忘れていたり、忘れていなかったり。
「酒」を察知した瞬間、脳内に一つ一つ「名前を付けて保存」されている
こうしちゃおれんとなるのは当然で、今世の彼が「酒に弱いのか」「酔ったらどうなるのか」確認するという重要ミッションが課されたのだった。無論、強制イベントである。
自分用に貰ったホットカクテルなんぞ一口で処理して、あとはひたすら、ルチャブルを見つめていた。
ワインの芳醇な旨味を吸った果実と、果汁の甘みが溶けだした紅茶と、どちらをも気にった様子で、それらを初めて口にした新鮮な喜びも露わに、ルチャブルの表情はシフォンケーキみたいに柔らかくなっていく。
時を追うごとに愛らしさを増し、反比例するように言葉数を減らし、徐々に見覚えのある色香が濃くなっていった。
やがて、彼は予想を裏切ることなく身を寄せてきた。そこに恥じらいはなく、ただ幸せそうに、こちらを信じきって。
もちろん嬉しいし、何なら欲情もするのだけれど、それ以上に――これほど素直に甘えてくれるということは、この仕草相応にルチャブルもこちらを好いてくれているのだろうと感じられて――その根源的な幸福を前にすると、刹那、自分がとても美しいものだけで構成されているかのような清浄無垢の心境が到来した。
同時に、脳裏をかすめる他の感慨もある。
己がどれほどの幸せを味わおうと、彼は、このひとときを共有してはくれない。
眠りから覚め、酔いから醒め、その瞬間を迎える頃には全てが空白になっていることだろう。
少なくとも「前」はそうだった。
そのことをも一興と楽しめていたかつてとは違い、今は――。
今、は。
火の粉が散る。
くべられた焚火の枝が灰となってかさりと崩れ落ちる。それら微かな音が、辺りに響く。
別段、気を遣ってもらったとも思わないが、ふと我に返ったときには周囲にその他の
酒が入ったためか心なしにも体温を上げて、そんなルチャブルにくっつかれている左腕が、やけにぬくい。目元や頬に朱を刷いて、柔らかな色気を放って、翼を絡めて、密着して…こんなにも可愛い仕草ばかりを見せておきながら、今の彼には何一つあざとい狙いも企みもない。彼の些細な逐一にこちらが一喜一憂しているなどとは思い至ってすらいない。彼自身が「そうしたいから、そうする」だけだった。どこまでも。
だから、たぶん。
不意に身じろぎして。予告も何もなく。彼から口付けてくれたのも。…そうしたいから、そうした、だけ、なのだろう。
一瞬だった。
その一瞬があれば、こちらの心身が崩壊するには十分すぎるほどだった。
恣意的にとんでもないことをしでかして、それなのに素知らぬふうで、彼はにこりと微笑んでみせる。
『…御主も大概だな』
抱き寄せてみても、「その先」をちらとも予感していない様子で不思議そうにするばかりだ。
本当に、どうして、この小鳥は…こうも。
――残酷、なのだろう。
ルチャブルの中に、前世の記憶は残っていない。承知している。あの愛しい日々を分かち合うことはできぬと先から理解している。ただ、その点で、一つ気になることがあった。
今の状況が成立するには、ルチャブルがあの死後の世界で「くじを引いたがはずれた」あるいは「そもそもくじを引かなかった」という事柄が生じていなくてはならない。
どちらだったのだろう。
ルチャブルも自分と同じようにくじを引こうとしてくれたはずだと、…所詮、それは己の身勝手な願望に過ぎない。彼の性格上、…端からくじを引くことはなかったろうと想像がついたし、恐らくこの推測は当たっている。
ルチャブルのことだから、くじを引かなかった理由にはきっと筋が通っていただろう。それでも尋ねてみたかった。なぜ、と。
御主は、全てを忘れることになっても平気でいられたのか。
拙者と積み重ねてきた時間も、想いも、御主は捨てていけたのか。
――…否。
違う。女々しいことを考えるな。ルチャブルだって、ふたりで紡いできたものを大事にしてくれていた。そう信じたい。
嗚呼、実際のところを知りたい。安心したい。
それなのに、答え合わせは、永久に叶わない。
ならば、せめて。
もう、これ以上――忘れてほしく、ない。
『覚えておいてくれないか』
相手は急に難しいことを言われたみたいな顔できょとんとしているが、構わずに、囁く。
