上に戻ると、無駄に長く豪奢なテーブルに一枚、書き置きがあった。
「君がいつまでも戻らないので、言いそびれたことをここに書いておく。君らの愛すべき父は明日の朝、帰る」
水を吸った重い扉が開かれる。
「やあただいま!無事帰ったぞ!」
あれだけ悩んだが結局、いつもの調子で振る舞う父に合わせるほかなかった。傍から見ればそれでも不自然でどこかぎこちなかったかもしれない。
今日はごちそうにしよう。その前に……少し待っていてくれ。できたら呼ぶよ。そうして地下へ消えた。
食卓に呼ばれて見たのは、文字通り肉林と呼ぶべき死屍だった。何体もの屍をわざわざ吊るすその様はまさに林。しかしただ薄汚い囚人を乱心のままに殺して回ったに過ぎず、ごちそうには見えない。
「ああ、言いたいことはよくわかる。いつもかわいい字で顔に書いてあるからな。ごちそうとは、これだ。頑張って用意したんだよ」
肝心のテーブルにはただ二人分、ワイングラスに注がれた真っ赤な血。席につき、向かい合って持つ。花より団子、さらには味より満腹。少し不満だ。
「こうも生臭くちゃ、風味もわからないかね」
「果たしてそうかしら」
グラスを傾けたその時に、私の身体は、時間は、凍りついて動かなくなった。
「どうした、うまいぞ。味は保証する」
なお変わらぬ調子でまくし立てる。どうして飲めようか。あれだけ悩み、そして吹っ切れたと言ったが今、その針は逆に振り切れていた。
グラスを置く。匂いでわかる。散々自分が浴び交わった、、、
きっと父は試したんだと思う。言葉は必要ない。グラスを置くことが、私の答えとなった。
「……そうか。お残しとは、悪い子だ。来なさい」
重い足でついていった先は、地下だった。その道中。
「アージェント卿が見えたろう。彼は何を?」
「……右眼と左腕を。どうして」
「どうして身体を持っていくかなら、趣味だ。あの美しい身体をいつか我がものとしたいらしい。どうしてこんなことを聞くかなら、今にわかる」
階段を二人、下りる。
「後片付けが上手だな。フランの服もベッドのレースもシーツも、何もかもに、シミひとつ残っちゃいない。アージェントの後は大変だったはずだ」
異様だった。あれだけ厳しく立ち入りを禁じていたのに、今こうして二人並んでいる。
「……わざとでしょう。錠も外して」
「結果、レミリアはフランの圧死を防いでくれた。比べたら些細なことだと思うがね」
「バカ、あんたがやったんでしょうに!」
怒りに任せて振った拳は片手で止められていた。
「すぐにわかる。もう少し待てないか」
フランは父の姿を認めるなり飛んで抱きついた。
「フラン、お疲れ様。改めてよく頑張った。右眼と左腕だったね」
瞬く間の出来事だった。ぶぢ、と聞いて見ると、再生した眼と腕を、父がまたも奪っていた。
慌てて止めに入るも頭を片手で掴み止められた。フランも嫌がりもせず父の胸に顔をうずめている。
――すぐにわかる。
この異様な構図の意味がすぐにわかる気はしなかった。
父は慈しみさえ覚える眼差しで、じっとフランを見つめている。この凶行を通じて、その慈しみはフランが一身に享受する。
「……フラン。少し、レミリアと話をしてくるよ。また会おう」
「お父様。必ず戻ってきて。お話したいことがあるの」
もちろん。言って二人、上へ戻る。
