旅支度は順調です。
唯一無二の、大事な手帳だ。
別に用がなくとも、何度も何度も手に取り、ページをめくってきた所為で、紙の端が手垢にまみれ擦り切れている。
表紙を開いた一ページ目、一行目に記されるタイトルは「人生でやりたいことリスト100」。
箇条書きにされている「やりたいこと」の中に「カリグラフィー」が含まれており、しかも、その項目には既に赤ペンで線が引いてある。「修了」の印だ。だから、紙面に残る「あの人」の筆跡は美しい。
本人の心の清らかさをも反映しているような、整った文字。それらを見ていると、彼の面影が見えるような気がして――悲哀と幸福とが同時に押し寄せてくる。いつものことだ。
やりたいことを思いつくたびに、彼は手帳に書き記していた。
「100」と銘打つからにはもちろん百個書き出す予定だったのだろうが、手帳に列挙された項目は、惜しいことに「99」で終わっている。
そして、あと一個が何になるはずだったのか、それを訊く機会が永劫失われていることを、僕は知っている。
だから、百個目は僕が書き足すことにした。
――リスト項目その100:チャンピオンになること。
***
君、は。
十歳になるまで、スクールに在籍し。
十五歳になるまで、より専門的なことを研究したいからとミアレシティにある高専で勉学に励んで。
二十歳になるまで、教師を志して努力を重ねていた。学んだことを広めたいからと、純粋で、泣きたくなるほど愚直な思いをかかえて。
そして。
――そして。
「やりたいこと」の中に、やはりと言おうか、彼なりの決意表明として「教師になること」が当然のように挙げられていたから、僕は教師になった。
四年制の学校で、それぞれの学年を一度ずつ受け持ったから、これでクリアということにしておこう。
そう判断したから、辞めた。
百個目の目標達成のために、本格的に動き出すことにした。目指す先が明瞭なのはいいことだ。まだ着手していない項目は沢山あるのだけれど、僕もいつ不慮の出来事であの世行きになるか分からないし、目下、チャンピオンになることが最優先事項である。
カロスから離れたとある地方では、あまりに過酷なことで有名なメダルラリーが盛り上がりをみせている。メダルは全部で「255種類」と、なんとも鬼畜な仕様。中でも「手持ちを一匹だけにしてポケモンリーグを制覇する」ことを取得条件とした『 ONE and ONLY 』なるメダルがあり、コンプリートの難しさを段違いのものにしている。
ただ、そのくらいの気概がなければ僕の目標達成は困難に思われた。だから、潜在能力の高いポケモンを徹底的に鍛えあげることで、極論、その一体でもリーグ挑戦が叶うようにと――腹をくくって以降、四年の歳月だ。瞬く間に過ぎていった。
スクール勤務との両立という点でも生半可なものではなかったが、驚くべき向上心を秘めたコウガくんは、ちゃんと食らいついてきた。
今ではすっかり、この辺鄙な村里で眠らせておくには勿体ない傑物へと育つに至っている。
***
元々少なかった私物を更に売りさばき、あるいは貸倉庫にぶち込んで、出立準備は着々と進んでいた。
その傍らで「マジかよ」という顔を隠さないコウガくんだ。いやマジだって。もう明後日には家を引き払う段取りもできているんだし。
先程から僕が彼を「コウガくん」と呼ぶことに疑問をお持ちの方に対してメタ的に補足しておくと、というか補足もクソもなくただの「愛称」というだけのことなのだが、これにはひと悶着あった。
最終的にゲッコウガになることを見越し、且つ蛙っぽく、ケロマツの頃から「ゲコくん」と呼ぶことにしたのだが、すこぶる嫌そうな顔をされまして。
僕もその反応にムカついたので、「ゲコくんという呼び名は幼名ということにしてあげましょう」と発案し、しばらくは、わざと彼を「ゲコくん」と呼び続けた。「最終進化までこぎつけたら別のニックネームにしてやんよ」と言ったら本気を出すのだから本当にいけ好かない野郎である。
でも、僕は、約束はちゃんと守ることをポリシーに掲げる善良な三十路なのであります。
