「得体のしれない男を利用するゲッコウガ」と「ゲッコウガを利用する得体のしれない男」
「あれ、君には言ってませんでしたっけ」
何のことだ、と、ゲッコウガは訝しげな表情を浮かべた。
当時、九月一日の朝。また新学期が巡ってきたのかと、げんなりしたことを覚えている。
同居人である男は子どもを対象とした四年制スクールの教員で、一年また一年と持ち上がった果てに昨年度は最長学年の四年生を教えていたから、次年度は二巡目、学年がおりて一年生の担任になるはずだった。
それはつまり、彼と共に出勤しなければならないゲッコウガもまたぴーちくぱーちくうるさいチビッ子共の相手をせねばならんことを意味しており、憂鬱になるのも無理からぬ話であった。
その物憂げな胸中を抑え込みながら玄関先に立って、しかし、いつまで経っても支度を始めない男へ怪訝な視線を投げたときのことだ。
出だしの台詞が寄こされる。
次いで「仕事辞めたんですよ」とも。
安アパートの角部屋は運よく南向きで、今日も今日とて眩しいほどの陽射しに恵まれている。さわやかな朝日の中にあって、男のメガネのフレームが光り、レンズの奥では開けているんだか閉じているんだか分からない細目が満足げに緩んでいた。この人相を人が好さそうと取るか胡散臭いと取るかは価値観次第だろうが、ゲッコウガは断然、後者だ。
部屋に戻り、スタスタと歩を進め――べち、と男の後頭部をはたく。
スクールに行く必要がない、なるほど朗報だ。未熟な、小憎たらしい、群がってべたべた触ってくる輩から離れられるという点は大いに結構…だとしても、退職だなんてそれなりの大事を事後報告で済ませるなという抗議であった。
金が全てとは言わないが、全てのことに金がかかることを、ゲッコウガはちゃんと理解していた。はたいた右手には、収入源失くしてどうするつもりだこの阿呆という意味も込められている。
「えー、痛いなあ」と言う男は、それでものんびりとコーヒーをすすり、トーストの残りをかじりだす。
「君って意外にスクールのこと気に入ってたんです?悪いことしちゃったかな」
もういっぺん、はたいておいた。
かすってすらいないぞ、馬鹿め。
***
卵から孵った際、最初に目に入ったのは白衣を着た人間たちだった。
こちらが生まれてきたことに対して歓声を上げている彼らを無視し、くるりと見渡せば、ガラス窓に映る自分の姿を確認できた。
何の変哲もない小さなケロマツが、可愛げのない顔で見返してくる。途端、また一からやり直しかと溜息をつくような気持ちが湧いた。
生後間もないうちから早速様々な検査を受けることになったここはポケモンの研究所であり、人間の世話になりながら甘んじて生活していくにつれ、この世の在り方が徐々に明らかになっていった。
原理不明のけったいなからくり。行き交う人間たちの見慣れぬ服装。聞いたこともない言語。初めて目の当たりにするポケモンの存在。己の記憶にある時代でもなければ国でもないという事実を裏付けるものは、いくらでも転がっていた。
そして、自分がより強固に管理されている側だと気付くにも時間はかからなかった。森で生まれることが叶わず、人工的に孵化された以上、何をするにも人間の許可がいる。文明が進んだこの社会で生きていくにあたっては、どうやら、人間に
人の世に慣れ、野生における勘の鋭さを磨くことができないのは痛手に思えたが、背に腹は代えられない。死ぬわけにはいかない。
生き抜いて、必ず――この世のどこかにいるはずの小鳥を、見つけ出さなければ。
***
「初めまして」
男とは、研究所で出会った。
飼育されている他のポケモンには目もくれず、奴は真っ直ぐに歩み寄ってきた。あのときのことは忘れもしない。今と寸分たがわぬ胡散臭い表情が、忌々しくも未だ脳裏に残っている。
「君ですか。
高い自意識、トレーナーの命令無視、脱走癖と、ピカイチの扱いにくさで愛想を尽かされ研究所への出戻りを繰り返している札付きの問題児というのは」
すべて事実だ。
そして、それを初対面の挨拶で平然と並べたててくる男を、すぐさま嫌いになった。
胡乱な者を見る目をしたが、相手はどこ吹く風で話を続けていく。
「君には何か目的があるんでしょう? だから強さを求めている。
聞きましたよ。我流で鍛錬を重ねる日々なんだって。まさに、群れることなくひたすら己を鍛えて高みを目指す孤高の者…だがそれゆえに決して他と交わらず、揉め事が絶えない爪弾き者でもある」
したり顔で、知ったふうな口をたたく。煩わしいことだ。
上を目指して何が悪い。
こちらは早く最終進化まで遂げなければならないのだ、時間はいくらあっても足りない。
強くてニューゲームとは聞こえがいいものの、前世で培っていたものを活かすには、ケロマツの肉体はあまりに脆弱だった。どれほど高性能なソフトがあろうと、マシンスペックが追いついていないのならお話にならない。
研究所は、新前トレーナーに旅の心得を説くだけでなく最初の
「ポケモンは、残念ながらひとりでは強くなれないんです。トレーナーがいて初めて力は高まる。…僕は、それを知っています」
ひとりでは無理だと指摘された。癪に障る。しかし、どこかで独りよがりな特訓の限界を感じていた時期だった。このときになって、ようやく、男の目をまともに見つめ返した。
そこに思いがけず、揺るがぬ決心が見てとれたものだから、少しは話を聞く気になっていた。
「君は、初めからトレーナーに多くを望んできたポケモンですよね。でも、物足りなかったんでしょう? 新人では、色々と上手くいかないこと、戸惑うことばかりですから。
通常、その困難に寄り添い、共に乗り越えながら成長していくものなんですけど…何やら君は、その時間すらも惜しんで生き急いでいる。