「……お父さん。すぐにはわからなかったけど」
「そう焦るな。上でわかる」
「レミリア、君は今、私を父とは呼ぶが、実のところ重犯罪者のように考えているだろう。結構だ、今のところは……そう思うような育て方を、したからね。吸血鬼の道にそぐわない、そう考えるのも、仕方ない。我々は同胞を傷つけはしない。そしてフランドールは、同胞以上に、家族である……それは君もよくわかっているだろう。私は――傷を以て、傷を癒やしているんだよ。
レミリア、私は君を、愛している。そして松ぼっくりを手渡したとしよう。すると松ぼっくりは、……我々の、愛の象徴となる。しかしどうだ、見ず知らずの他人がとっかえひっかえに松ぼっくりを手渡してきたとして、そこに愛を感じられるか?否。そしてその後、私がそれらと同じだけの松ぼっくりを持ってきて、娘に言うんだ。愛してる。そしてそれが、松ぼっくりが、フランの場合鋭い松の葉だった、というだけだ。
ある人間が歪んだ色欲を以てフランドールを犯し、ある吸血鬼が独占欲を以て右眼と左腕を切り離したならば……私は慈愛を以て彼女と交わり、また右眼と左腕を切り離し、痛む間彼女を抱き締める――それだけだ。
しかし君は見た。他人の行いとは関係なく、私が樽であの子を踏みにじっているのをね。簡単な話さ。松の葉を愛の象徴と認識させるための、言葉は悪いが、謂わば躾だよ。
考えうる疑問には答えたつもりだ。何か、あるかな」
この理論に疑問はない。ないが、獣を飼いならすような、そんな違和感がある。
「広い世界も知らせないで、あのまま腐らせるっていうの」
「だからこそだ。広い世界……案外狭いものだが、地下よりは広いこの世界を知れば、今までの生活に肩を落とすことになる。君が余計なことをしなければ、あの子はあのまましあわせを享受できる。そうだろう」
フラン自身、同じことを言っていた。彼女自身、父の意図に勘づいていた。二人の関係は、私の入る余地がないほどに完成されていて、かつ繊細なものだった。
「どうして私には……松ぼっくりを」
「吸血鬼は人間以上に欲深さを表出しやすい生き物だ。同胞を傷つけるなとは言うが、実際守られていることは少ない。アージェントがいい例だ……そして私に娘は二人いる。二人いれば何かについて争いが起きるもので。同じ育て方はできないんだよ。どちらかに充足を教える必要があった。それが彼女だ」
よどみない。言ったことに即答する。明らかな悪を、私は糾弾できなかった。
「わかるか、私は君に欲を持つことを許している。私も生存への欲を優先して抗うだろうが、私は君が自分の勝手で私を止めることを許しているんだ」
立てた理屈で動く大人と、感情に任せて暴れる子供。暗にそう揶揄している。
「もし全て、忘れてしまいたければ、私に言いなさい。いつでも消してあげよう」
反論できなくたっていい。殺す理由を探しているに過ぎず、また既に感情という理由がある。子供らしさに乗じてしまえばいいのかもしれない。あのまま放っておいたら大変なことになるのは明白だ。
……方法を思いつかない。喧嘩じゃ勝てないのは目に見えている。何か仕込もうにも、あの知覚と頭脳に敵う自信はない。
……先にフランの洗脳を解いてしまえば、あいつも諦めるほかなくなるのではないか?