で、あるからして、彼が無事にゲッコウガになったあかつきには、予てより温めておいた「コウガくん」の名を進呈することにしていた。
会心の出来だと思ったのに、これまた不服を申し立てる顔つきだったので「ンだよその面は。じゃあ、なんだ。
「気晴らしも兼ねて、近くの森まで行ってみますか」
室内の清掃もあらかた終えて、うんと伸びをする。
凝り固まった肩の関節が、ぱきぱきと小気味よい音をたてた。
「今年が冷夏だった影響で、北の森では餌不足らしいんです。この辺りでは見かけないポケモンたちが南下してきていると、ニュースで報道していました。
ひょんな出会いだってあるかもしれない」
ことバトルに関してはコウガくんだけで十分だと思っているけれど、負担過多になって故障してもらっては困るし、必要な時には諸々を分担してくれるポケモンがいてくれるといいかなって。
一応、こちらも考えあってのことなのだが、夕方の迫る時間帯を気にしてか彼は微妙な表情を見せる。あまり気乗りはしていない様子だ。
「無理にとは言いませんよ。今すぐメンバーを増員する必要もないし、しばらくは君とのふたり旅でも全く構いませんから」
そう付け加えると、打って変わって、すぐさまカラのボールを握らせてくる。
え、何。変わり身はやくない?「捕まえにいこう」って?
つまり僕との野郎ふたり旅なんざごめんだということか。ホントさァこのクソ
***
ま、分かってましたよ。
おいそれと都合よくいくわきゃァない。
しばらく森を散策しながら、そう思い始めていた。いや、本腰を入れたら違ったのかもしれないが、何せ時間が足りない。確かに、本来ならこの土地に生息していないはずのポケモンたちも幾らか見かけたものの、「これぞ」という決定打には欠けていたし、夜行性のポケモンを捕まえようと意気込むほど熱意を持ってやってきたわけでもない。
出直すか、やっぱり、旅の途中で機会あらばゲット…という方向でいくしかなさそうだ。
「だーから言ったろ見切り発車野郎が」みたいな、コウガくんのせせら笑いが超ムカつく。
はいはい。おとなしく引きさがりますよ。
帰りしな、ついでに夕飯の買い出しでもすればいい。だから「そろそろ帰りましょう」と言うつもりだった。
それは終ぞ、口をまたいでくることはなかったのだけれど。なにせ、数秒後に聞こえてきた羽ばたき一つが全てを丸ごと覆してしまったものだから。
今にして思えば、その羽音こそ運命の到来を告げていたように思う。
夕陽に染まる視界を横切っていった紅の翼が目を奪うほどに美しくて、思わず彼の行方を追いかけていた。
枝上に舞い降りたのは一羽のルチャブル――野生の個体は初めて見る。腕と一体化したような独特な形状の翼が、バトルシャトーのナイトたちが羽織るマントみたいに、華麗にひらめいていた。
「醒めるような立ち姿ですね。そう思いませんかコウガく…ん…」
隣を見遣った瞬間、言葉を失ってしまう。
それなりに、彼の表情は色々と知った気でいたのだが、…これほど何かに魅入られるような顔は記憶にない。
雷にでも打たれたんですかってくらいの、著しい衝撃を受けたその様子。目の色を変え、瞬きすることも忘れて見開き、食い入るようにルチャブルを凝視している。
彼が、割と冷めている性格であることは付き合い始め早々で理解したし、スクールの生徒たちにそつなく接してくれていた一方で、内心では渋々であったことも承知している。
強くなること以外は殊更貪欲な姿勢も見せない、起伏の小さい忍者。そんな印象だった。
その、コウガくんが。
「何です、その熱視線。相手として不足なし、ってことですか」
声をかけると、やっと我に返った。
それだけにとどまらず、間髪入れずに、睨みつけるような苛烈な目力で威圧してくる。その燃える双眸が、「何が何でもあいつを捕まえろ」と、物語っていた。
「促されるまでもない。飛行と格闘の複合、タイプとしても優秀です。
是非、仲間になっていただきたいですね」
とうに、ルチャブルの方もこちらに視線を向けて品定めをするように様子をうかがっている。
