本能的にゲッコウガを
雨が止んで晴れ間が見えてきたので、外に出た。
空気は柔らかく潤いを含み、凍てつくものを溶かすように温かい。胸に吸い込むたび清々とする。森の土埃が洗い流されたおかげで澄んで見える視界の中、木葉の上に座る水滴が光を反射させ輝きを放っていた。
雨水の時期だ。雪解けが始まり、大地がぬかるみ、植物の新芽が一斉に萌え出てくる。そういえば、降り続いたここ数日の雨も、春の訪れが近付きつつあることを告げるような優しい音を立てていた。
越冬完了まで、あと少し――この「あと少し」こそが、割ときつかったりするのが世の常で。ゲッコウガは、僅かに嘆息する。
いよいよ、山野の食糧は底を尽こうとしていた。救世主のような春の山菜が食べられる大きさになるまでは未だ時間が掛かるし、さて、どう食いつないだものか。
別に何日か食わずとも平気だが、今日の収穫は特に少ない。小ぶりな木の実が一つ、あとは
木の実を二つに割ったちょうどそのとき、隣にいたルチャブルが素早く顔を上げ、遠くへ意識を向けた。
『…鳥の水浴びか』
少し行った先に崖があり、その下からせせらぎが聞こえてくる。小川があるのだろう。そこから更に、彼は鳥の存在を聞き分けたらしかった。言うが早いか、ルチャブルは地を蹴って矢のように駆けた後、ためらいなく崖下へと飛び降りていった。
あまりの速度に感心しながら後を追い、見下ろしてみたが、何とも惜しいことに辛うじて紅い背中が見えただけだ。狩りの決定的瞬間を見逃してしまった。
岩の出っ張りをつたいながらルチャブルは軽やかに跳躍し、獲物と共に戻ってくる。元が小柄なルチャブルが片手でつかめてしまうほどの、輪をかけて小さな鳥だった。だらりと下がった首から察するに、瞬時に頸椎を折られたものと見える。痛みを感じる暇もなかったことだろう。実際、悲鳴の一つも聞こえなかった。襲われたことにも死んだことにも気付かせないほどの手際が容易に想像され、そこから、自ずと狩人の腕前も知れる。
『見た目より可食部は少なそうだな』
冬は、見かけるどの鳥もまんまるとしている。しかし、ルチャブルによって羽をむしられ露わになっていく鳥の肉体は、どうも瘦身のようだ。
『羽根に空気を含ませて膨らんでいるだけだからな』
単なる防寒だ、と、あっさり返ってくる。
『もともとこいつだって食うに困っていただろうし、最初から肉付きなんて期待してない。でも、まあ、ないよりマシだろ』
見つけた実は、おまえが全部食え。そう言って笑いかけてくれるルチャブルの表情は穏やかだ。
…前言撤回。今日は思いのほか豊作だったのかもしれない。木の実ばかりの生活ではルチャブルに障るだろうと密かに心配していたところだったので、肉が捕れたのは朗報だ。
一口が大きいゲッコウガはあっという間に食事を済ませ、あとはいつにないルチャブルの食事風景を眺めることにする。
いつぞやのコラッタとは違い、獲物が小さい分、噛みついた際の出血量も少ない。今のルチャブルは口元だけを赤く染めるにとどまっている。何だか、それだけでも随分と上品な食べ方に見えてくるのだから不思議だ。
黙々と食い進める様子を見ているうちに、不意の一言が、ゲッコウガの口をついて出た。『うまいのか』と――愚問である。うまいと認識しているからわざわざ獲ってきたのだろうに。自分自身に呆れる思いでいたところ、対するルチャブルは何も気にするふうはなく、それどころか小首を傾げてきた。
『気になるか』
おまえにとって食糧の範疇に入っていないものだからな。ルチャブルはゲッコウガからの関心にひとりで納得している。
『なら、食べてみればいい』
思いがけない返しだったので、束の間ゲッコウガは戸惑ってしまうのだが、ルチャブルはその間にもあらためて一口分の肉を噛み千切り、おもむろにゲッコウガへと顔を近付ける。
口内に、ぬるりと、ぬるいものが押し込まれた。
血にまみれ、生臭い、しかしルチャブルによって丁寧に咀嚼された肉。舌から伝わる刺激を受け取った脳が、これは受け付けられる食べ物ではないと瞬時に判定を出すものの、ゲッコウガには端から吐き出す選択肢などない。あとはもう、こくりと飲み下すだけだ。肉はゲッコウガの食道をぺたぺたと赤く色付けながら、胃袋へと滑り落ちていく。
それにしても、…まさか、食事にかこつけて血に濡れた口付けを交わすなんて思ってもみなかった。ゲッコウガが言葉を失っている中、ルチャブルはいたって真面目に覗き込んでくる。
『…おまえが平気なら、これからはふたり分狩ってくるぞ。どうする?』
『そう…だな…』
『なんだ、その煮え切らない言い方は』
『いや…御主がいやに大胆だから驚いて…』
大胆?とオウム返しに呟いた後、はっと我に返るように、ルチャブルは瞬く間に頬を紅潮させていく。
『ちが、ッ、…おまえの口じゃ噛み切れないと思って…!』
あわあわと言い訳を募る小鳥に、目を細めてしまう。
猛禽としての鋭敏な能力を遺憾なく発揮し、血を
『好みに合う味とは言い難いが、毎回御主から口移しで食べさせてもらえるなら喜んで受け取るでござる』
『しないからな!』
つっけんどんな態度をとるルチャブルに、今度はゲッコウガの方から近寄った。まだ相手の口周りに付着している赤に舌を伸ばし、れる、と舐めとる。
唐突な仕草に動きを止めて絶句するルチャブルを見ながら、さっきとまるで逆の立場になったことが可笑しい。
『…驚いたのは事実だが、反面、結構興奮してる』
『はあ⁉』
『血の臭いは、…元の職柄、縁遠いものじゃなかったからな。久しぶりに嗅いで酔ったのかもしれない』
だから抱かせてくれと道理もクソもないことを言い出すゲッコウガに、焦燥と混乱に見舞われたルチャブルは見当違いの返答を口走った。
『死骸の隣で言うことじゃないだろうが莫迦。趣味悪いぞ』
『では
ゲッコウガは、米俵よろしくひょいとルチャブルを右肩に担いだ。あわせて『いやー、いい腹ごなしになるでござるな』と糸目でケロケロほざくので、持ち上げられたルチャブルの声が苛立ちで大きくなる。
『おまえ…ッ!今の季節を分かってるのか!腹持ちのことを考えろ!』
『知らん。あんな倒錯極まる口付けをしてきたルチャブルが悪い』
『だから違うと言って、…おいコラ!話を聞け!!』
口調に多少の棘があるとはいえ本気で抵抗してこない…ので、きっと、そういうことなのだろう。相変わらず自分に都合よく解釈するゲッコウガは、しれっと最愛を
【 了 】