※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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第五話:⑤

 頼りなかった身体の感覚が戻り、はっと目を開ける。

 先程までいた河原には違いないが、その色味も時間帯も一変している。

 

 晴れた青空。薄くたなびく白雲。柔らかな日光。己の四方を覆っている柳の葉は、瑞々しい萌黄色をしている。春景色だ。

 春の景色と分かるだけだ。いかに麗らかだろうと、心は動かない。隣に小鳥がいないのならば、途端に、ゲッコウガの世界は色褪せる。

 

 本来この場にいるべき存在を押しのけて、腰を下ろすゲッコウガの膝元にすり寄ってくる者がいた。一体のブースターが、潤んだ翡翠の瞳で見上げてくる。

 こいつが元凶か。まさか、数日前の。しかし、…こんな容姿だったろうか。やつれていたことを抜きにしても、あまりに変わり果てている。

 

 緋色の艶やかな皮。そこへ、たっぷりとした黄金(こがね)の体毛が首周りや尾を飾る。まさしく炎ポケモンと呼ばれるに相応しい色合いだ。加え、しなだれかかってくる可憐な仕草や『お逢いしたかった』と語りかける妖艶な声。十の雄がいたらそのうちの九は抗うことなく虜となるだろう奇跡的な美――それほどの魅惑の雌へ振り向きもしない残りの一体とは、無論。

 

『あなたのことが好きになってしまったんです』

 

 夢中で探したの。

 ねえ私を選んで。

 私と添い遂げて。

 

 誘うように色気を放って、向かい合って身を乗り出してくる。そこに、雌らしいやわな肉や匂い、体温がまとわりついた。反吐が出る。

 

 ゲッコウガは相手の首筋へと左手を伸ばした。間違っても、その豊かな綿毛を梳くためではない。逃がさぬように掴んで引き寄せ、喉元にすうと刃を添える。

 未だ薄皮も切っていない。しかし、焼けた金属が水に濡れたときのようにじゅうと鈍い音がして、接触面から白い湯気が立ちのぼった。

 

『おまえは何か勘違いをしているな』

 

 驚きと恐怖に引きつるブースターの表情には構いもせず、ゲッコウガは口元を歪める。

『拙者の心は、とうに拙者のものではない。

 ――オレは誰のことも好きにはならない。ただ一羽を除いて』

 その一羽のもとへ早く帰せ。

 忍は、どんな火でも熔かせまいというほどの、恐ろしく冷ややかな恫喝をする。

 

『おまえがいかに媚びようが関係ない。人知れず苦労をしていようが努力をしていようが何の意味もない。どれほどの犠牲を払おうとおまえがオレに選ばれることはない。それが全てだ』

 

 

 

 

 

+++++

 

 

 

 

 

 頼りなかった身体の感覚が戻り、はっと目を開ける。

 先程までいた河原には違いないが、その色味も時間帯も一変している。

 

 鈍色に曇る空。綿埃が敷き詰められたようにどんよりした雲で覆われ、僅かな日光も届かない。柳の葉はすっかり枯れ落ちて、半狂乱になった女の掻きむしられた髪を思わせる細い枝が奇怪に垂れ下がるばかり。世の彩という彩を失ったような、寂しい冬景色。

 この中にあるからこそ異様に目立つのは、目の前でゆらめく焔の塊だ。記憶にある玉形ではない。耳が突き出る吻の長い頭部、四つ足、胴体、尾……獣と分かる程度の形状に整っている。不定形に揺らぐため、何のポケモンを模(かたど)ったものなのかは、見当もつかない。

 

『おまえ、あの御方の何なの』

 

 がらがらとした声が虚空を裂く。獣が前に進み出てくる。その足の運び方に、たおやかさが出た。見かけや声色ではにわかに信じがたいものの、この異形は雌なのだと知れる。

『…何なんだろうな。考えたこともなかった』

 ルチャブルは正直に答えた。

 最初は「友」だったはずだが、今は何に変化したのだろう。これまで両者間の関係を名付けようという気が起こらなかったことや、思い至ることさえなかったのは不思議だった。実際、こうして問いかけられたところで、すぐに思いつく言葉もない。

『そんな程度で一緒にいるのね』

 嘲るように言われても、そのとおりだと頷くよりほかにない。むしろ、ルチャブルは、微かに笑んでみせる。

『そんな程度でも旅を続けていられるんだから、世の中はよく分からないな』

 狼狽(うろた)えて怒鳴ってくることも、恐怖に叫ぶこともしないルチャブルの態度に焦れたのか、紅蓮の怪火はより一層声の棘を増して、くってかかる。

『おまえには勿体ないから私にちょうだい。絶対に、私の想いの方が大きいもの』

 老いた声をしているのに、要求は、不釣り合いに幼い。

 

 私が先に出会っていればよかったのに。

 私だって選ばれたい。恋仲になりたい。

 おまえのことなんて忘れさせてみせる。

 

