さよならの時にうろたえてはいけない。
別れは再びめぐり逢う前になくてはならないものだから。
――リチャード・バック
我 昔 所 造 諸 悪 業
皆 由 無 始 貪 瞋 癡
従 身 語 意 之 所 生
一 切 我 今 皆 懺 悔
――私が過去にしでかしてきた様々な過ちは、その始まりも分からぬほどの太古から積み上げてきた欲望、怒り、愚かさ、すなわち三毒によるものであり、全ては自身の行いと、言葉と、迷いの心から生じたのです。
私は今、それら全てを悔い改めます。
***
三日月や望月といった確固たる名称も持たぬ半端な形をした月は、しかしそれでも、夜空の中にあっては一際鮮やかな存在感を放っている。
光は仄白いが、そこに冷たい印象はない。むしろ、輪郭線をぼかした和やかな姿を見せているから、優しげな感じがする。
ただし、優しそうに見えるだけなのであって、空に向かってそっと悩みを吐露したとて何かを返してくれるわけではない。森羅万象に等しく月明りを投げかけて、寡黙を貫くのである。
それはそうだ。
母が聞かせてくれた竹取物語にも記されている。月は浄土。地上は煩悩の吹き溜まり――つまりは穢土なのだと。
穢れた者の声を拾ってくれるのは、やはり、同じく穢れた者でしかありえない。
『霞みてかかる山の端の月…ってな』
だから、こうして不意に聞こえてきた声も、この世の者が発したものに違いなかった。
その掠れ具合が妙な色気をもまとう、低い声音。振りむいた先にいる小さな黒い獣に、オンバーンは冷静に返事を寄こした。
『上の句は、…花鳥の 他にも春の
すると、ザクロの種衣みたいな赤い瞳が嬉しそうに細められる。彼は教え甲斐のある弟子にでも巡り会ったかのような、年長者としての顔を見せた。
『いいね。さすがは天下に名高い山吹ノ国が翼竜城の若様だ』
天守閣の頭頂――この場に、夜更けになって訪れる物好きが己の他にもいたなんて、思いがけない。『よく辿り着いたね』と言えば、相手はくすくすと忍び笑いを零した。
『なァに。あたしにかかれば造作もないさ』
聴力に秀でた己の耳を以てしても聞き取りが難しい無音の足取りで、
相手が間近に迫るにつれ、どれほど過酷な道を歩んだらそうも凄惨な痕が残るのだろうと息を呑むような、体躯に散らばる傷の様子が見てとれた。左耳などは半分以上が欠損している。初対面なのに、つい、壮絶だったろう彼の過去を勝手に想像してしまう。
『あなたは…』
『名乗るほどのもんでもねェよ。一目見りゃァ、やくざ者だと分かるだろ』
そうなのかもしれない。まともな生き方をしていたら、きっと、美しい濡羽色をたたえた滑らかな毛皮をしていたはずだ。糸輪家紋みたいな光り輝く模様と併せて、それはそれは美麗であった違いない。
現状、相対するのは得体の知れない不審者。だけど、和歌を通じて声をかけてきたその風流を、オンバーンは嫌いにはなれなかった。
『どうしてこの城に?』
『…昔馴染みに会えればと思ったんだがな。
この広い敷地だ。闇雲に歩き回っても埒が明かねえ。水先案内人でもいやしねえかと見渡したら、てっぺんに翼竜閣下がいらっしゃるじゃァねえか。ひとつ訊いてみようと思い立ったわけだ』
今ひとたびの会うこともがな――と、彼は、そっと口にする。
あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびの 会ふこともがな…女流歌人の作だ。「私はまもなくこの世を去りますが、思い出として、もう一度あなたに会いたい」と、そんな辞世の思いが詠まれている。
『あなたは、もうすぐ死んでしまうの』
顔を合わせて幾らも経っていない相手に、随分と不躾な訊き方をしてしまった。
しかし彼は、オンバーンを咎めたりはしなかった。和歌を理解したうえでの返答をかえって気に入り、ゆるりと目元を緩めて喜ぶふうでもある。
『傷が臭うだろ。壊死してんのさ』
気付いていた。
柔らかな月夜にそぐわぬ腐臭が、春の風にのってオンバーンの鼻先をかすめていく。
『…石火矢を受けちまった。そンときの怪我が膿んで、もう手の施しようがねェときたもんだ。
お役御免ついでに、死に様を選んでいいと贅沢なことを言われたんでな。こうして出てきたんだわ』
輿入れで、
『…、…知ってるよ。でも、』
もうこの城にはいないんだ。
自分で聞いても滑稽なほど震えた声が、口をまたいで出てきた。
『…ふうん?』
尋常でない狼狽を露わにしたオンバーンに対し、相手の目が瞬く。寄越された視線には、こちらの顔色を観察している気配があった。
『ついに駆け落ちでもしたか。あいつらならやりかねないが』
駆け落ちだなんて単語がさらりと出てくるくらいだ。とうに、ふたりの関係を承知しているらしい。場を取りなそうと故意に選択されたからかい口調につられ、オンバーンもつい、胸から言葉を落としてしまう。
『似て非なるものだよ』
