雨の日も、風の日も、これからも続いていく気楽な野良の弥次喜多道中
ひさかたの 雨も降らぬか
――雨でも降ってくれたらいいのに。(そうしたら)出かけることなく、あなたに寄り添って今日一日を過ごしましょう。
***
『気圧が変わった』
空を見上げ、ゲッコウガが呟く。
卓越した左官の腕で均一に塗られた土壁みたいに、薄い雲が広がる天上。
さほど水分を含んでいるようにも見えないが、ゲッコウガがこうもきっぱりと言う以上、ほどなくして雨が降ってくるのは確定事項だ。
折しも日が落ちる時間帯。雨宿りも兼ね、一晩しのげる場所を探そうと山道を急ぐ。
現場が人間の集落も近い里山であった所為か、期せずして、とある人工物が視界に入った。雑草に埋没しそうになりながらも、どうにか鈍色の岩肌をのぞかせる石段――苔
いかにも怪談の舞台に相応しい雰囲気を醸しているが、風雨を逃れることができる点ではまず申し分なく、ふたりは迷いなくがたついた木戸を押し開ける。
存外、天井部の傷は少ない。雨漏りの心配をせずに済みそうだが、一方の壁や床は板が抜け落ち、屋内だというのにそこから笹が突き出して小さな薮を形成している。同時に言うなれば、特筆すべきものはその竹薮を除いてしまえばもう他にはなかった。もとは清浄な場所であったという意味でも、何もないという意味でも、まさしく伽藍堂であった。物が散乱しているのでもなければ、かつては安置されてあったろう仏像もない。先に棲みついていたらしいイトマルが突然の訪問者に驚いて逃げ出したくらいで、あとはしんと
神と人の手が離れ、率直に、侘しい空間である。敬われるべき要素を失くして世間の記憶から忘れ去られたのだと、それがありありと見てとれる。
ふたりはその経歴上、こことは真に対極的な住まいを知っている。そこでないと出会えなかった数々の関係を、当時の思い出を、今でも懐かしむことがある。贅の限りを尽くした暮らしやその恩恵を厭うていたわけでもない。ただ、どういうわけか…ひっそりと滅びゆくこの廃堂の方が、しっくりと肌に合うのだった。
『…今日は七夕か』
堂と同化するように我が物顔ではびこる笹を見て思い出したらしい。もうすっかり人間的な暦の感覚が失せているルチャブルとは違って、ゲッコウガは、今なお時間や日付に関してかなり正確に知り得ている。うら寂れた場で星祭りの話が出てこようとは想像だにしなかったが、『天の川は拝めそうにないな』と返しつつ、ルチャブルは外を見遣った。
いよいよ泣き始めた空は、この時節にしてはやけに上品な様で雫を落とし、さながら女の忍び泣きである。雨粒が屋根の上で跳ねているのでなければきっと降っていることにすら気付かないほど、それはそれは粛然とした雨だった。
七夕――年に一度の逢瀬ではなかったか。織女と牽牛が再会の後で流す喜びの涙、あるいは全く正反対に、逢瀬が叶わなかった哀しみの涙…そのいずれをも例えて、この日に降る雨を
天上人の頬をつたった水滴は世の草木に活力をもたらし、青々とした香を引き出しては四散させていく。
次いで、瞬く間にたちこめるのは湿気った木材の匂い。その空中の水気を吸って、羽根のそれぞれが、重みを増したことを感じ取る。
何とはなしに隣へ視線を戻せば、雨夜にその痩身を預けるようにして、ゲッコウガが目を細めている。
雨天時の彼は機嫌がいい。それは当然、生態に由来する。本来ならば雨を避ける必要もないのに、羽根を濡らして体を冷やしてはまずい鳥の身に気遣って、雨隠れの場を一緒になって探してくれる。何げない、しかしながら毎度のことを改めて意識してしまえば不意に胸が詰まって、ルチャブルは、気付かれないようにそっと息をついた。
ずっと見つめているうちにふと目が合ったものだから、もう少しだけ余分に、ゲッコウガの目元が緩められる。
『天空での忍び会いになど微塵も関心はないが――』
彼らしく毒を吐きつつも、その口調は、いたって優しい。
