「フラン、君は自分がどうしてこの暗い地下で我々の相手をさせられているか、よく考えたことはあるか」
忌々しい薬が抜けて五日。久々に迎えた客はよりによってアージェント卿で、なぜかいつものように荒い扱いはしてこない。……今のところは。
「フランドール。父親からその由来を聞いたぞ。人々の薄汚い人形劇に付き合っていればいいんだよ。それが唯一の、君の存在意義だ。父親は君を娘だなんて思っちゃいない。厄介払いされたんだよ、君は」
「っ、違う!お父様はそんなこと言ってない!お父様は私を愛してくれる!あんたと違って乱暴しないもの!私だって、お父様のこと、……」
いつになく優しく丁寧に、泣く秘所を愛撫される。
「わかってないなあ、いつか捨てるものだって、普通わざわざきつく当たったりはしないだろうに!この際言うが、君は服を何着持ってる?そのみすぼらしい痩せたドレスを。私は四着しか知らないがね。四着のドレスと時計をこうも大事にする〝令嬢〟を、私は君の他に知らないぞ。あの男が君に割ける労力など、知れているんだよ」
「それだけじゃないもん!この羽の宝石だって、お父様と、お姉さまが――」
「そう頑張って反発しなくたっていいだろう。諦めろ。それは君を飾るものじゃない、外側、肉体を飾るものだ。君の中身なんかどうでもいいだろう」
彼が苛立った。細い羽を手綱のように引っ張られる。言っていることがだんだんよくわからなくなってくるが彼のまくし立てで不安だけが募っていく。
さらに重ねる。巨躯が胴を幾度となく押し潰す。恋愛でも性愛でもなく、ただの嗜虐心から。
「珍しく、恐怖というものは一元的だ。すべて未知への不安に起因する。相手が何をするかわからない、明日の自分の生死がわからない……死は、死後を知らないから、誰もが怖れ……畏れるんだよ」
しかし今のように、真に怖れているその瞬間は、自分が何を怖れているかなど、自覚する余裕もない。
「本質はわからなくたっていい。君は今、何を怖れている?」
それはもちろん、
「わかってるくせに」
「そうだな、しかし君は、私が何か問いかけたとして、いつもろくに答えられないが、今は違う。もう私自身を怖れてはいまい。君はかつて、私の何を怖れていただろうか?」
答えられない。
「今のは怖れじゃないな。本当にわかっていないときの顔だ。……君はな、私が君に何をするかわからないから怖れを感じたんだ。今のところ君の体に未知を持つ痛みを与えていないからな。……しかし今だって、私が次の瞬間に何をするか、わかったもんじゃないだろう」
聞いて、恐怖の証左を表すにはあまりに時間が足りなかった。
「っ!!」
言いつつ両手で私の首を、敵いそうにない力で締め上げていた。その手を掴んでも叩いても、びくともしない。
「危機感が恐怖を上回ったな。うん、〝かわいい〟」
さらに危機感は諦念に置き換えられた。諦めると案外冷静になれる(因果は逆かもしれない)もので、ひとつ気づきを得た。息が切れるよりも先に意識が切れ始めるということを。
「そうすぐに落とすとでも思ったか?」
安堵し絶望もした。それを見透かしているのか、予想していたのか、アージェントがこう続ける。
「諦めたあと、自分を落ち着けるための口実を探したな。それで、気を失えば苦しみからは逃れられるとそう考えることくらいわかる。君のある面については、父親より詳しいと自負しているんだ」
こう考える彼の心理は、私にはよくわからなかった。自慢気に語るが、彼が誰かにマウントを取る必要などまったくないはず。かれもまた夜の王、それだけで、このあたりで最強クラスの存在といえる。……いや、父に対し何か、敵意、あるいは劣等感を抱いているのかもしれない。
「っ、なに、お父様と、張り合っちゃって。足元にもっ、及ばないのに」