『初めておまえからキスをしてくれたことも、…これからオレがすることも、全部』
口を開けて。
そう求めれば、言われるがまま小鳥は素直に従った。疑いを露ほどもいだかない無防備な口に、手加減もなく、己の舌をねじ込んだ。
『ッ!』
酔いどれの頭でも驚きは感じるのか、ルチャブルは目を見開いた。反射的に押し返されたので、その動きを封じるように手を取り、そのまま引き寄せて両腕の中に閉じ込めていく。
『…ン、…』
――ずっと。
ずっと、ずっと、ずっと。長い間、聞けていなかった、微かだろうと間違いなく色をのせた、声。
今まで、ちゃんと我慢をしてきたつもりだった。ある程度は、「順を追う」という行儀の良さも覚えた。「以前」は手ひどく抱いて、泣かせて、傷つけたこともあったから、「今回」こそは大事にしようと、無理強いを始めとした乱暴なことはすまいと、自制に努めてきた。
その甲斐あって、最近になってようやく、彼も軽く触れる程度の口付けなら慣れてきたところだったのに、…もう、こんな声を聞いてしまったら、勢いづいた興奮に対応できるはずもない。
鼻にかかるような甘い音が漏れる。より隙間を埋めるようにぴたりと口を重ね合わせたらもっとこの媚びるような小鳥のさえずりが聞けるのではないかと、舌でまさぐる。
小さな口の中は果物の香りに満ちていた。いい加減に胃へと流した先程の飲み物を、ルチャブルを通じて改めて飲み直すように、執拗に味わっていく。
もう一度この一羽の何もかもが欲しいと、己の心が叫ぶがままに、貪った。
彼の身体がくたりと弛緩した頃を見計らって一度口を離すと、いつのまにか、琥珀色の双眸はとろりとした蜂蜜色へと変化していた。
篝火みたいに熱で揺れて、すっかり美味しそうに潤んでいる。
『…もっと』
理性も溶けてしまったらしい彼が、普段では考えられないような様で、ねだってくる。この時間を終わらせたくないという思いは己とて一緒だが、途中で歯止めがきくかどうか、その自信はあまりない。
『そんなことを言うと、…一晩中、放してやれなくなるぞ』
冗談と本音をちょうど半分ずつの割合で混ぜて忠告してやったが、ルチャブルは躊躇いなく『それでもいい』頷いてきた。
『もっと、おまえのことが』
しりたい。
と、この期に及んでそんなことを言ってくるから――骨抜きにされるしか、なかった。
『…これから、いくらでも教えてやるでござるよ』
形容しがたい想いに、胸が灼かれる。
快楽の痕跡をどこかに残せたらいいのに――そんな愚かなことを考えながら、幾度も、最愛へと口を寄せていく。
***
早朝だった。
誰よりも先に目を覚ますルチャブルは、夜間に酔おうがその習慣は変わらなかったらしく、そっと起き上がる気配がした。せっかく隣にあった温もりが消えてしまったことで、併せてこちらの目も覚めてしまう。
『…ルチャブル?』
声をかけるとぎくりとした様子で振り返ってきて、…そして。
目が合った途端、起き抜けとは思えないほど、見る見るうちに頬を赤らめていく。
思いがけない反応に驚いていると、彼の手が伸びて、これ以上は何も言わせまいとするかのようにぐっと口を塞いできた。こちらの状況整理が終わっていないうちから、『忘れろ』と、一言。
『おまえが余計なことを言うから』等々、どこか苛立ちも滲ませつつ苦々しく呟いて、…居たたまれなくなったのか、ルチャブルはテントから逃げるように出ていった。
不器用な彼の、その心の在り様や、手触りのようなものまで分かるような態度だった。
唖然とその後ろ姿を見送った後、数秒遅れて、笑いがこみ上げてくる。どうにか声を噛み殺して自分も起き上がり、彼を追うことにした。
何を忘れてほしいのか。
逆に、彼は何を覚えているのか。それを確かめたかったから。
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わすれないでっていわれたから、おぼえておかないと。
たくさんきすしたことも、だえきのあじも、したのかんしょくも、しんぞうがいたかったことも、げっこうがのことがすきってきもちも、ぜんぶ。
そのあとで ねむっても、おきたら おもいだせるように。