いつも地下室へ続く扉にかかっている錠が外れている。錠があろうと湿った木製の扉は蹴り破れるがこの錠はいわば進入禁止を示す看板だ。そして扉に近づくと引き止めてくる使用人も父について出払っている。我ながら子供、吸い寄せられるようにして扉の奥に足を踏み入れていた。
「……、」
中は真っ暗。足元のカンテラに火を灯す。そこは恐ろしく長い石の螺旋階段だった。自らを軽く超える深い闇におののく。夜の王が闇にびびってどうする、先へ進め。
夜目も利かない完全な黒を切り裂き降りる。円を何周したかわからない。どこまで行けども同じ石の壁が姿を現すのみ。しかし上から下へ、若干の風が吹いていることから、これが必ずどこかへ通じていることはわかる。
父がこんな話をしていた。この大地は少なくともケーキのような板状ではないと。どんなに広い平野や湖、また海も、絶対にどこかで視線が地に落ちるのだから。そしてその落ちたところを繋いだものを地平線、水平線と呼ぶ。
水を器に注ぐと水面が水平になり、大地に注ぐと曲面になるのは、地中深く、大地の中心にある点が水なり地なりを引っ張って、水面を扇形にするからだと、彼は力説した。あまりにもスケールが大きく、また突飛な考えで、私にはよくわからない。
としたら、この深い竪穴は最後にどこへ抜けるのだろう?父の言う〝引っ張る点〟があるのなら、深く掘るにつれて〝壁が地面にな〟るはずだ。しかし、依然として足は石の階段についている。やはりよくわからない。
しかしこれはただの杞憂に過ぎなかった。少なくともこの竪穴についてはそう言える。階段は突然に終わり、明るく広い、石でできた部屋へ続けた。光源は、油の入った樽の口に布を詰め火をつけたものらしい。よくできている。
地下にそぐわぬ木製の家具たちが円形のこの部屋を囲んでいる。一番奥に天蓋とレースのついた白いベッド……三人くらい並んで寝られそうなほど大きい。そしてこの部屋のどんな異様よりもずっと異様な何かが、円の中心にあった。
人形?自分くらいの頭身、身長の人形だ。後ろ手に縛り正座を前に倒した姿勢で、……背中に樽を乗せてある。新手の拷問でも研究しているのか?足繁く地下に通う父、地下から戻らない妹……まさか。いや髪が、髪の色が違う。姉妹揃って薄紫のはず。この子は金髪、あるいは脱色か。
背中に生えているのはもはや羽ですらない。何だこれは?指のように細い枝に、一対八種の……
嘘だ。こんな。
胴に括られた樽を下ろし手も解く。樽の中身は水らしく、私の体重の何倍もあるようだ。
「……フラン?」
血反吐を吐く彼女を横向きに寝かせ顔を合わせる。髪も羽も変わってしまったがその顔つきはまさに姉妹を証明していた。
歪な羽を色づかせているのは、私がプレゼントにと選んだ、爪を模したであろう一対八種の宝石だった。
「お姉様、どうして……その樽を戻して。お願い、お父様に叱られる」
潰れた肺から必死に紡いだ再開の言葉がそれだった。何が何だかわからない。
「何言ってるの。あのままでいたら死んでいたかもしれない」
「お姉さまこそ……せっかくお父様が用意してくれたのに」
彼女は静かに怒っている。本当にわからない。何ができるかわからないがとにかく彼女を休ませねば。
大きなベッドの右端に改めて寝かせ辺りを見回す。もう二つ、部屋が延びていた。そのうち一つに入ると、浅い井戸、調理器具が見えた。それと樽の火を使い湯を作ろう。
水を張った鍋を樽の火で温めていく。人肌より少し温かくなったところで上げ、一部を木のジョッキに移して塩をひとつまみ加えた。
フランはあのまま微動だにしていなかった。うわ言から暴れられても困るが。そっと上体を起こして塩湯を飲ませる。
真水よりも塩水のほうが多少吸収が早いと何かで読んだが果たしてその効果を今得られているかはわからない。自分なりに最善を尽くしている。
さすがは吸血鬼、潰れた肺はすでに回復を始め、呼吸も深くなっている。べたつく血を湯と布で拭い話す。