「なるほど君はよくわかっているらしい。何を彼と比べているか」
それと、挑発するだけの余裕があるようだ。そう加えて、私の腹を正面から二度殴りつけた。
「っが、ハ、ぁ、……」
「人が人形を取り合おうとするのは当然だ。人形は軽口を叩かない。そうだろ?」
「……やけに静かだ」
何故か新約聖書を読みふけっていた父がぽつり、呟いた。
父は聖書に限らず、教典をひどく嫌う。教祖が何を言おうとも、必ず後世の者どもが勧善懲悪のストーリーに書き換えようとするからだそうだ。反逆を悪とすると信者は指導者を崇め奉る。それだけの理由で、重んじるべき先人の教えを無下にするのだと。
「聞こえるの?いつも」
「ああ、何をかはわからないが、叫ぶ声がね」
あのアージェントが地下で遊んでいるときはいつも、フランの悲鳴が微かに聞こえてくるらしい。よく耳を澄ませてみても、これまでに不自然な音を聞き分けられたことはないが、彼が言うのならそうなのだろう。
夜間聞く音に彼女の叫喚が織り混ざっていると知ってできることといえば、賓客どもを睨みつけることくらいだった。彼らに飛びかかったとして、誰に何をされるかわかったものではない。疑心暗鬼で誰にも頼れないでいた。
父は、嘘はつかない。騙そうともしていない。考え、価値観は決して容認できないが、その点では信用しているのかもしれない。今も気になることがあればまず父に聞いてしまう。
「……使用人に任せてはいけないかもしれない。そろそろだろうから、行って片付けまでしてきてくれないか。今は……私は出ないほうがいい」
珍しく父が思いつめている。ただ心配しているだけともとれる顔。父が心配するほどとは、ただことじゃない。
階段を降りていく。確かにあの悪夢のような叫びは一向に聞こえてこない。彼は毎度派手にやるイメージがある。
「やあ、また来てくれたのか。生憎ちょうど終わってしまったところだがね」
またそそくさと戻っていった。睨む暇もない。
フランはベッドの右端にいた。頭を腕で覆い横にうずくまっていて、全身にいくつもの痣が見られる。
殴られたとか、犯されたとか、それだけじゃないように見える。もう声を押し殺して頭を隠す必要もない。
肩を叩くと応じて腕をきゅっと締めた。
「ねぇ」
荒い息も抑えられなくなっている妹が、姉に怯える?いや何かおかしい。あいつに何をされた?
「震えてるだけじゃ何もわからないのよ。何だっていいから、怒らないから、何か、話してくれる?」
こういうときこれ以上急かしてはいけない。相手から情報を得られるまでは、こちらからのアプローチなく得られる情報をかき集めて、状況を推察する……偏見を膨らませていくのだ。
こんなこと今まで――会ってそれほど経ってはいないが――になかった。実の姉を、家族を、拒絶している。人の区別はついているはずだから、それで合っていると思う。
表情。切羽詰まってはいない。やっぱりこちらを意識している。覗き込むと目を逸らす。
拒絶の根源は大別して二つ。相手を信頼していないか、相手に後ろめたい何かがあるか。後者は何も思い当たるものはない。では……
待て。私はフランを信頼できているか?信頼は互いにあってこそ成り立つ。自分が彼女を信じられていないのに、彼女に私を信じろと?
何が私に彼女を疑わせているんだろう。今この瞬間で言えば、「何を彼女がしでかすかわからない」から、疑い、身構えているかもしれない。どうしてそう疑う?前例を見たことは?
……ない。癇癪持ちだと父は言うが、それがどうした?癇癪を持っているから地下へ娘を閉じ込める?ああだこうだと親や周りにわがままを押し付けない子供、即ち私が異常ですらある。
父はこれにどう向き合っている?結果はどうあれ、わがままと我慢との折り合いをつけるよう促しているか?