地下でも体内時計が狂うことはない。一日の決まった時間に日課が勝手に進んでいく。宵の口に客が来て、遅かれ日の出前には帰っていき、入れ替わりで来る父に全力で甘えた後、また来客まで眠る。何度続けたか知れない。これからも知れない。
無限のうち今までの三分の一あたりで、父は時計をこの部屋に飾っていった。ひと抱えくらいの、小さな、低い円柱型の時計だった。それまで建物に埋め込むほど大きく重かった機械じかけのものを、とある錠前職人がここまで小型化したのだそうだ。この部屋のどんなものよりも細かい作りの部品がいくつも精緻に噛み合っている様子から、なんとなく壊してはいけないような圧を感じたため、ベッドから一番遠い箪笥の上にそっと置いておいた。逆に、腹が立ったとき、近くにあれがあると、なんだか冷静になれる気もしたが、もし壊してしまったら、と考えると恐ろしい。
甘えるときも怒られるときも、父が私にすることに変わりはない。が私を叱るとき、父の顔から一切の表情が消え、彼は機械のように、懲罰に徹する。これが私をたまらなく不安にさせるのだ。
さて、今時計は6を指している。階段から高らかに響く靴の音は今日の賓客だろう。
「やあ、この日が待ち遠しかったよ」
クワも持てるかわからないくらいに細い身に、みすぼらしい無精髭。街から父へ捧げる人間を選ぶ者の一人だという。この男は、なんというか、ここへ来る人間の中でとびきり愛がない。話をしていても、私に話しているようで、どこも見ていないような感じがする。話す意味がないので基本的に返事はしない。
ベッドの左端(真上から枕側を上として見て)に移動する。身内以外の匂いがついたところでは眠れないので、右端を自分のテリトリー、左端を接待用と決めている。
ここを娼館のセットと勘違いしているのか、男はいつも、なんの躊躇もなくベッドに転がり込んでくる。客でなければ挽き肉にして水路に捨てているところだ。いやこいつの血も浴びたくない。
「ぅん……」
もはやただの抱き枕だ。寝っ転がる私を後ろからぎゅっと抱き深呼吸している。こいつの行動はだいたい決まっていて、思い出すたび吐き気がする。
「ねえ、週一でゴボウみたいなやつに好き勝手されてる私の気持ち、一度でも考えたことある?」
うなじのあたりで思いっきり吸い込んだ息で彼が答える。
「あるとも。だからこそ興奮するってもんだ」
「……はぁ。今ここで殺してこねて、肉団子にしてお父様に食べてもらうことだってできるのよ」
「でも今まで君はそうしなかった。そういうことだろう」
男の指示で彼の頭を内腿で挟むと、今度は私の股ぐらにむしゃぶりつき始めた。
「もう……あんたが帰った後、何時間体洗うと思ってるの」
洗うより半身を切って生やし直したほうが労力はかからないかもしれない。
ちょうどこの脚で絞め殺してやろうかと何度思ったことか。本望だろうに、そうしてやろうかしら。
毎度毎度、よくもまあ自分の涎でえらいことになっているところにこの貧相なモノを入れられたものだ。次来るときは正面に姿見でもおいておこうか。
「今日は、これを」
油断していた。いつ用意したかもわからない。左内頬に押しつけられた右親指が変に苦かった。察し慌てて手をどけようとしたがもう遅い。
「本当は、君に使う薬は君のお父さんが管理してる。けどつまらないだろう?」
「もう……最っ低……!」
抗えない。抗いようがない。頭の中のレバーを乱暴に切り替えられていく感じ、とでも謂おうか。
五感も思考も、津波となって押し寄せる極めて不快な快感に尽く呑み込まれ、意識は明瞭、しかし意識はなくなった。
男の胸板が見える。その胸板、荒い息、むせ返るような体臭、パーソナルスペースの圧迫感、それぞれが反響し、うなり、脳を蹂躙する。
多幸感。父はそう呼んだ。しかし同時に否定もした。これで感じるのは幸せとは違うようだと。
そんなことは今どうだっていい。多幸感だか不幸感だか、とにかくそれで全身がいっぱいで、なんとなくやり場のない焦りも見える。
大っ嫌いな奴にむりやり犯されて、人形みたいにごっこ遊びに並べられて、気分は最悪なのに最高で、未知の昂りを止められなくて……
知ってる。でも名前は知らない。ひとつまみもない練り物でその時は誰だって迎えられる。
どうだっていい。考えるのはやめた。
