだ、と。
様々な話を手繰り寄せているはずなのに、その大本には、なかなか辿りつけない。
せめてこの瞬間も無事であってくれと、噂が途切れないことを彼の生存理由として心もとなくも頼みにしながら――およそひとつき。
山もすっかり様変わりした。
春なら、山笑う。夏は、山滴る。秋に、山装う。
冬が迫っているこの季節、山は眠る。常緑樹ならいざ知らず、多くの木々は、葉も実も落として寒々としている。
だからこそ、その夜に。
『――…!』
見間違いかと思った。
恋しさのあまりに現れた幻影かと焦った。
何度も何度も見直した。
しかしその姿は、視界から消えてなくなることはなかった。
裸同然の、灰色の大木。
その頂に、影があった。
そこだけが、やけに、色付いて見えた。
ゲッコウガは、不意に思い出す。
――何にも関心を寄せず、色褪せた世界で息を潜めていたかつての日々。自然界で生き残るには強さだけが全てだった。弱ければ淘汰されると、それが、当然の認識としてあった。
慣れ合ってもたれかかって、足を引っ張りあうだけではそのうちに共倒れだ。独りで立ち、独りで道を拓く必要に迫られていた。
我武者羅に駆けて、そのうち、強さを認められ情のなさを見込まれ、人間の暗部に引き込まれた。そこに大した労苦はなかった。任務は忠実にこなしたし、殺しを命じられればその通りにした。有象無象、弱いからやられるのだ。それだけのことに感慨はない。
白と黒の視界。
そこへ、突如として彩りが現れたのだから、仰天くらいする。
あの日。
あまりに鮮やかで、目が離せなかった。
彼がいると、その周りにも、呼応するように色彩が広がり始めた。今までだったら気にもとめなかったものを美しいと感じるようになって、――彼と共に在る世界は、いつでも、澄明だった。
『…、…月見でござるか』
枝づたいに跳躍して、近付く。
鼓動が早まる。胃が痛むほど緊張している。手の届く場所にルチャブルがいる現実を、夢と見紛う。
彼は、瞬時に振り返ってきた。
琥珀の眼をいっぱいに開き、信じられない、いっそ信じたくないものを見る目つきで顔面を蒼白にして――かと思えば、次の瞬間には即座に枝を蹴っている。
『な、ッ…ルチャブル!』
広げた翼が風を切り、素早く滑空していく。
この場で過つわけにはいかない。こちらとて、飛べないなりの意地がある。ゲッコウガは尋常ならざる脚力にものをいわせて自身も空中へと身を躍らせた後、舌を伸ばした。
執念で押しきった。菜の花色をした脚の片側を、捉えた。
あえなく、ふたりして敷き詰められた落ち葉の上に落下する。
『やはり、…何処へ行こうが、美しい御主は目を惹くな』
逃げ損じて身を竦ませるルチャブルを、感極まるままに、ゲッコウガは抱きすくめた。
『…、…この物好きめ…』
弱々しい声。
震える体躯。
こんなにも傷つき弱っているのなら――嗚呼、はやく籠で囲って保護しなければ。
『何を今更』
僅かな抵抗も許さず、ゲッコウガは両腕に力を込める。
『御主を見初めたときから心に決めていた。決して逃がさないと』
拙者は御主の鳥籠だ。
ゲッコウガは耳元で囁きかける。
『中身がカラでは意味がない。十全じゃない。…せっかく見つけたというのに、どうして拙者から逃げようとする?』
『…俺はもう、おまえに惜しんでもらえるほど綺麗じゃない』
穢れてしまった。
その呟きの悲痛は、聞く者の心すら引き裂かんほど。
心に負う傷を瞬く間に治す術を持たないゲッコウガは、己の非力を思い知る。
『御主は悪くない。
拙者の方こそ、…すまない。傍にいてやれなかった』
俯くばかりだったルチャブルが、そっと顔を上げた。
先程までの様子からしてどんなに儚げな顔つきをしているだろうと思っていたのに、予想と違い、その目が優しく細められたので驚いてしまう。
『…おまえでも、泣くことがあるんだな』
『は、…?』
指先が、柔らかくゲッコウガの目元を拭う。
風切羽の表面をつたって、玉のような水滴が地面へと滑り落ちていく。
『…、いやいや、…拙者が泣くなど』
『珍しいな。照れて誤魔化すなんて』
いつもなら、恥ずかしげもなく何でもやるくせに。
そんなことを言う口調だって、穏やかだ。
なんなら、彼が微かに笑んでいるとも見てとれる表情を浮かべるから――たまらなく、なる。
『…御主は、何故、そうも…』
しなやかに、強くあるのか。
都度、弱さを乗り越えていく気高い雄の生きざまは、こんなにも眩しい。
『…どうした、途中で黙りこくって』
『なんでもない。ただ、…御主に惚れたことを誇らしく思っていたところでござる』
『…、…そうか。お互い様だな』
『ッ、』
この返しは予測できなかった。華麗に決められた不意打ちである。
しめやかさも、どうやらそこまでだった。
どちらからともなく、場の緊張を解くような、軽い吐息が漏れ出る。
『…で、どうする?これから』
『追々ということでいいのでは』
その日暮らし上等、ふたり揃って勝手気ままな野良の身分だ。
先を見据えて計画を立てるより、まずは寝床の問題。探しにいくかと、連れだって歩き出す。
『気が早いかもしれないが、春になったらやりたいことがある』
歩いているうちにふとそんなことを言うので、ルチャブルの方を見遣ると、温かな声音が返ってきた。
『おまえと八重桜を見たい』
『――…』
静かに祈るみたいに、語るから。
湧き上がるこのぬくとい心の在り様を愛と呼ぶのだろうなあと、ゲッコウガは、しみじみと隣の鳥を見つめるのだった。