『…そうかい』
『ごめんなさい。あなたは、大事な時間を使って来てくれているのに。
ふたりがいないのは、…オレの所為なんだ』
洗い浚いを話していた。
誰にも打ち明けることができなかった過去を、経緯を、苦悩を、何もかもを、ぶつけるようにして。
よくよく見知った者ではなく、行きずりの他者ゆえに心の内をさらせることがあるのだと、このとき初めて知った。
彼は、聞いている間は終始無言だった。黙って耳を傾け続けていた。死にゆく存在だ。こんな無駄話に付き合わせていい相手ではないんだと分かっていたけれど、それでも止まらなくて、だから、遮ることなく聞き役を引き受けてくれる彼の態度は、泣きたくなるほどありがたいものだった。
一昨年の、晩秋。
誰よりも敬愛した兄を裏切り、最低の形で想いを押しつけた一夜があった。
以降、一日一日と積み重なる罪悪感に押しつぶされてしまいそうで――嗚呼これこそが罰なのだと、当時、母からかけられた言葉の意味が身にしみる。
『…それで』
たっぷりとした沈黙を以て、オンバーンが心の中身を吐き出し尽くしたことを確認し、おもむろに彼が口を開く。
『若様はどうしたいんだ』
『…、…謝りたい。けど』
探しに行く資格はない。
己が目の前に現れたら、いやでも、兄につけた傷を掻きむしることになってしまうのだから。
『正論だな。若気の至りでしたで済ませてもらえる分水嶺なんぞ、とっくに超えちまってる』
『…うん』
『謝りたいっつーのも聞こえは殊勝だが、とんでもねェ。
加害者側の「許してほしい」は禁句だぜ。所詮は、てめェの後ろめたさを軽くして楽になりたいだけのことさ』
『ッ、そんなこと!』
ない、と口走りそうになった途端。
続きを絶対に言わせてもらえない鋭い目つきで、制された。怒っているのだと、そのことを遅ればせながら思い知る。考えるまでもなく当然のことだった。死ぬ前に会いたいと思うほどふたりのことを大事にしていた相手だ。そのふたりを傷つけた若造を前にして罵倒を浴びせてこないだけ、彼は大人なのだ。
『何やら勘違いしてんな。これもまた世間知らずってことなのかね』
口角の右側だけを少しばかり上げた愛想笑いに、皮肉がうかがえる。
『償いってのはな、むやみにてめェを責めることじゃァねえのよ。内罰思考は単なる自慰行為…やらかしたことへの懺悔なんざクソくらえさ。腹の足しにもならねェしな』
品のない言動で一刀両断されたことに気圧されて、オンバーンはたじろいでしまう。
『じゃあ、…謝りたくて、謝りたくて謝りたくて居ても立ってもいられなくて、でも、もう謝れないとき、…どうすればいいの』
『そんなもん、一つしかねェだろ』
同じ過ちを繰り返さないことだ。
端的に、そして、決然とした言い方だった。
『てめェの所為で不幸になる誰かを、今後一切出さない。その覚悟を負う――なんて、今こうして口に出すのは簡単だがな、こんなに難しいこともねェぞ。
それに、本来ならあいつらが果たすはずだったことも、若様が肩代わりしなきゃァな?
物事を断言することにもまたそれなりの決断力が求められるはずだが、言い切ってしまうに足るだけの場数を彼は踏んできたのだと、発言の持つ重みから知れた。そう、重かった。同じセリフを自分がオウム返しで口に出してみても、吹けば飛んでしまう紙切れのような軽さしか宿るまいと、そのことが、恥ずかしい。
『…ありがとう。教えてくれて』
素直な深謝だった。
起こってしまったことの取り返しなど、もはやどんな手立てを尽くしても叶わない。だからこそ、過去を振り向き続けたところでそこからは何も生まれないのだと――気付かされ、ほんの少し、心は軽くなっていた。
『そこまできっぱり言えちゃうのが、経験の差なんだね』
『ッたりめーだ。年季が違うぜ。
…謝れねえまま死に別れた仲間の屍山血河を渡ってきてんだよ、こっちは』
過ぎ去った日々の懐かしさも哀しみも、意地悪く歪んだ笑みの皮で包み込んで、彼は背を向けた。長居したなと、そう告げて。
『これからどうするつもり?』
問うと、彼は顔だけでちらと振り返る。
『そうさな、…桜でも探し尋ねようか。言ったろ、死に様を選びに来たんだって。ここに立ち寄ったのは、あくまでオマケだ』
そんなんじゃないくせに。
思ったけれど、言わずにおいた。彼らの再会を実現させることができなかった理由は他ならぬオンバーンにあり、その一点に関しては、口を開くのも憚られた。
代わりに『死に様と桜の関係は?』と、別の話題を提示することで、話の接ぎ穂とする。
『満月の頃に桜の下で死にてェと詠った坊さんがいてな。真似てみたくなったのさ』
桜を見にいく。晴れた月夜だったら御の字だ。いずれも、物見遊山を語るような気安い物言いだ。一貫して、彼は死に対する恐れを見せなかった。動じない物腰のままで、手を振る代わりにゆらりと尾をゆらし、密やかな談話の場から立ち退くのだった。