『――ここに短冊があったなら御主は何を書くのだろうと、そちらの方が、よほど興味をそそられるな』
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話し声は、自ずと小さくなった。
囁き交わすことぞ適当と思わせる今宵は、何だか、祈りの場に似ている。雨音より大きな音を立てることが憚られるようで――それはきっと、今この瞬間、この世の全ての総意だった。だから、こんなにも、あたりは静まり返っている。
青葉の中を降りそそぐことにも起因してか、どことなく、田舎の雨は柔らかくて温かい。
立て付けの悪さゆえに閉まりきることのない戸の向こうで、天と地を隙間なく繋ぎ止める雨脚が宵闇の薄暗がりを細切れにする様は、抒情的ですらあった。
銀河にねがいを――と、他愛ない問いにさえ真剣に考えてくれる姿に心惹かれ、眺めるそのうちに、やがて顔を上げたルチャブルは『書くことがない』とのみ一言を放る。
時間をかけて煮詰め、出来上がりはあっさりと。彼にはよくある帰結の仕方だった。
『随分と無欲だな』
『欲がないというよりは、』
妥協だ。
なんて、…そんなことを言うくせに、ほろ苦くもふわりと笑んでみせる一羽。
『俺はおまえのことだけで手一杯だ。これ以上何かを欲しがっても、持て余すだけだろうからな』
なるほど。
…今回は、そうきましたか。
つくづく、語るべき言葉を失うというか惚れ惚れするというか。こちらの心をさくっと射止めておきながら、これで何の狙いも含まない発言なのだから恐れ入る。
寸分の作為も歪みも介在させない真っ直ぐな言葉の光線が、いつでもこの胸を焦がす。痛みはない。ただ、受け止めきれなかった嬉しさが零れ落ちていく勿体なさに、苦しいほどの切なさが募るだけで。
『…何だ、その顔』
『今のセリフを聞いては誰しもこうなろう』
目に見えない誰かの手で引っ張られるように、口角が勝手に上がっていく。
隠せないし、隠そうとも思わない、そんな口元が出来上がってしまっていた。
『つまり、拙者がいれば何もいらないということだな』
…と。
こんなふうに、こちらが調子にのって、相手が咎めてくる。ここまでが定型だ。
だからてっきり、ぶっきらぼうに突き返されるだろうと思っていた。『おまえはいつも自分に都合がいいな』と、大概にしておけと小言を浴びせられ、照れ隠しをするものとばかり。
しかし、その予想は容易に覆される。
『…、…そういうことにしといてやるよ』
寄越されたのは、鼓膜をそっと慈しむような声だった。
言い方こそ断言を避けた曖昧な形を借りているものの、微かな笑みの裏に、確かな本音が縫い付けられている。
大切な名前を呼びかけるみたいに、その穏やかな話し方に胸をつかれて、刹那、時が止まってしまった。
これ以降は何を言っても野暮になる気がしたから、思わず、口をつぐんだ。
束の間の沈黙を降りやまぬ雨が埋め、心をしとりと湿らせて――この水底みたいな空間の中で、色香が、しみる。じわりと滲む
こうした雰囲気をルチャブルの方から連れてくるのは珍しいが、付加価値の高さなどこの際どうでもいい。誘われたのなら喜んで応えたい、それだけだ。
おもむろに、物言わぬままに身を乗り出して近付いても、彼は遠ざかったりしない。
こちらの動きを見定めるような、鼈甲の双眸。その瞬きは、今夜とて雨雲を越えた先では冴え冴えと白光を放っているのだろう綺羅星に似ている。
抱いてもいいか、と。
この期に及んで、…そんな無粋なことは、尋ねるまでもなかった。相手に向かって手を伸ばすだけで事足りた。
――嗚呼。
本当に、いい天気だ。
水と共に官能が匂いたつ。感応が醒めやすい雨夜に最愛を堪能できるとは、なんとも重畳で結構。
いったい、幾度。ふたりで情を交わしたことか。もう百ではきかぬ数だろうと思う。
戯れのような触れ合いも、婀娜なる暗夜とあらば間もなく意味を帯ぶ。どちらともつかぬ熱と欲が籠る獣の息遣い。演技も繕いもない無調整の喘ぎ。それらが雨音にかき消され、洗い流されていく。
