①気楽な野良の弥次喜多道中
②ゲッコウガ、ルチャブルの夢を見る
※参照※
・デヴェタシュカ洞窟
・XY&Z編第5話『ピカチュウ、プニちゃんの夢を見る!』
見るからに不思議な洞窟だった。
天井部に相当する分厚い岩盤を光の柱が貫通するみたいに、巨大な穴がそこかしこに開いているおかげで空が見え、閉塞感は全くない。洞窟と聞けば大抵が想像する薄暗い湿っぽさもなく、十分な光合成に足るためか、内部では草木が生い茂っていた。
見上げた先には鈍色の雲が広がっていて、くしゃみをするように空が身震いをしたらその拍子に雪がこぼれてくるのではないかという風情だ。ふたりを後ろから追い越していった木枯らしも、冬の訪れが間近に迫っていることを教えてくれる。しかし、ここに群生する常緑樹の青々とした葉は、時季に反していっそ場違いな印象さえ与えた。寝転べば蔦の茂みに覆われ、緑色の繭の中にいる気分になってくる。たまにはこんな風変わりな場所での草枕もいいだろうと留まることにして、あとは他愛ない言葉を交わすばかりだ。去年のようにそろそろ越冬のための住処を探しておいた方がいいのかもしれない。今度はもう少し食糧のことにも気を配ろう。そんな話をしながら、身を寄せ合って眠りについた一夜だった。
***
微妙に解像度が低い視野、雑音が混ざる環境、夢だと自覚しながら過ごす非日常――明晰夢。
嗅覚が働いていない点も実に夢らしい。仮に何か口に含んでも、味覚も同様に何ら感知しないだろう。触覚すらも怪しいものだ。ゲッコウガは、頼りなさげに透けている己の手のひらを見遣った。
辺りを確認すると、馴染みのない植物がやけに目についた。植生の違いがこれほど如実に表れているとはよほど遠方の土地らしい。架空の場所を一から創造できるほど己の想像力が豊かであるとは思えないのだが、いったい自分はどこの森にいるのだろう。
近くで声が聞こえた気がして、足を向けた。しばらく進むと、徐々に、複数の音の重なりを聴覚が拾う。物陰からそっとうかがえば、そこでは――紅い色が、一際、鮮やかだった。
多くのポケモンに囲まれて、明るく破顔するルチャブルの姿があった。視認した途端、仄暗い感情と共に、ゲッコウガはあまりに現実離れした事態を悟った。これはルチャブルの夢なのだと、…少なくとも、己の夢であるはずがなかった。自分が――たとえ夢であったにせよ――他の輩と親しそうにするルチャブルのことを思い描くなんてありえない。
この森が彼の故郷の投影なのだとすれば、自身に全く馴染みのない場所にいることの辻褄も合う。かつて彼が過ごした日々の一部が、夢の中で再生されているのかもしれない。
これまでに、ゲッコウガはルチャブルの過去について詳しく尋ねてこなかった。狭量な理由からだ。献上品として渡来してきた際にあれだけ根強い哀しみをかかえていたのだから、どれほど親密な関係を置き去りにしてきたのか容易く察することができたし、それがゆえに温かな声音で懐かしく昔話でもされようものなら己は嫉妬で気分を害するだろうと分かりきっていたためだった。
ルチャブルと夢を共有しているのだとすれば貴重な体験ではあるが、他者へ笑いかける彼を目の当たりにするくらいなら早く覚めてほしいとゲッコウガが冷酷なことを考えたそのとき――文楽人形のガブのように、がらりと眼前の風景が変わった。
森の中から一転、現場は一面の花畑。ルチャブルの隣にはピカチュウがおり、並んで花々の中を歩いている。突然平地に放り出される格好となったゲッコウガには身を隠す場所がなく、しかし、ふたりは一向に気付かない。夢の部外者は察知されないということか。あるいは、このルチャブルの時間軸ではゲッコウガの存在を知りようもないので、過去の情景に組み込まれていないのだろう。
『どんな薬草が必要なんだ』
『白い花なんだって。カモミールって、プクリンは言ってたけど。ヒメリの実に似た匂いがするらしいから、すぐに分かるってさ』
手伝ってくれてありがとう。暇だったから気にするな。そんな遣り取りが続く。ピカチュウの頼まれ事にルチャブルが善意で付き合っている、そのくらいの事情はすぐに分かった。…そうやって誰にでも当たり前のように優しくするから、勘違いする馬鹿が後を絶たないというのに。思ったところでどうにもならない不満を抱えながら、ゲッコウガはルチャブルの後ろ姿を眺める。
『…あれ?』
ピカチュウが立ち止まった。彼が発見したのは、ひょこりと顔を覗かせているニャスパーだ。ほとんど花に埋もれかけており、随分と小柄な見てくれをしている。
『…見かけない奴だな』
『迷子じゃない?』
小首を傾げつつ、ピカチュウは優しい口調で尋ねた。
『ねえ、君ひとり?どこから来たの?』
困っているなら助けるつもりだったのだろう。怖がらせないようにゆっくりと近寄っていく。
