別れてふことは色にもあらなくに 心にしみてわびしかるらむ
――別れというのは衣に
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ごつごつとした黒い岩肌や、その表面に付着する深蒸し茶みたいな苔の色、一斉に芽吹いた緑が落とす濃い葉影――なんとも素地は暗く見えるが、そんな山奥にもしっかりと春は訪れており、差し色として花開く
風景画の中へ一直線に白い筋を引くみたいに滝が流れるものだから、辺りの春景色はうすらと水煙に覆われている。所々で白く泡立ちながら大量の水が降りそそぐ様も実に風雅だった。滝壺で弾ける音が、閑静な一帯に響いていく。
雪に足をとられる冬を脱し、思う存分駆けまわることが叶う春が到来したことを受け、きゃっきゃと甲高い声をあげながらじゃれ合う毛むくじゃらの獣がいた。そこかしこを跳ねる小鞠がごとき彼らは、二匹のゾロア。兄弟だ。他にも何匹か弟や妹がいるのだが、比較してこの二匹より体が小さく、また大人しい気質であったため、留守番して母親に甘えているのが常だ。だからこうして、お行儀よく振舞えない跳ねっかえり同士で野山を巡っている。
体が丈夫で溌溂としていることは取り柄だが、自分たちの周りに広がる趣深い景色をしみじみと味わうよりも遊びを優先させるほどには未だ幼い兄弟である。彼らにかかれば可憐な花も遊び道具に過ぎず、頭上に咲く躑躅にとびつき、枝を揺らし、どちらが多く散らせるか競争するのだった。そこへ『無粋な真似をするんじゃァねえよ』と大人の声が急に割って入ってきたのだから、兄弟は仰天して固まってしまった。
ぎゅっと身体を寄せ合って、怖々と声がした方へ顔を向ける。いったいいつ忍び寄ったというのか、すぐ近くに炭の塊のような黒々としたポケモンが立っていた。姿を確認したことで、兄弟はますます縮こまった。声の主の、あまりに凄まじい見てくれに恐れをなしたためだ。真っ赤な目玉。半端に千切れた左耳。見ているだけで自分たちの方が痛みを感じるような無数の傷痕。その傷の一つ一つには、きっと、とてつもなく惨たらしくて血生臭い出来事が関わっているのに違いなかった。今だって、むわりと、嫌な臭いがする。特に、兄の方は察しがよかった。
これ、知ってる。肉の腐った臭いだ。こんな臭いが染みつくような暮らしをしてる奴なんだ。
それと気付いたからこそ、自分が弟を守らねばという思いがわき、全身を奮い立たせる。
ぐっと足に力を入れて弟の前に出ると、相手は、面白そうに目を細めた。
『坊主。ちと訊きたいことがあるんだがな』
鼻面に三本傷のあるゾロアークを探していると言う。
『…この辺に棲みついているはずだ。一族の者に、そういう野郎の心当たりはないか』
『そんなら、たぶん父ちゃんのことだよ』
隠さなかった。慎重さに欠けていたかもしれないが、ここで知らんぷりをするより、この不審者を父親に会わせた方がいいと思ったのだ。無論、追い払うためだ。大丈夫。父ちゃんはこんな奴よりでっかいし、群れの中で一番強いんだから。そんな、無条件の、盲目的な信頼もあった。
案内してほしいと言われたが、客を歩かせるのは失礼だからと答え、相手をその場に留める。
『おまえ、走って父ちゃん呼んでこい』
弟は明らかに迷っていたが、『さっさといけよ!』と語気を強め、急かして追い払う。何度も気にする素振りをした弟が、やがて薮の向こうへと見えなくなったとき、くくっと噛み殺すような笑いが聞こえた。黒い獣が、にやりと口の端を上げている。
『いい兄貴だな』
山歩きで疲れてたからちょうどいいやと言って、来訪者はごろりとその場に寝そべる。
『弟だけでも遠ざけておこうって魂胆だろ。で、おまえさんはさしずめあたしの見張りか。泣かせるねえ』
逐一が図星だった。一生懸命考えたことをあっさり解いてみせる口調が腹立たしい。見透かされた悔しさもあり『おっちゃんは、うちの父ちゃんに何の用があるんだよ』と乱暴に尋ねる。客あしらいもまるっきり忘れてむすっとするゾロアとは対照的に、相手はなぜだか機嫌よさそうにしている。
『なァに、大したことはねえよ。近くを通りかかったんで、かつての仕事仲間のツラが懐かしくなっただけさ』
こちらを子どもと思ってか、見た目とは裏腹に、話しかけてくる声音が随分と優しくなった。また、ここが年齢相応にゾロアの幼いところで、「かつて」と語られる父親の過去、「仲間」という単語に心惹かれ、『何の仕事してたの?』と単純に食いついてしまう。
邪険にはされなかった。『聞いたことねえのかよ』と笑われ、この森よりもっと遠くの、幾つか山を越えた土地での昔話を教えてくれるのだった。大きな城での暮らし、各地への旅、繰り広げられる大立ち回り。弁舌滑らかに活き活きと語られる事柄は、ゾロアを捉えて離さなかった。知らない父親の雄姿を思い描くと高揚した。何よりゾロアを喜ばせたのは、『おまえさんの親父は、そらァもう向かうところ敵なしだったんだぜ』と褒めあげられたことだ。
そうさ。そうだろうとも。父ちゃんは昔っからすごかったんだ!
