※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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第十話:⑤

 思えば遠く来たもんだ

 此(こ)の先まだまだ何時(いつ)までか

 生きてゆくのであろうけど

 

 

***

 

 

 頭上から影を落としてくるものがない。山頂とはそういう場所だ。

 標高の高さゆえにこの場は夏とは思えぬほど涼しく清らかで、舞い上がって吹きつける風の中には眼下の森からかき集めてきたのだろう青葉の香りが含まれているものだから、たいそう爽やかな気分にさせた。

 眺望に関してはこれ以上ないと言うほどの賛辞を贈っておきたいが、美しいの一言で済ませるには勿体なく、さりとてこの形容詞からはみ出てあとからあとから零れ落ちていくように、言葉の枠組みに捉われない天衣無縫の景色だった。

 

 どこまで登れるかいってみよう――そんな気まぐれから始まった。旅の途中で目にした岩山があまりに壮大だったから、ふと興味を引かれたのだ。

 生命力に満ち満ちた濃緑の間隙を縫い、草いきれや土の匂いを嗅ぎ、玲瓏なせせらぎや生き物たちの密やかな息遣いを耳にしながら山奥へと分け入った。歩むにつれて、足の裏に伝わる感触が変わった。砂利だ。次第に奇石が目につくようになり、行く手を遮る或いは先を急ぐ者を試すようにして現れたのはそびえる岩壁である。その険しい足場も何ら問題にせず、ゲッコウガとルチャブルはふたりして岩の取っ掛かりを跳躍した。登山に挑む人間用に打ちつけられた長い鎖や、山岳宗教の表れらしい祠などを横目にどんどん進んで、時の経過を忘れた頃にすとんと突き当たった。空へと向かって続いていた道も途切れ、そこがてっぺんであることを示していた。そうして今現在、天上に向かって拳を突き上げるがごとくに佇む巨大な花崗岩の上で、並んで腰かけている。

 

 心地よい静けさに包まれていた。森林限界よりも上に位置するので、岩の隙間から生え出ているのは小低木しかなく、奏でられる葉擦れも随分と慎ましい。表皮の汗が乾いていくことを感じながらゲッコウガが隣を見遣ると、ルチャブルは冠羽をそよがせて風を味わうようにじっとしていた。岩石の灰白とは対照的な、太陽の色を宿した翼が余計に鮮やかに映えて、ここにだけ真っ赤な大輪の花が咲いているような眺めだ。ただし、傍目からいかに華麗に見えようと、ルチャブルに言わせればそれぞれの羽はだいぶ傷んできているとのことだった。そんな会話を、数日前に交わしたばかり。換羽期に留意しておかなければと、今更のように思い出す。

 

 あまりに安らかなひとときであるがために、感傷的な気持ちにもなろうというものだ。

 ルチャブルに出会うことなく城仕えを続けていたら、己はどんな生涯を辿ったのだろう――後ろ暗い無法地帯に首までつかって、何の感性も耕されず、色彩乏しい視界の中で心が枯れ果て、そのうちどこぞで野垂れ死んでいただろうか。世の広さも、五感で捉える自然の素晴らしさも、最愛と生きることの喜びも知らぬままで。

『遠くまで来たな』

 おもむろに話しかけると、彼方を見つめていたルチャブルの視線が戻ってきた。光の加減では金色(こんじき)がかって見えるその瞳の中に映り込むと、何だか、自分まで綺麗なものに思えてくるのだから不思議だった。

『飽きもせず、別れもせずに』

 からかいや、ある種の呆れを含んだルチャブルの微笑。しかし一方、細められた目元には、柔らかな温かさがにじんでいた。 

『次は何に行き会うか、楽しみだな』

 ――次。

 何気なく、ありふれていても、間違いなくふたりの未来を想定する一言だ。この先も共に在ることを当たり前としてみなして疑わない口調だ。この小鳥は、いつでも、こうして容易く幸福をさえずる。

 ゲッコウガの琴線に触れたことには気付かぬまま、当のルチャブルは鷹揚に天を仰いでいた。

 

 

 昊天(こうてん)。

 夏空の異称だ。「昊」という字面の通りに、陽の光が盛んな季節らしい呼び方。今まさに、その名こそ相応しい日和の中にいる。

 少し前まで物憂げな梅雨の装いであったことを忘れ去ったみたいに晴れやかで、透き通った淡青が目にしみるよう――見上げた先に広がるのは、これから一体の翼竜に遭遇する驚きなどちらとも予感させない、只々、眩いばかりの蒼穹である。

 

 

 

 

 

【 先(まず)、今日(こんにち)はこれぎり / 歌舞伎:切口上 】

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