ニャスパーはピカチュウとの距離が十分に縮まった時点で、『人間のところから来たの』と、初めて口をきいた。これから起こることを微塵も予感させない、淡々と抑揚の失せた声だった。
『ごめんね。命令には従わなくちゃいけないから』
「命令」という不穏な単語。
直後、傍らの草花に隠されていた網がニャスパーの念動力によって跳ね上がり、勢いよく覆い被さってくる――…片無双の猟法だ。ポケモンの囮つきとはなかなかに徹底している。
後方にいたゲッコウガが咄嗟に水手裏剣を放つも、案の定、無意味だった。手裏剣は実体のない陽炎のように網の中を通り過ぎただけで、間違いなく直撃したにもかかわらず僅かな破れ目すらも作れない。この夢の中では相互に干渉できないのだと改めて突きつけられた瞬間であり、只、ゲッコウガはその場に立ち尽くす。
罠の下敷きになった獲物が身じろぎした際、胸元の白い羽根が数枚ほど抜け落ちた。そう、…直前、ピカチュウは外に向かって突き飛ばされていた。体勢を立て直して状況を理解した彼は、目に見えて蒼褪め、狼狽している。
『ルチャブル…ッ』
かかったか!と遠くの茂みから発せられた喜び勇む人間たちの声と、ほぼ同時に重なった。
『身代わりなんて、…どうして…!』
『…体が動いたんだから仕方ないだろ。さっさと逃げろ』
『でも!…でも君は!もうすぐヒナが生まれるんだろ⁉ 楽しみにしてたじゃないか!あの
『……、…後のことは頼んだ。行け』
花を踏み散らして迫りくる人間や彼らに伴走する猟犬、捕縛を維持する無表情のニャスパー、再度『行け!』と怒鳴るルチャブル――あらゆるものに視線を彷徨わせ、やがてピカチュウはぐっと口を引き結んで駆け去っていった。
「ようやく念願の鳥が当たったな」
値踏みするような目つきで、不躾に人間が口を開く。
「上物じゃないか。綺麗な色をしている」「これなら交易国に出しても恥にはなるまい」「成果は十分だろ。きっと領主様もお喜びになる」…数々の勝手な批評がルチャブルの上に降り注ぐ様を、何の手出しもできぬまま、ゲッコウガは間近で見つめていた。
***
日の出はそう遠くないだろう。
空が少しばかり白んで夜の気配を遠ざけ始めていた。ゲッコウガだけが一足早く夢を抜け出しており、依然、隣で眠るルチャブルは微かながらうなされている。
視界の端で何かが揺らめき、はっとして目を凝らすと、離れた場所から静かに見据えてくる隻眼を認めた。全身が闇より深い漆黒で塗り潰された中にあって、蒼玉じみた相手の左目は神々しい光を帯びている。いつだったか、話に聞いたことがある姿と同じだった。他者を悪夢へ
――悪夢。
ゲッコウガは、無意識のうちに笑みの形をとっていた己の口元に気付く。ルチャブルの過去を知ったうえで尚も笑いをもらす醜さが、いかにも自分らしかった。
こみあげる愉悦は隠せない。
ルチャブルの中にあるふるさとの思い出は、もはや彼にとっての悪夢になっているという事実が。ルチャブルの周りに張り巡らされていた大切な糸がぶつぶつと断たれていった果てに、最後の一本に繋がっているのが自分しかいないという事実が――こんなにも、嬉しい。
小さな体躯を抱き寄せると、背後に迫る何者かを怯えるように縋ってくる。今はどんな
きっと、陽の当たる暖かい野山を飛んでいた方がルチャブルは幸せだった。しかし高潔であればこそ自らが犠牲となり、傷ついてばかりいる。仲間を逃がし、人間の都合で囚われ、異国の地に追いやられて。そうしてルチャブルが独りであればあるほど、つけいるのは容易かった。傷つけば傷つくほど、信頼を得るのに時間はかからなかった。懸命に告白までしてくれて、嗚呼、本当に愛おしい。きっと今でも自分の方から好きになったのだと錯覚しているはずだ。その裏でこちらがどんなに汚い策略を使ったのかも知らないままで。その純粋な善良性は周囲を魅了するには十分過ぎるほどだが、それを理由に、彼には他の新しい関係も定着しなかった。力量と性情とを見込まれたがために他国への供として引き抜かれ、ようやく常盤ノ国で知り合いができたという頃に皆と別れることになった。山吹ノ国では
散々酷い目に遭っておきながら、それでも未だに彼は気高さを貫いている。これからもずっと、この麗しい小鳥による数々の心配りは報われることなく、彼自身もまたそれをよしとして生きていくのだろう。
『孤独な御主の傍にいるのはいつでも拙者だけだ』
時をかけて口説き落とし、己の色に染めた大事な一羽。
大勢と楽しく暮らす道など、今後ともことごとく断ち切ってくれる。どうせ、そんな選択肢はもう必要ないだろう?御主と拙者と、ふたりきりで在ればそれでいいのだから。
『ルチャブル…』
この声は届かぬと知りつつも、蕩けるように甘く、ゲッコウガは囁きかける。
最愛の者を苛む不幸が巡り巡って己への依存に繋がるよう願いを込めて、震える瞼がひらくそのときを今か今かと待っている。
【了】