「へへ。お姉様」
「どうしてこんなことを?もう一度話して」
「お父様。がんばれば与えてくれる。綺麗なドレスとか、……愛を一つずつ、とか」
「がんばる……それで、お父様はなんて?」
「無償の愛って言ってた。本来ものが現れることのない、純粋な、無形の……なんだろう。よくわかんないや」
無償の愛。少なくとも自分が知る限りの愛は、惨たらしい拷問の先にあるものではない。吸血鬼が家族を傷つけることはないと父は言っていた。では、フランは……
「その、前と随分見た目が変わっているようだけど。どうしたの」
「ふふ。この宝石、お姉様が選んでくれたって。こうして会うまでの短い間、お姉様との唯一のつながりを持っていたわね。大切なものだからって、お父様が羽を作り変えて、つけてくれたの。髪も、より綺麗になれるようにって」
もし彼女の言葉をそのまま受け取るとしたら、父は今まで自分が思い描いていたような、〝立派な〟吸血鬼なんかじゃない。どこか決定的に歪んだエゴイズムを、実の娘に吐き出す悪魔そのものだ。
……きっと、糾弾すれば「悪魔だからこそ悪魔らしく振る舞うのだ」とか言うんだろうな。
自分は受け入れられない。無二の妹を踏みつけるなんて。
父が帰ってきたら、今までと同じ態度はとれそうにない。かといってこの地下を見たことを知ったら、自分も何をされるかわからない。……フランはその〝何〟を食らっているのに、いざ自分となると余計怖くなる。フランのことはまだ他人事と考えている節があるに違いない。……自分が嫌になる。
「フラン。お父様が帰ってくるまでは休むこと。それからのことはまた考えましょう」
「えっ、でも、お父様に叱られちゃう」
「死ぬか叱られるかよ。いざとなれば私が叱られておくから。ね」
食事を作らねば。きっと給仕も来やしない。火の消えたカンテラを持ち暗い階段を手探りで上る。
フランは地下でどんな生活をしてきたのだろう。幽閉と聞いてまず案じるのは教育だ。クソッタレの「おみ作法」の話でなく、常識と言える生活上の感覚や、広い世界にまつわる知識、失敗だらけの錬金術に、文学、頭痛を呼ぶだけのディオファントス著「算術」……
また父の話になるが、人が前へ進むのに必要なのは、その場を繕うための礼節でなく、それまで無駄とされてきた、腐った宝だと彼は言う。アルキメデスの投石機のように何十年も埃を被っていた発明が突如活躍することがある。しかしこの例えでいくならばその国はローマ帝国に滅ぼされている。
これだけ父に不信感を抱いておきながら、出てくる知識はほとんど、その父から授かったものなのだ。家族、親子という立場上仕方のないこととはいえ、なんだか癪に障る。
あまりに様々案じてしまう。情報が少ないせいだ。もっと聞き出さないと。衣食の問題――いや問題があるかどうかもわからない不安がある。
「暴れないの。急所外されて困るのは自分でしょ」
捕食者のくせに人を殺したことがない。勝手がわからないので、牢の囚人の首をマチェーテで斬り血を集めることにしたのだ。家畜の血抜きを思い出し首にした。
昨日の父みたいに腕を真っ赤に汚してしまった。濡れずに血を集めるのは至難のようだ。確かに給仕はいつもまくった腕を汚している。なかなか苦労が多いようだ。
結局、集めすぎた血を活用することはなかった。手の混んだ料理など作ったことがない。ピッチャーに入れた血とカップを持って地下へ向かった。
フランは赤い比較的質素なドレスに着替え……〝替え〟じゃない、着たのだ。ドレスを着て私を迎えた。なるほど美しい。悔しくも感嘆する。父のイカれた美的センスはイカれてなどいなかった。
「はいこれ。たくさん持ってきたけど飲み干さなきゃいけないわけじゃないわ。好きなだけどうぞ」
そして安心するところもあった。ピッチャーに直接口をつけ一息に飲み干してみせたのだ。よかった、私の妹だ。
