放課後の校庭で 課外授業な愛を知る/相対性理論『地獄先生』
「あのね。
私、教室の窓ガラスを割っちゃったの。たった今」
「…それは、僕ではなく、担任の先生に言いましょうね」
「分かってるよ。先生に言ったのは、もうこの人に言っちゃったんだから担任にも言わなきゃダメだぞって、自分に分からせておくためなの」
「なるほど。君なりの背水の陣というわけですか」
教室を出て最初に廊下で出会った人が先生だったから、わけもなく、私は嬉しい。
「ガラスの破片はどうしたんです?」
「箒で掃いて集めたよ。教室のすみっこに」
「教室にはまだ誰かいるんじゃないですか」
「ううん。もう私だけ。誰かが忘れ物を取りに来るなら別だけど」
「…分かりました。他の生徒が怪我をする心配はなさそうですね。
君は?手を切ったりしてませんか」
「うん」
そうなのだ。
この先生は、「何をやっているんだ」と、頭ごなしに怒ったりしない。
だから、自分が悪いことをしたって分かってても、ちゃんと、正直に話せる。
「先生。学校でガラスを割ったらどうなるの?」
「保護者に連絡がいきますね。通常、弁償です」
「そっか」
親に電話されるんだ。
当たり前か。で、家に帰ったら怒られるわけね。たぶん、また「あんたはバカだから」って言われちゃう。
「…後悔していますか」
「え?」
「ガラスを割ってしまったと正直に話したことを、ですよ。
黙って帰ってしまえばバレなかったかもしれないじゃないですか。親御さんにも怒られずに済む」
「…、…それじゃ、天国のおばあちゃんとの約束を破ることになるんだもん」
「約束?」
「そう。最善を尽くしなさいって、約束。
…私にとっての最善は、ちゃんと、学校のものを壊しちゃったことを反省することなの。逃げることじゃない」
すると、先生はかがんで、私と目線を合わせてくれた。
「ガラスを割った事実は消えないし、気を付けていれば防ぐことができた不注意だったかもしれないし、きっと君はこれから叱られるのでしょう。
ただ一つ、僕が君を評価するとしたら、…その誠実さです」
「ほんとにそう思う?」
「はい。君の話を聞いたときから思っていました。
君は『ガラスを割った』と言った。これが、僕には重要なことであるように感じます。
…よくいるんですよ。『ガラスが割れた』と報告してくる生徒が。ガラスがひとりでに割れることはないのに、どこかで言い逃れをしたい気持ちが、そんな言い方にさせてしまうのでしょうね。
ところが、君は『自分が』『ガラスを』『割った』のだと、責任を自ら引き受けたうえで話しに来てくれた。選んだ言葉一つにも、自然と、君の最善が尽くされている」
君の中では、おばあ様が生きていらっしゃるんですね。
先生の声は、優しい。
「…何だか変な言い方だよね。もう、おばあちゃんはいないのに」
「いいえ。変ではありませんよ」
先生は、初めて、私の頭に触れた。
撫でてくれるなんて思いもよらなくて、私は、緊張してしまう。
びっくりするくらい、大きな手だった。
「人は、二度、死を経験すると言います。
一度は肉体的な死、そして二度目に経験するのは――忘却による死…」
何かを思い直したように、先生はすっと膝を伸ばした。
だから、置かれていたせっかくの手も、静かに離れていった。
先生の視線はどこか遠くに向けられていて、でも、たぶん何も見てなかった。すぐ隣にいる私のことさえも。
きっと、今、先生は、ひとりで立っている。ここにいるけど、いなくて、ひとりで、誰も入れない先生だけのどこかに、立っている。
「愛する存在が一度ならず二度までも消えるだなんて、悲しいですよね。
だから…
忘れぬ限り、真なる死は訪れない。
だから思い出せばいい。何度でも。
だから覚えていればいい。永遠に。
誰よりも幸せになるべきだった存在が、誰からも忘れられてこの世から消滅するなんて、そんなことが許されていいはずはない。
「 僕は彼の死を承服しない 」
――ね。
先生の黒い視線が、私に定まる。私にはまるで意味の分からない外国語のように聞こえたそれらを、私に聞かせたいわけではないそれらを、呟いて、そのくせ、先生は私に同意を求めてきた。
「うん」と、返した。それ以外を返せなかったし、返しちゃいけない気がした。これって最善だよね。おばあちゃん。
「職員室までついていきましょうか」
先生は何食わぬ顔で、そう言った。
「ううん、大丈夫。私ひとりで行けるよ」
私は、走る必要もなかったのに、なぜか、怖くなって走りだす。
「またね!」と言って、手を振ってみせる。
すると、先生も振り返してくれた。「またお話しましょうね」なんて、いつも通り、社交辞令まるわかりのトーンで。
何となく、だけど。
私は、この日のことを、この先生のことを、これからもずっと覚えているだろうなと思った。
だったら、ずっと、先生は死なないんだね。いつか私の前からいなくなる日が来てもホントの意味ではいなくなったりしないんだ。私が忘れなければいいんだから。おばあちゃんと一緒。そういうことなんでしょ。
ねえ、先生。