警戒心もどこへやらで、嬉しくなったゾロアは近場の茂みからるんるんと木の実をもぎとり、相手の前に並べた。『おっちゃんの話、面白かった』と、はにかむ。
『これ、ラムの実。体にいいんだって。食べたら元気出るよ』
『……、…そうかい。ありがとな』
披露された数々の胸躍る物語。子どもに対する対等な礼の言葉。差し出したものを素直に食べてくれた姿。出会ったばかりの僅かな時間で積み上げられたささやかなものを前に、ゾロアの心はすっかりほどけていた。
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子どもが呼びに来たときは肝を冷やした。
幼子の、要領を得ない舌っ足らずな喋りから判断するに、現れたのはおよそ他人様に自慢も紹介もできない
最悪の一言に尽きる。
ねちねちと
だいたい、今更になって御庭番が何しに来たんだ。そりゃあ、野生娘に惚れちまった勢いで逐電したのは事実だけれども。かつて「抜忍成敗(裏切りや脱走はいかなることがあっても決して認めない)」の掟に則った追手を覚悟した時期もあったが、放っておかれたのは意外だった。見限られたのだとしても、かえって助かった。それから向こう、森の奥に引っ込んで、気付けばそれなりの規模になる群れを率いて、ひっそりと暮らしてきたつもりである。
だから…と続けると言い訳がましいが、とにかく、全く予期していなかった(油断しきっていたとも言う)ところへ、これが因果応報だと乗り込んでくることだけは勘弁してほしかった。少なくとも家族は巻き込んでくれるなと、心配に心配をかさね、慌てて駆けつけて――…みれば、肩の力が抜けるような光景が目に飛び込んでくる。
一見して筋者とわかる野郎と、世間知のない
『余計なこと吹き込んでんじゃねーだろうな』
右肩に乗っかっている次男坊を担ぎ直しながら声をかけると、向こうは見覚えのある皮肉っぽい笑い方で応じた。
『開口一番がそれか、御挨拶だねえ』
『おまえ相手に喜ぶもんかよ天邪鬼。どうせ厄介事だろうが』
こいつの存在は、情操教育上よろしくない。すこぶる、よろしくない。任務と称した殺傷は数知れず、歩んできたのは血塗れの道。文字通りに意味通りに脛に傷持つ身である…が、今でこそどうにか父親面をしている自分も、元は同じ穴の狢である。先に、ブラッキーの腐った性根を理由に子どもの身を案じたが、実のところ、奴をクズだ何だと罵ることはできない。己とてごまんと悪さを重ねたのだから。
仮に互いが人間であったなら、そろってお縄を頂戴し、肘下に二本線の刺青を施され、遠島流しに遭い、そこいらのチンピラなんて及びもしないような凶状持ちになっていたはずだ。いや、それでも生ぬるいか。打首獄門の末路だって十分にあり得る。要は悪党なのだ。
だが、悪党にも悪党なりの繋がりがあり、仲間意識のようなものも持っている。だから、こんなふうに、悪態の中に親しみを込めた遣り取りをどこか面白がって懐かしむ己がいることを否定できなかった。いい年こいた大人が少年に戻ってしまうような感覚に、少し、似ている。一度会ってしまえば、顔を合わせずにいた年月の隔たりなど問題にならないし、当時の空気感が何事もなかったかのように再来する。そういう、歪だが太い関係ではあった。
しかし、まあ、あくまでも気の置けない間柄だからこそ通じる物言いであって、チビ連中に聞かせるものではないだろう。幼い二匹に巣穴に戻っておくよう告げると、特に長兄は意外なほど渋った。
ブラッキーの方は、柄にでもなく『悪ィなあ。おいちゃんを立てると思って、しばらくおまえさんの親父を貸してくんな』などと調子よく発言し、子どもの機嫌を損なわぬまま退けることに成功している。つまり、言うことをきかせられるほど懐かせたわけだ。子どもから好かれることはおろか、子どもとまともに接することができる奴だとは思わなかったのだが、会わずにいた年月は、角ばったものを丸くするには十分なものだったらしい。