これが促しでなく矯正なら、純粋に反発することもあれば、別の何かが歪むことで問題が表出することもある。そのはず。
恐れることはない。いずれにせよ意味、原因のない行動は、彼女からは出てこないはず。
……信頼とは、取るべき行動、心理を把握したと思いこむことなのか。
「フラン。私、松の葉は渡せないけど……〝本物の〟松ぼっくりを渡すことならできるのよ。松ぼっくりじゃあなたを飾ることはできない。でもあなたを宝石で飾ったとき、宝石じゃない何か……嫌なものを、あなたに押し付けてしまった気がして、だから――」
「……ほんとに?」
「渡すべきはいつだって感情でしょう。それが何であれ、ね」
自分は自分を信じていなかった。思った通りの事柄を、淀みなくフランに伝えられるか心配でならなかった。
「フラン。私、松の葉は渡せないけど……〝本物の〟松ぼっくりを渡すことならできるのよ。松ぼっくりじゃあなたを飾ることはできない。でもあなたを宝石で飾ったとき、宝石じゃない何か……嫌なものを、あなたに押し付けてしまった気がして、だから――」
……羽の宝石。私をきらびやかに、華やかに飾り、また同時に吸血鬼のアイデンティティを奪った、この宝石たち。送った本人はそれを思い知っていた、ということか。……アージェントの言っていた、「宝石は内面を飾らない」、これをなんとなく、レミリアは感づいているのだろう。プレゼントは――内面を明るく照らすためのものだ。
「……ほんとに?」
「渡すべきはいつだって感情でしょう。それが何であれ、ね」
痛む関節に鞭打って起き上がる。レミリアの眼差しに猜疑心の入る余地などどこにもなく、どこまでも真っ直ぐだった。
「ほんと、口下手ね。相手には何も考えさせないものよ」
「考えない会話は何も生まないでしょう。考えなければ、フランが顔を上げてはくれなかったと思うけど」
雪は解けた。本来あるべき家族像が、少し見えた気がした。
「……ごめんなさい。アージェントに、ひどいこと言われて。お姉さまは、〝そう〟じゃないものね」
「あいつは何て?」
「私は厄介払いされてここにいるって」
レミリアの表情が固まった。素直に否定しなかった。
「……わからない。どうしてお父様がここに閉じ込めるのか……いろいろ話してくれたはずなのに……それを直接、教えてはくれなかった」
「否定しないのね」
「そうじゃない。唯一の姉妹でしょう。ただ、わからないのよ。お父様が」
噂をすれば影が差す。父が降りてきた。
「彼の相手をして五体満足とは、ますます怪しいな。今日は何をされた?……レミリア、ありがとう。私が引き継ぐよ」
レミリアが下がり父と交代する。
「どうするつもり。フランの腕も眼も、無傷だったのよ」
「無傷なものか。嘘はいかんね。見たくなければ戻っていなさい」
「こんなのおかしい。普通殴られて喜ぶ娘なんかいないでしょう」
父がレミリアの方へ向き直り言う。
「三歩歩いて忘れるほど君は馬鹿じゃないだろう。言ったはずだ、松の葉だよ」
レミリアの顔が崩れる。そして子供らしく泣きじゃくる前に、階段を駆け上がっていった。
「……どうしてあんなに取り乱すの」
「愛を表す言葉が違うんだよ。さて、アージェントは君を殴りつけるだけじゃ済まさなかったろう」
客の行いを聴いてその日のメニューを決める。
かくかくしかじか。
「なるほど、彼は君に、君の人格に、価値を見出せなかったんだな。当然だ。彼は人格レベルでの対話を求めてここへ来ているわけじゃない」
あれだけ私の心をかき乱したあいつの言葉を、造作なく否定した。真っ向から否定した。
「お父様は、どうなの」
私の痩せた頬に大きな手を当てて、話す。
「全てだ。フランドール、君の全てに、無二の価値がある。レミリアや、母さんにだって。もちろん私にも……きっとある。それに、彼が貶さなかった、君の外見的な部分、それも人格と等しく君自身だ、自信を持ちなさい」
腹をぺろんとめくりシャツの上からへその少し上を拳で押さえられる。芯の脈を直に感じる。鈍い痛みが都度呼応する。
「痛みだけじゃない。深呼吸――言ってみなさい」
「ん、なんか、変な感じ……あの、多幸、みたいな」
あいつに殴られたときくらいひどく痛むはずなのに。それをかき消すようにして、〝幸せ〟の霧が頭いっぱいに立ち込める。
「や、めて、ください。お願いします」
あのゴボウが持ってきた薬を使ったときと状態が酷似している。
この先は見当がつく。怖れ?いや虞れだろう。未知でない。顛末が見える。消え入りそうな声で懇願した。
「信じなさい。大丈夫、深呼吸――」
首を左手で締められる。しかし喉を塞がれてはいなかった。側面を、血管を、その手が締めていた。
気を失うその瞬間まで〝幸せ〟に包まれていたこの時が、最近で一番しあわせだったと思う。