狂おしく切望した果てで手に入れた無双の逸品――彼は、己だけが触れることを許された玉琴だ。指先で撫で、爪弾いて、音を紡いで。奏者ではなく、奏でられる側としての法悦を一羽の心と体に教えたのは、他でもないこの自分。ゆえに、その内側から聞こえてくる音色は独占して当然。いつ何時も秘された演奏でなければならない。
『 好きだ 』
何千何万と口にしたところでどうしても言い足りなくて、飽きもせずに繰り返してきた睦言。何を以てしても色褪せないこの想いを載せたひとひらへ、『 知ってる 』と返してくる情事さなかの小鳥を、たまらず抱きすくめた。
はずみでそよいだ笹の葉が、さらさらと鳴いた。
この廃屋にあっては七夕飾りなど今生提げることが叶わない、そんな身の上を嘆くかのような葉擦れ。五色の短冊に自分だったら何を願うだろうとゲッコウガも考えないではなかったが、奇しくもルチャブルと同じ結論に至っている。
書くことはない。
…否。正確には、「書かずともよい」。
己の願いとは必ず小鳥にまつわることであり、願いを叶えてくれる存在もまた小鳥以外にはいないのだった。
筆をはしらせるまでもない。おまえなしでは生きていけぬと言うだけでいい。
そうすれば、…この一羽は。どうしようもなく心優しいから。蛙の一匹も見捨てることができず、願いを聞き届け、死ぬまで隣にいてくれることだろう。
己、と、それ以外。自分でない「その他」は、いつでも不鮮明で、朧で、なればこそ興味すら湧かなかったのに。
彼だけは常に、この心を奪う。目の前に彼がいるというだけで、波立たぬはずの自身が恋しくさざめいてゆく。己への干渉を許すことを愛と呼ぶのだと…それはあまりに、言い得て妙だった。この生涯に関わってほしいと望むのは、永劫、ルチャブルが唯一なのだから。
こうして、心を結んで。体を繋いで。手放せぬ美麗な一羽もろとも一切合切を鳥籠の中に閉ざしてしまえば、ようやく。
恋も、愛も、――呪いに、なり果てる。
『ルチャブル。今後とも末永く、拙者から呪われてくれ』
『…だしぬけに何を言うかと思えば…』
この状況で、と心底呆れたような溜息。なんとつれない反応。口説きたくもなるだろうに。こんなに潤う夜なら、尚のこと。
一つに溶け合う今だからこそだと悪びれもせずに答えると、手遅れの愚か者を見る目つきで、ルチャブルが口を開く。
『とことん世話が焼ける奴だな、おまえも』
『それと承知のうえでこちらの手を取ったのだろう?』
『まさか。知っていたら取らなかった』
『取らせたさ。無理にでも』
手を重ねると、意外にも握り返された。
そればかりか、ぐいと引き寄せられる。
互いの僅かな動きに沿い、結合部で粘ついた音が生まれて、いかに小さかろうと情欲的に違いない刺激へささやかに息を詰めながら――それでも、彼は挑むように、鋭く凛々しい笑みを見せた。
『今更ごねて不安がるな。…俺のことなら好きなだけくれてやるから――』
――ちゃんと抱いてろ。
殺し文句とはかくあるべきという見本のような決定打。
呪詛すらも甘い蜜に変えて、天下無敵の最愛様だった。
ある種の凄みすらある美しいかんばせを向けられては、ぞくりと震える拍子に、ほろりと理性も崩れてしまう。
この有様では質量が増すのも詮無いことで、しかも余計な膨張に関しては、臓器の内側で直に知覚している彼なれば即座に勘付き、無言のうちにも視線を以て諫めてくる。
『…そんな目をされてもな。元はと言えば御主の所為だろう』
そうだ。
最初から、全部。
逆しま極まる欲が溢れ出るのも。何もかも。彼が魅力的だった所為で、転げ落ちるように始まった絵巻物だ。
『くれてやると言われて遠慮をする拙者ではない。せっかくだ、終いまでたいらげよう』
夏は短夜である。
さても即刻、粋筋の続きを楽しまなければ。
いざや契らん。
――目も眩むようなこの艶然たる色気が、雨上がりの朝陽に連れ去られてしまう前に。
【了】