そうしてまわってくるツケはなにもかも、想像を軽く超えるようで。
「あ、ぃ、いた、い。うそ、」
ものによっては全身の激痛を伴う。それを上回る快楽に少しの間浸ったところで、最後まで痛みをごまかし切ることはない。
砂が血管を通るよう、とでも。わけもわからず暴れてベッドから落ちて、床でまたのたうち回る。触れた地面が、身体を押さえた両手が、身体を刺す。そうしてまた転げまわる。焼けた礎石に投げ出された芋虫みたいだったと思う。
余裕をみて辺りを見やる。自分のじゃない血溜まりが見えた。芋虫がどうでもよくなって暴れているところへ父がやってきて、また別の薬を飲ませると、芋虫は死んだように固まった。
「……まずい。レミリア行くぞ」
父が慌てている。私もつられて、二人、いや二人分、無数のコウモリがもつれ合って地下への階段を下る。
この世のものとは思えない、辺獄の亡者のような叫喚が螺旋を舐め上げ、反響する。
暖色の、かつて生きていた顔料が、部屋を執拗に穢していた。その奥で、叫喚の主が何事か口にするが、それが何なのかはわからない。バラバラの単語を、文を真似して繋げているだけともとれるような、曖昧な旋律だ。
人の区別もついていないフランを強引に父が抱く。抱くがこれは抱擁というより拘束に近い。
「すまない、フラン、こんな……レミリア、薄い塩水をたくさん作ってくれ。得意だろう。落ち着いたら飲ませるんだ。吐いてもいい」
父が小瓶に入った液体をフランの口に突っ込むと、半端に咳き込んだのち、ぐったりしおれてしまった。
「ヒヨスだよ。あれにはいくつかの、それぞれ効果の違う成分が混じっていてね」
それから何時間待っただろうか、いや何日、わからない。とにかく長い間、彼女のうわ言を聞かされていた。床にぶち撒けられた、人だった汚物も、その匂いもきれいに消せるほど長い間。
あるいは、彼女の穴という穴から垂れ流される血を布巾で拭い、バケツ半分貯まるまで絞った頃。ようやく彼女は目を覚ました。
「毒を抜くなら、代謝を待つより血を抜いてしまったほうがいいんじゃないの」
こいつならやりそうだ。三秒後には足をもいでいたりして。
しかしそうはならなかった。
「それが……アージェントとの件で既に貧血でね。これ以上は吸血鬼とて危険なんだよ。ほら、今のうちに水を」
父が片腕でフランの体を起こす。フランは小さく呻き私を見る。いや見ているのかはわからない。人の区別がつかなければ、私を見てはいない。
「飲める?頑張って」
力のない口に恐る恐る水を流す。カップ半分ほど飲んだところで、倍の量の血として吐き戻してきた。服の血が血で上塗りされていく。
「これでいい。どのみち毒は吐けている。量を減らしてやってみよう」
……毒。毒ってなんだ?
「あの、毒って」
「毒も薬も紙一重、あのバカが何を飲ませたか知らないが……見るに手製だな……同定できない」
あの男は私が殺したらしい。彼が父の管理の外でしたことが原因だったから、父は私を責めなかった。殺してよかった。気味の悪い、形のない松の葉を投げるような人は殺されて然るべし。
「本当にすまないことをした。彼のことは信頼していたんだ。まさか自前の薬を持ち込むなんて」
私の寝る横で父はうわ言のように延々語っている。その言葉は耳から抜けるばかりで、ほとんど理解していない。
あれから数日が経っていた。いや何日眠っていたかわからない。はじめに目を覚まして数日、か。血管の砂はナリを潜めていて、立ち上がると足に集まって肉を刺す他に悪さはしない。めちゃくちゃだった脳ミソも少しずつまとまりを取り戻しつつある。
前にレミリアも来て、うわ言をさんざん撒き散らした後、勝手に私を抱きしめて、寝たきりの私の世話をして、勝手に帰っていった。
食事どころかまだ水もまともに飲めない。飲んだところで、胃の出血と一緒に全て吐いてしまう。でも水だけは摂らないと死ぬと聞いたので、飲んでは吐いてを繰り返し、むりやり腸に送って、疲れて眠る。こうしてなんとか数日耐えてきた。
父はほとんどつきっきりで看病してくれている。寝るときも起きているときも、いつも隣にいて、正直邪魔だったけど、心細くはなかった。意識があるのかないのか、いつあったのかもよくわからなかった初日あたりで、父がいなければ気を違えていたかもしれない。……もともとってのはナシ。