「……よく、ここへお父様と一緒に人が下りてくるでしょ。何しに来てるの」
ここでこころなしか彼女の顔が陰る。
「……好き勝手やってく。人間はいいのよ、あの大きなベッドで横になって抱かれていればいいんだもの。アージェント卿が……」
卿とはいうが階級ではない。吸血鬼が表立って国に関わることはない。これはただの敬称というか。
Urgentを父がまた島の発音で読む癖で、(更にカタカナ音写で)アージェントとしているが、実際は違う。自分もよく父の読みを真似していたせいでこちらで慣れてしまった。まさかフランまで同じだったとは。
「――ごめん、もういいわ。ありがとう」
かける言葉は見つからなかったし、かけてよいものかもわからなかった。とにかくここで言葉を遮ってしまった。もう後に続く言葉を聞きたくなかった。
あたり前のことのように淡々と地獄を語る彼女が信じられない。どこか夢のようでさえある。考えたことが全て雲のようにただそこを漂っていて、受け止めようにもしようがない。
「ねえ、地上に出てみたくない?こんなところよりもずっと広くて――」
「嫌」
何を喰らっても水のようにぬるりと抜けるようなイメージのあったフランの声が、突然、石のように固くなって飛び出した。思わず怯む。
「広い世界を見たら……ここにいられなくなるでしょう?この部屋が、苦しみでしかなくなる気がして。いつまでここにいるのかわからないけど、いる必要がなくなったら、一緒に上で遊びましょう」
初めから父に負けていた。直感した。あえて世界を拒絶するほどに長く、ここに縛られているのだ。今何か失ったわけでもないのに、とてつもない喪失感が全身を掴んで離さない。
本当はこんなところから一秒でも早く逃げ出したかった。このしがらみから開放されて、自分だけ忘れてしまえたら。
「……お姉様?泣いてる。どうしたの」
「ごめん。なんでもない。なんでもないの」
フランの拒絶が頭から離れない。何も反論できないでいる。あのままただ外への羨望を募らせるのは酷だろう。しかしあんな狭い部屋に何年も閉じ込められているのを放っておくこともできなかった。
幸い、知的好奇心は旺盛で、運んできた本を食い入るように読み漁り、どうしようもない語彙の障壁は、自分ができるだけ横にいてやることで対処した。幾何学の才もあるようで、定義と定理を与えると、私もずっと悩んでいた、単純ゆえ気づきもしないような問題の解法を、閃きでねじ伏せてみせた。
これもしあわせというのだろうか。じめじめした地下室で二人、独自の広い世界を拓きながら考える。きっとこれも父は答えを持っていて、変な理屈でしあわせと言うんだろうな。何も好転してはいないのに。問題を先送りしているだけなのに。
そしてその先送りのツケが、以外にも早く訪れた。
「主の名を呼ぶものはみな不義から離れよ……」
フランが聖書の「テモテへの手紙」を読んでいて、その隣で逐一場面の説明をしているときだった。
「カンテラがないと思ったら……君が来ていたのか」
階段を音もなく下りてきていたのは、すらと高い、全身藍一色、何でも見通すようなぎらついた目つきの……
「……アージェントさん」
「察するに全て知ったわけだ。それで、またいつもみたいにアージェントなんて呼ぶ。ふざけられる余裕があるとはね。思ったより君は薄情だな」
まあいい、そこを替わってくれ。次は私の番だ。
歩み寄るアージェントを前に二人固まる。
――ごめん。もういいわ。ありがとう。
続きを聞いていれば、ここで抗戦する決心もついていたかもしれない。いつもあんなに優しいアージェント卿が、私の妹に何もするはずがない。そんな希望的観測が頭に少しでもあった。
フランが私の袖を握る。たまらなく怖かった。目の前の彼は既に自分の知る雰囲気を纏ってはいなかった。
隅へ追いやった鼠の頭に猫が爪を置いて囁くに、
「横で見ていたっていい。どうしてベッドがこんなにも広いのか、わかるだろう?」