吸血鬼にはどんな毒が効くだろう?人間……使用人にも秘密で全て進めなければならず、また弱点らしい弱点をつくものは一人では扱えない。銀粉は触れられもしないし、香辛料は仕込めば匂いでわかる。
植物由来の毒は即効性に欠ける。精製、単離する術も持っていない。蛇の毒は試しに血に混ぜてみたら、血そのものが巻き貝の卵塊のように固まってしまった。
……血に仕込みさえしなければ使えるだろう。
傷を短時間で治すのだから、毒にもかなりの耐性があるかもしれない。
たった一滴、舌につけてみたところ、
「ん、特に何も……、!」
舌の感覚がない。それどころかその範囲は想像を絶する勢いで拡大している。上から下へ順に力も入らなくなっていく。
声も出ない。薬品棚の下に一人ひざまずき予感した死を実感させられるまま生殺し、一秒また一秒、
「――は、」
湿った石柱と蜘蛛の網が見える。死にはしなかったらしい。
「うっかり薬品倉庫で毒を飲むとは、おっちょこちょいだねぇ」
父が目を細める。
「せっかくこの身体があるのだから、使ってみなきゃ。見つけてくれてありがとう」
「ここのもので遊んでいてレミリアがいらついていない時はないからな、静かだと気になるものさ……ところで、誰のために?」
こいつはわかっている。わかった上で、あえてこちらの答えに期待している。
「自分のため。どうにもならないことってあるでしょう」
「そうだな、誰のためといえば君だけのためになる」
いちいちいやらしい。
「じゃ、完成を楽しみにしているよ」
「見ない間に痩せたわね。きちんと食べてる?」
キラ。大柄、というか巨大な女性……おばさん。何百年生きてきて、それなりに体も年を食っているはずではあるが、肌はぱつぱつむちむち、ときに村一つ絶やすほど血気盛んで若々しい。
ぱつぱつむちむちとはいうが決して肥満体型というわけではない。馬鹿力の源だ。人を襲えば骨も残らない……らしい。とにかく巨大で残忍で、怪力持ち。拳一発で石柱にヒビを入れたとか……
「どうしたの、固まっちゃって」
アージェントほど頻繁ではないにしろここへ来て、彼同様好き勝手して帰っていく。
「いっ、た……!」
右脇腹に一本、深く切り傷をつける。
「やっぱり。ほとんど脂肪ないじゃない」
「いだっ、だめ、あ、」
そこに手首をねじ込み腹をかき回される。いくら暴れようと怪力の前には歯が立たない。
「あなたを一番感じられる。いい方法だと思わない?」
膀胱を握り潰すと刺さるような痛みと同時に血尿が噴き出た。
「あんまり啼かない……よほど疲れてるのね」
苦痛は飽和し消化しきれていない。冷静では諦めているのに、反射か、捩ってしまう。そうして余計に自身を傷つけることもわかっている。
「!!」
心臓を鷲掴みされていた。跳ねるそれを力で捻じ伏せるように。
脂汗が滴る。
「っは、へぁ、あっ、……」
「なぁに、はっきり言ってごらん」
呼吸もままならない。横隔膜は破られ、肺はその機能をほとんど失っていた。
「最も確実な自己防衛は、自らが力を持つこと。髄まで血を抜かれたくなければ、あなたがお父様よりも強くなればいい。単純なことでしょう」
経験のない類の痛みが胸部を襲う。キラの手が心臓を締め上げている。先の未知への焦りとは裏腹に、自分にできるのは、何についてかもわからずただ祈ることだけだった。
死すら見える激痛は際限なく増大するように思えたがそうはならなかった。
……ならなかったとはいえ、それで良かったとはいえない。
「!!!!」
心臓から離したその手で、無造作に腹をまさぐった後、そこから手を引き抜いた。
「その愛らしい身体、もっと見せてごらん」
脇腹の傷を両手で横に引き裂いていく。胴から乖離する皮はどうにもできない。早くも再生しかけている肺機能の全力を以って叫ぶ。
「やっ、めろ、……って!言ってんでしょ!」
胴の筋肉はもはや使い物にならない。そんな中から繰り出した、それはもう貧弱な一発だったと思う。なのにその拳を食らったキラの左顎は、槍を刺して削ったようになっていた。
そしてそれを物ともせず、どうやっているのか、キラは笑う。
「あっはは、そう!それよ!どこで覚えたのかしら、その魔法」
魔法?錬金と同じく失敗だらけの、魔法?
「でもね、魔法魔術は等価交換なのよ」
ばさ、と。右の袖から何か落ちた。キラを殴った右腕だった。肩から抜け落ちたそれは組織が互いの結合を手放し、腐ったように形を失っていく。
等価交換。代償を払ったまでだった。
「キラ。どういうつもりだ」
でかい吸血鬼。控えめのラフにスラッシュだらけのクリムゾンのドレスを身に着けている。
「ずっと地下であんなことさせるつもり?死んだほうがマシよ」
……死んだ?父の顔色をうかがう。明らかにいつもと違う。何が起きた?