意識してくれるとは光栄、上手くバトルに持ち込めそうだ。
「僕のゲッコウガは強いですよ。
どうです、そこのルチャブルくん。手合わせ願えませんか」
呼びかけると、少し考えるように目を細め――ルチャブルはひらりと着地し、対峙してきた。
隙の少ない臨戦態勢。この構えからして既に、手練れであることをうかがわせる。
「…水手裏剣で先制、そこにどう対応するのか相手の出方やポテンシャルを見ましょう。
とは言え、君、ぶっちゃけ耐久が紙切れですからね。あまり長引かせたくないので、展開次第では冷凍ビームで即決です」
一言余計なんだよという苛立った目つきには、さらりとシカトを決め込んだ。
さあ、せっかく相手をしてもらえるのだし、仕切り直していこう。
その一言で、火蓋が切られた。
誇張なしに、チャンピオンになるという夢物語が現実味を帯びるほど、調整に調整を重ねた自慢のゲッコウガだ。無論、勝つに決まっている。
でも、戦いを長引かせたくないと言ってコウガくんを送り出したはずの僕が、このバトルをいつまでも見ていたいと思わず願ってしまうくらい――両者の戦いぶりは全く
息をぴたりと重ね合わせて、まるでダンスを踊っているかのよう。
相手を打ち負かすというより、競い合って楽しんでいる。それが、ひしひしと伝わってくる動きだ。
序盤でお目にかかれるレベルではない。
真に、最初からクライマックスである。
そもそも、ルチャブルというポケモンそのものが格闘タイプ屈指のスピーダーだ。コウガくんの相手を難なく務めているあたり、更に抜きんでた素早さの持ち主であることが分かる。
攻撃のキレ。技の威力。攻守の切り替えに身のこなし。
どれ一つとっても一級品だった。小手先の作戦なんて通用しない。このルチャブルを育成したら僕の思い描く理想の結末が盤石のものとして約束されるだろうと、そのことを確信させるだけの実力を持った一羽だ。
これほどの猛者を目の当たりにすれば、よくぞ他のトレーナーに捕まりもせず野生に残ってくれていたと、感謝を捧げたい気持ちにもなってくる。
否――強者ゆえに、誰のものにもならなかったのか。
一種、場は神聖な空間になりつつあった。
自ずと宗教施設を思わせる。教会の礼拝堂に入ったときの、あの、心が引き締まるような厳粛な感覚。
これが事実上の頂上決戦ではなかろうかと、自身の体さえ、熱く高揚していく。
非公式のバトルであることが信じられない。仮にこれが公式戦であったなら、間違いなく、名勝負として後世に語り継がれることになっただろうに。
「――
名残惜しいが、どこかで幕を引かねばならなかった。
腹の底から大声を張り上げる。折しも、ルチャブルが膝を屈したところだった。
「容易く平伏しない…最後まで天晴れですね」
近付くと、真っすぐに、眼差しが射貫いてくる。
さながら
「君は逸材だ、もっと強くなれる。こんなところで終わっていいはずがない」
この手を握り返してくれる。
そう信じて、差し出した。
「僕たち、ちょうど旅立つところなんです。一緒に外の世界を見にいきませんか。
今ならなんと、コイツと組手し放題という特典付き。鍛錬の相手には最適かと思いますが」
きっと、それが後押しだった。
強くあろうという彼の雄々しさが、コウガくんとの切磋琢磨の道を選ばせたのだろう。握り返された手は、僕と比べればとても小さいものだけれど、戦闘直後とは思えぬ驚くほどの力強さがあって、握手したその箇所が、まるで互いを結わえつける結び目みたいな有様になった。
大した抵抗もなく、かたりと一度揺れただけで、彼はモンスターボールの中に納まってくれた。この森に来た当初には予定になかった充足感が、心の中を温かく満たしていく。
「では、さっそくポケモンセンターに…」
って、オイ。
だからさァ。…さっきから何なのコウガくん。
自分だって決して無視できないダメージを負っているだろうに、物ともしない。ルチャブルが入ったモンスターボールを両手で恭しく包んで、じっと見つめる姿がそこにあった。