そのときフランがどんな顔をしたか知りようがなかった。怖くて見られなかった。私は彼の圧力に負け、フランの横を明け渡していた。
「大丈夫、今日は阿片もある。いつの間にか終わってるだろうさ」
恐る恐る顔を上げたときにはもう、ドレスも脱がされて、それこそ人形のように、四肢もうなだれ、されるがままとなっていた。
「切る直前に飲ませたほうがよかったか?まあいいや、まだ残ってる」
しばらく身を撫でまわした後、フランを深く抱き込んで、容赦なく腰を打ちつけ始めた。呻く彼女もお構いなしに、まるでモノでも扱うような具合に。
また夢のように呆然と、眼前の狂気を見つめるだけで、これ以上感情が湧いてはこなかった。気づいたことがある。これを乖離というんだっけ――
そんなことを考えながら、ただ私は、喰い散らかされていく妹に手を伸べるでもなく、そこに、いた。
とはいえ、フランを犯していることは、人間たちと変わらない。このとき、私はまだ、彼の狂気の何たるかを知らないでいた。
「うぁ、あ」
破れそうなほど大きなベッドの軋みがぴたりと止まる。肩で息をしながら、内側に丸めた胴と四肢で、貪り、劣情を爆発させたその余韻に浸っている。
「最高……最高だ……さ、土産をいただこう」
床の鋸と匙を取り出す。そのうちの鋸を、仰向けに寝かされたフランの左腕にあてがった。そこでようやく、私は夢から醒め、彼の腕を掴み引き止めた。
「だめ。お父様の友人とか、関係ない。やったら殺す」
しかし彼の反応は期待していたものではなかった。鋸をこちらの額に持ってきて、静かに口を開く。
「いいか、私は君の父との約束でここへ出入りできているんだ。君の入る余地は本来ない。早くしないと。薬が切れたら大変だ」
精一杯の威圧も軽くあしらわれるくらいには、彼との力の差は大きいもので、それから彼に手は出せなかった。
「いっ、……だ……!」
わずかに残る意識でフランが顔をしかめる。ただ抗うでもなく、乱雑に切り離される左肩を見つめている。錆の浮いた鋸が、白いシーツを無慈悲に汚していく。
アージェントの手が高らかに挙げられる。胴を離れ力を失ったフランの腕が辺りに鮮血を撒き散らした。
「そうだ!この腕!フラン知ってるか、きれいに血を抜いて冷やしておけば、このちんまい腕は美しさを保てるんだよ」
次は匙。匙を右の眼球と瞼の間に食い込ませる。
「いっっっ、あああああああああ!!!!!!」
もう鎮痛は切れていた。押さえ込まれながらも足をばたつかせ暴れている。
「素晴らしい……!!完璧に取り出せた!」
まばたきを忘れた眼球を片手でつまみ愛おしそうに眺める。アージェントの興味はまるっきり、フランからその眼へ移っていた。
「自分の瞳をよく見てみたことはあるか?アルビノでもないんだろう、だのにこの紅ときたら!」
勝手に心酔し勝手に語る。相手としてフランを見据えてはいない。当の彼女は混乱の中に落ち、ただ喘ぐばかりでそれどころでもない。
「早く冷やしてしまわないと!じゃ、これで失礼するよ」
服をさっさと整え出ていってしまった。
どうしたらいいかまったくわからない。目の前には薬の抜けた瀕死の妹がいて、他にはなにもない。いずれ再生するだろうが放っておくこともできないでいる。
「……っは、お姉、様」
絶え絶えの息から私を呼ぶ。隣へ行くと自分に跨るよう残った右手で促した。
「!!!!」
腹が破裂するような激しく重い衝撃を受ける。見ると私の腹を、正面からフランの腕が貫いていた。
「……ごめん……、ありがと」
真意はわからない。わからないが、身を捩ることもせず、互いの涙をすり合わせるように、血と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を見つめて、私はそう応えた。
くそったれ。これでおあいこにしてやる。
渦中の妹のそばでただ首尾見つめていた私のジレンマを、これで認め解いてくれたように、私は感じた。