わんぱく共の騒がしい気配が遠のいたあたりで、ブラッキーは軽く息を吐き出すようなあんばいで茶化してくる。
『あいつら、本当にてめえの
『…っせーな。嫁さんの教育の賜物だっつの』
『だろうなァ』
減らず口も相変わらずだが、一緒にバカをやっていた時分の刺々しさは失せていた。覇気不足は口調ばかりではない。記憶にある姿からは一転、ほとんどボロ雑巾に近い風体になり、体躯は痩せて全体に一回り小さくなった。この急激な老け込みようは蓄積された外傷の弊害だろう。治癒力も追いついていないのか膿の臭いがしている。
『他の輩は達者にしてんのか』
『ンなわきゃねェだろ。てめえが抜けて何年経ったと思ってんだ』
当時の連中はとっくの昔に彼岸に行ってら。
忌まわしい話題であるにも関わらず、ブラッキーは束の間、名残惜しむみたいに遠い目つきをする。
『今となっちゃ、未だお迎えがきてねえのはダーテングだけだな。あとは総入れ替えよ』
『…そうか』
ダーテング
おまえは自分を頭数に入れてねえんだな。
それも当然か。死期が近い獣特有の荒れた毛並みが目につく。遠からず土に還る予感がこんなにも色濃いのに、ブラッキーはいたって穏やかだった。敵の喉笛に牙をたて、爪をたて、迷いなく肉を裂いては血潮を浴び、残忍な高笑いを繰り返していた若かりし頃の面影は跡形もない。こいつはもう任務からは解かれており、ごく私的な用件でここまで会いに来てくれたのだろうと窺い知れた。
『そう言うおまえの迎えはいつ頃くる予定なんだ』
『あ? …、…どうだろうな。よっぽど愚図な火車じゃなきゃァ、明日、明後日には連れてってもらえんだろ』
ならば、ありったけの力で山中を分け入ってきたことになる。それほどの大事なら、たとえどんな無理難題をふっかけられようと聞き届けてやらねば一族の名折れとなろう。
『そんな死にかけが、俺に何させようってんだよ』
『成りすましだ』
ブラッキーは横たわったままでくつくつと笑った。そのたびに、ひくひくとあばらの浮いた横腹が波打っている。
『お得意の幻術を
もしそういう運びになったらでいいと言う。
現時点ではどう転ぶか分からない案件らしく、やや煮え切らない言い方をされた。
『あたしの名を出して訪ねてくる若造がいた場合ってのを想定しての頼み事だ。待てど暮らせど「人めも草もかれぬ」ってなことなら、すっぱり忘れてくれ』
その「若造」とやらは、こちらにとっては見知らぬ相手なのだろう。そこを含めてつまびらかな事情を開示しないのは、単純に、細かい長話をする時間や体力がブラッキーに残されていないためだ。裏を返せばそれだけ入り組んだ話で、もっと言ってしまえば面倒くさい類の依頼だと想像がつく。だが、別に構わない。こいつが命がけで託すに足りる案件なんだということが分かれば、それで。こちらにしても、根掘り葉掘り訊く時間が惜しかった。ただの質疑応答でブラッキーの余命をいたずらに消費させる必要もあるまい。もしも奴の言う「若造」が来たら、詳しいことはそっちで聞き出せばいいだけのことだ。
『わかった。請け負う』
皆まで言わない。
これで十分な返答だということは、双方が承知している。
他にはないのかと確認すると『以上だ』と言うので、ひょいと首根っこを摘まみ上げた。まだ生きていることが不思議なくらいに、もう何の中身も詰まっていないような軽さだった。
『 送るぞ 』
以前のブラッキーなら誰がてめえの情けなんざとせせら笑っただろうに、今は抗いもせずに『頼むわ』とおとなしく腕の中におさまっている。
『おまえをどこに捨てに行きゃいいんだ』
『山吹の化け桜ンとこさ』
『遠いなおい!』
今際が万能免罪符になると思うなよ甘えんのも大概にしとけと毒づいてみせるけれど、遠いなら遠いだけ重畳だ。
その道程で、今生の別れと向き合うこともできるだろう。