 次々に吐露されるのは、片想いの恋着だ。その当事者になったことがあるルチャブルは、胸の片隅に、ほろ苦いものが湧くのを感じた。

『残念だが、それを決めるのはおまえじゃない』

 義弟と重なる焔の揺らぎが、哀れに思えた。

『おまえはこんなに妙な術を使うのに、俺が肯定しないとあいつを連れていけないのか。強引に奪っていく力はないんだな』

 燃え盛る火も、おどろおどろしい声色も、無理をしている強い言い方も、すべては張りぼてで、本当はもっと華奢な雌なのではないだろうか。対峙する者に憐憫を覚えるがゆえに、ルチャブルは終始冷静だった。

 一方の獣からは、動揺した気配が伝わってくる。

『やると言いなさい。そうしないとここから出さないよ。ひとりぼっちのまま取り残してくれる』

『…わかった』

 いくら脅されようが動じぬまま、ルチャブルが返事を寄越す。

『少なくとも、おまえにあいつをやるくらいなら、このままでいい』

 また、焔が揺れた。火花も散った。端から想定していなかった反応をくらって狼狽したらしく、心の有様が火の動きに如実に表れている。

『もう会えなくなるのに』

『そうだな』

『ひとりっきり』

『仕方ない』

『悲しくないの』

『…おまえがそれを言うのか』

 困ったように笑って、ルチャブルは獣に近付いた。

 

 井筒。

 いくらつらくとも、二度と会うことが叶わない者を想い続けて「月やあらぬ 春や昔」と呟く亡霊の舞を見た所為かもしれない。強がりでも何でもなく、そのような偲ぶ道もあると、ルチャブルの腑に落ちていた。

 

 

 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして―――月は昔と同じ月ではないのだろうか。春は昔と同じ春ではないのだろうか。あの御方のいらっしゃらない今、眺める月も過ごす春も去年とは違うように感じられるが、それでも私だけは、今も変わらずあなたを想い続けている―――…

 

 

『どうにもならないものに未練を残してもおまえがつらくなるだけだぞ。諦めて帰れ』

 己の置かれた境遇を嘆いて恨み言を募らせたっていい立場にありながら、ルチャブルが怪異にかけたのは、慰めの言葉だった。それを受け、恥じ入るように獣は全身を震わせて膨らみ、やがて身の内から盛大に弾け飛んだ。至近距離にいながらちらともルチャブルが火傷を負わなかったあたりに、怪異本来の心根が透けて見えるようだった。

 嫉妬もろとも花火のように砕け散り、それは枯れた風景の中では一際美しかったけれど、夜空を彩る火工品と決定的に違うのは、周囲に撒かれた音だった。腹にくるような破裂音はしなかった。華麗な散り際とは裏腹に、鼓膜に爪を立てるような細々とした泣き声が、残響としていつまでも尾を引いた。

 

 

 

 

 

+++++

 

 

 

 

 

 すっかり陽は落ち、視界に暗闇が流れ込んでくる。明暗の落差に目が慣れるまで、少し、掛かった。

 河原で横様に倒れていた。

 吹き抜けていく夜風は、夏に特有の蒸された湿気をはらんでいる。

 

『…えらい目に遭ったな』

『おまえの所為でな』

『えー…、むしろ拙者も巻き込まれた側では…』

 

 目を開けた先で相手も起きていたので声をかけてみたら、この憎まれ口である。ただし、ルチャブルの発言は安堵の裏返しでもあった。この時点では未だ、ふたりは、互いの身に降りかかった体験が各々随分と相違があることを知らない。また、それでありながら特に内容を確かめ合うこともしない。愛し抜こうと心に決めた連れ合いがちゃんと隣にいる、その現実があるだけで十分だと――そんな思いが両者ともに偶然にも一致していたので、殊更何か言う気にもなれないのだった。

 

 必要以上の不平を言い募ることはせず、ルチャブルはさっさと身を起こして、伸びをするがてらに立ちあがる。次いで、『おまえ、自分は鳥籠だと言ってたな』と出し抜けに問うて、揺るぎない眼力を以てゲッコウガを見下ろした。

 

『その中に、俺以外を入れるんじゃないぞ』

 

 一息で言われた。

 呆気に取られていると、ゲッコウガを待たずにルチャブルはくるりと背を向けて歩き出してしまう。そそくさと速まっていく足取りやずんずんと大きくなっていく歩幅に隠しきれない照れが出ていて、これはもうのんきに寝転んでいる場合ではなかった。

 慌ててその後ろ姿を追うと『ついてくるな』と吐き捨てられた。言っていることが滅茶苦茶だ。しかしながら、手のひらを返したようにすげない態度を前にして、ゲッコウガの口元は緩んでいく一方だった。

『御主は本当に分かりやすいでござるな』

『うるさい!』

 自分の発言に居たたまれなくなった様子のルチャブルがとうとう空を翔けだしたのを見て、それは禁じ手だろと非難がましいことを言いつつ、しかしゲッコウガの口の端は相変わらず上がったままだ。

 

 かの最愛に関しては、己は名うての狩人になれる自負がある。照れ屋な小鳥を追いかけるのも手慣れたものだ。今は束の間の戯れを楽しもうと、風を切って飛ぶ紅の翼に視線を定め、軽やかに地を蹴っていく。

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