じゃあ、その、絆を育む箇所をすっ飛ばしましょう。だから、僕を選んでください」
四年の辛抱ですよ。
男は、そう言った。
「確約します。
四年で、必ずや君を最強のゲッコウガにしてみせます。
僕にも生きていく上での目的があるんです。そのために、強くなることに貪欲な、上昇志向のあるポケモンが傍にいてくれると助かる」
手が差し出される。
長身の体躯から伸ばされたてのひらが、殊更に大きく見えた。
「さっきからしきりと、君は僕をはねのけようとしていますね。僕だってそうだ、君のことがとっても気にくわない。だから、…実のところ、僕らは同じ穴の狢なのかもしれない。目的のためなら手段を選ばない
つまり、君のこと、気にくわないから気に入りました。ビジネスライクといこうじゃないですか」
――近道、と判断した。
自分の見る目に狂いがなければ、いかに不愉快で胡散臭かろうと、実力確かな男だと感じた。
その手を取った。
どのみち、状況を打破する新たな一手が欲しかったところだ。それなりに役立ちそうな人間のようだし、利用できるだけ利用しておこう。
「初心者用のポケモンを、という希望に沿ってはいますが…」
後からやってきたプラターヌ博士の口調から「ホントにそいつでいいのか」という言外のニュアンスが察せられる。
「その、…なにぶん、話した通りに気難しい子なので」
「結構です。彼も了承してくれましたし」
あっさりとした男からの返答に、「ふむ」と博士は顎に手をあて思案顔を作る。
今までにも、こちらがくせ者だと分かるやいなや、己の実力を過信してか「自分になら御せる」と自慢げに言い放った挙句、結局は面倒を見きれずにトレーナーが早々に放棄…ということが何度となく繰り返されていたので、博士の反応も至極尤もなものだった。
「ちなみに、初心者用のポケモンとして選択肢に挙がるのはケロマツだけではありません。フォッコでもなくハリマロンでもない理由は?」
「…それは、」
男は、おもむろにウエストポーチを漁る。
取り出されたのは、小さなメモ帳である。
「この、やりたいことリストの中に『ケロムースで整髪』って項目があるんですよ。だから、ついでに」
はあ?
つくづく、掴みどころのない茫洋とした男である。
明らかに初心者用のポケモンなど必要としないだろう実力をにおわせておきながらケロマツを望み、強くしてやると豪語し、お次は何だ。ケロムース?
いったい何が目的なのか。何が真実なのか。この男にも当然裏があって、秘密を隠し持っていそうだということは明解なのだが――何はともあれ、こうして。
絶句する博士を後目にお辞儀をし、何食わぬ顔で通り過ぎる奇天烈な男に連れられて、出所と相成ったわけである。
***
で。
「皆さん、こんにちは!」
「「こんにちはー!」」
入学したての子どもらを前にして歌のお兄さんよろしく爽やかな声を出す男。語尾にポップな音符やら星やらがくっついていそうな口調だ。
事前説明皆無の状態で教卓隣の椅子に居座る羽目になったケロマツは、このとき既に憤怒の頂点に達していた。
同じ穴の狢。似た者同士ということは、この男とて相当に性格が悪いはずなのだ。我がことながら失念していた。そう、これを想定しきれなかった自身にも、相応に怒りを覚えている。
「今日から僕が皆さんの担任となります。分からないことがあったらどんどん訊いてください。
ここにいるケロマツと一緒に、ポケモンのことについて沢山お勉強していきましょうね」
「「はーい!」」
はーい!じゃねーんだわ。
なーにが「お勉強していきましょうね」だ。はっ倒すぞ。
「スクールの子どもたちと一緒にビギナーポケモンも成長していく…そういうコンセプトでいこうと思って」とは、あっけらかんと種明かしをした男の言である。
「スクールを卒業する頃には生徒たちも十歳になっている。新人トレーナーとしての第一歩を踏み出す子も出てくるでしょう。そういう意味でも、今のうちから初心者用のポケモンに慣れ親しんでおくのは悪くないんじゃないかと思いますし」
では何か。こちらはマスコット的な位置づけか。
ふざけるな。
話が違うぞ。
非難がましい視線を送ると、男は「約束を破ったつもりはないですよ」なんて戯れ言をしゃあしゃあと言い放った。
「あの、ですね。君と一緒に生活すること、君を強くすること、何かと物入りなんです。お金のために仕事をするのは当たり前でしょう?
退勤後、お望みどおりに特訓しますから。とは、なんと白々しい…と、思ったものだが、その点に関しては偽りではなかった。
実に腹立たしいことに、科学的な根拠を元にしながら課されたトレーニングは効率よく育成が進むには十分な内容となっていて、…悔しいが、独自路線では到達できなかったろう領域まで押し上げてもらった事実は、認めざるをえなかった。
ケロマツ、ゲコガシラ、やがて念願のゲッコウガへ。
生徒たちの成長と共に進化した四年間。しかし男の身勝手な退職もあり、五年目はやってこない。
だとすれば、今後はどうするつもりなのか。
「約束した満四年。次のステップに進もうかなって」
あくまでも、男は悪びれることなく微笑んだままだ。
「君は強くなりましたが、まだ足りないものがある――それは、多様な経験です。
井の中の蛙など言語道断。いよいよ大海に出ようではありませんか」
舞台俳優が決め台詞を発するように、男は高らかに言ってのけた。
「各地を回って武者修行!カロスのチャンピオンを目指して !!!」
…、各地を回ろうという提案に異論はない。ようやくこの
しかし、だ。
チャンピオンて。
こいつ大丈夫か。
ゲッコウガは、…かなり、とても、すごく珍しく、同居人の気が触れていやしないかと心配をするのだった。