居ても立っても居られず階段を飛んで降りる。そして見たのは、
「……は?」
端切れのようになったドレスに、……フラン?いや、そんな。
全身に噛み傷、ない腕、扉みたいに開かれた腹部……
顔に生気がない。無節操に撒き散らされた体液と対照的にまったくの白となった身体。まさか、
「や、なんで、……んっ、げ」
食べたもの全て吐き出した。妹のそれらには遠く及ばない。横に膝をつきうずくまる。
もはや自分にできることはない。体が動かなかった。すべきことも見つからない。何もかも遅すぎた。あの女が私から全て奪っていった。
「何をボーッとしてる、詰め直さないと」
後から来た父が悲しみも見せずフランの方へ歩む。
「本当に手遅れになるぞ。早くしなさい」
飛び出た臓器をせっせと戻している。
「まだ間に合う。泣いてる場合かね、手伝ってくれ」
よろよろとフランに向き直る。腸は難しいが他はわかる。だいたいでいい、そう父が付け加えた。
触れた腎臓はすでに冷めきっていた。大動脈とも繋がっていない。妹の臓器を直に掴んでいる。
人体にはこれだけの血液が巡っているものなのか。空になった腹には湯船のように血が溜まっている。
「ありがとう。頑張れ、もう少しの辛抱だ」
死体を冒涜している気すらする。何が「手遅れにな」るんだ……?
「よし。離れて」
その場に落ちていた、きっとこの凶行に使われたであろう刃渡り十センチほどのナイフを深々と、フランの腹側から背骨に突き刺した。
――ここまでして、フランは目も開けない。やっぱり……
父が腹の扉を閉める。中のナイフは握ったまま。そして、何やら唱え始めた。ルーマニア語と何となく発音は似ているが何を言っているのかはわからない。
ずぼ、とナイフを引きずり出す。フランの身体が大きく跳ねる。時間が逆行するように傷は継ぎ目なく癒え、シーツの染みとなっていた何かが形を取り戻し右腕となった。
「……、フラン」
「死の直後なら、フランはもとに戻せるんだ。私がそうしておいた。自分自身で試してみるんじゃないぞ、君にはしていない」
ひどい保険だ。なんてことをフランに科したのか……
「ともかく、こうして再会できた。聞こえてるかな?」
フランがにっと微笑み返す。
――役者は揃った。
肉林と呼ぶにふさわしい。意味もなく死体を吊り飾った食堂へ父を呼び席に着かせた。
「こうも血生臭くちゃ、風味もわからないかしら」
彼はレミリアが薬品棚で蛇の神経毒をいじっていたのを直に見ていたので、まさか毒を使って自分を殺すまいと高をくくっていた。しかし来てみれば、鼻もまともに利かなくなるほどの死体に、血の入ったワイングラス。
「果たして、そうかな」
レミリアが私を呼び出した。殺されるとしたら今だ。彼がそう信じて疑わず、口元まで持っていき嗅いだそれは、なんの混じりけもない、フランの血だった。
わざわざここまで準備をして、何故ただの血を振る舞う?彼にはわからない。
「味はあなたが保証したでしょう」
グラスを置く。
「成長したな。意図が読めないんだ」
今まですべて自分の管理下にあり、一挙手一投足、考えることまで手に取るようにわかると、思い込んでいた。しかし彼女は、レミリアは、親の心から離れ、自らの道を創り歩み始めている。
「……そう。お残しとは、悪い子ね。長女式の愛を以って松葉を迎えるわ。レーヴァテイン」
気がつけば胴を真一文字に斬り裂かれ、椅子の下に転がっていた。知れず魔法を身に着けた愛娘フランドールによる、レラズの鷲狩りだった。
「なるほど、この不意打ちは気づかんな。二人ともよく育った」
「異国の槍。お父様には似合わないわ」
レミリアがその小さな脚で、父の頭を踏みつける。
「これで満足か、スカーレット家次期当主。松葉の親子愛を無事引き裂いたんだ、この上ないハッピーエンドだろう」
「……何か。言い残すことは」
「この地もじき敵に落ちる。東へ進み海を渡れ。二人とも、〝幸せ〟にな」
数日経ってのち。
「ほらフラン、行くよ」
「うん、ちょっと待って」
食堂でそのまま灰となった父を見て。
最後の口づけを贈り、小瓶に灰をすくい取る。
目指すは未来の黄金の国。
道中で出会う新たな家族は、二人にとってどんな救いとなったろうか。