「ショーコ! ノノッ! もうすぐレッスンだぞ!」
勢いよく事務所のドアが開かれて、レッスン用の運動着に着替えた美玲さんが現れました。しんとしていた部屋中に響き渡る大声で、ユニットのメンバーである輝子さんと乃々さんを呼んでいます。
「どーせまたいつものところにいるんだろ?」
と美玲さんはずんずんプロデューサーさんの机まで歩いていって、その下を覗き込みました。けれどお二人を引きずり出そうと伸ばしかけた腕が、何も掴まずに戻ります。
「……いない。どこ行ったんだ、アイツら……」
机の下を覗いていた顔を上げ、眼帯に隠されていない右目をぱちくりとさせて辺りを見回す美玲さん。そこでようやくボクと目が合って、この部屋に人がいたということに気付いたようでした。
「なんだサチコか」
「なんだとは失礼ですね! 今日初めてボクと会ったんですからもっと嬉しそうにするべきですよ!」
おー、と気の抜けた生返事でボクの方を見もせず答える美玲さん。お二人を探すことが最優先のようです。
「乃々さんと輝子さんを探してるんですか?」
「うん。ショーコとノノ、いつもレッスンギリギリに来るからな。今日こそ早く引きずってこようと思ったんだけど」
「けど、お二人とも先ほどレッスンスタジオへの廊下を歩いていくのを見かけましたよ」
「なにッ、じゃあ行き違ったのか! これじゃウチが最後みたいになるじゃないか! 急ぐぞッ!」
言って、美玲さんはまた勢いよくドアを開け部屋を出ていきました。廊下を走ると危ないですし、プロデューサーさんやちひろさんに見つかると怒られそうなものですけど。でもレッスンに遅刻してトレーナーさんを怒らせた方が確実に怖いのも確かです。
事務所を出、渡り廊下を駆け抜け、レッスンスタジオに飛び込みました。ここまでおよそ五分ほど。ボクも美玲さんも走りっぱなしだったわけですが、お互いこの程度で息が上がるような鍛え方はしていません。伊達にステージで飛んだり跳ねたり歌ったりしていませんからね。
「ショーコ、ノノ! いるかッ!?」
先と同じように、美玲さんが部屋中によく通る声で呼びかけました。けれどここもまたしんと静まり返っていて、返事をする人はいません。ドアの向かいの壁に貼られた一面の鏡にも、ボクと美玲さん以外の人の姿は映り込んでいませんでした。
「なんだよ、まだ来てないじゃないかッ。サチコのやつ、いい加減なことを……」
「そんな、嘘なんてついてませんよ!」
「えっ、いたの?」
「いたの? とはなんですか! もう失礼を通り越してボクの圧倒的な存在感に気付けない美玲さんが可哀想に思えてきましたよ!」
ボクがしゃべって、初めてボクが一緒にここまで来たことに気付いたようでした。何だかデジャブのようなやり取り。
「いや、ていうか何でついてきてるんだ? サチコまで」
「何でって?」
「え?」
「え?」
「それより、まだ輝子さんたち着替えてるとかじゃないですか? トレーナーさんもいないんですから、まだレッスン自体始まってなさそうですし」
「む、それだッ」
ボクの脇をすり抜けて引き返し、隣のロッカールームへ入っていく美玲さん。ボクも一緒についていきます。部屋に入ってからドアに鍵をかけましたが、美玲さんはお二人を探すのに夢中でそれに気付いていないようでした。
「うわッ、なんだこのニオイ……」
部屋中に、鼻をつくような悪臭が漂っています。汗臭さとは明らかに違うものです。それ以外はロッカーが並ぶばかりで、いたって普通の光景と言えるでしょう。
そしてやはりというか、ボクたち以外の人の姿はありません。きょろきょろと首を左右に何度か往復させていた美玲さんでしたが、やがてボクの方を振り向きました。眼帯に覆われていない右目がつり上がり、ボクを睨んで光っています。
「……サチコ。オマエひょっとして、アイツらと示し合わせてるんじゃないだろうな?」
「な、何をですかっ」
「何かは知らないが。ウチを騙して企んでることでもあるのか、二人に買収でもされたのか……もしそうなら、オマエが大事にしてるそのカワイイ顔をズタズタにひっかいてやるぞ?」
険しい表情のまま、両手の指を十本全てこちらに向け構える美玲さん。さらにじりじりと距離を詰めてきました。嘘をついたつもりもないのに、ボクのカワイさが脅かされていることに焦りを覚えます。けど背を向けて逃げようものならまさに飛び掛からん凄みの美玲さんでしたので、とにかく弁解に努めるほかないようでした。
「いやいやいや、ほんとに噓なんかついてませんってば! 仮に輝子さんたちと共謀してるとして、それでもトレーナーさんまで巻き込むのは無理がありますよ!」
「逆に、なんでトレーナーさんまでいないんだッ。オマエがわざわざここまでついてきてるのも怪しい! 考えれば考えるほどおかしいことしかないぞッ!」
がるる、と唸る美玲さんに、思わず逃げ出したくなりますが、ドアに鍵をかけたのでそれも叶いません。しなやかな十本の指が鼻の先まで迫って、思わずボクは短い悲鳴を漏らして目をつむってしまいます。
けれど顔に鋭い痛みが走るようなことはなく、やがて目前にあった指たちの気配が遠のくのが感じられて、ボクは目を開けました。
「ったく……それにしても、さっきから何なんだこのニオイは。臭いってどころじゃないぞッ」
ボクから離れて、再び部屋中を見渡している美玲さん。この悪臭のもとを探しているようです。実際ボクにとっても、わかっていなければ耐えかねる臭いですし、何より日頃使っているロッカールームでこんなひどい臭いがしていたら、放っておく気にもなれないことでしょう。
「誰かナマモノでも持ち込んで腐らせたのか? ナターリアのヤツか?」
「そこのロッカーでしたかね」
臭いのもととして、向かって左端から五番目くらいのロッカーを指さしました。なまじ真ん中あたりなのでうろ覚えです。はっきりとした目印くらい付けておくべきでした。
「何だ、知ってるんじゃないか」
「確か、ですけどね」
「まったく、寿司はせめて冷蔵庫に入れておけっての……」
美玲さんは臭いのもとがナターリアさんの持ち込んだ何かと思い込んでいるようでした。
思い込んだまま、ボクの指したロッカーを開けました。
特に躊躇する素振りもなく、せいぜい腐ったお寿司パックが入っているぐらいだとばかりに、今までのように勢いよく開けました。
ロッカーの中には輝子さんと乃々さんが入っていました。二人一緒に抱き合うようにしてビニール袋にくるまれて、ぴくりとも動かない代わりに、その壮絶な悪臭を醸し出しています。ビニール袋の底には二人からそれぞれ滴った血液が溜まっていますが、互いに違う血液型のためか混ざりきっておらず、微かに違う色合いを境に分離しているように見えます。
ロッカーを開けてから、美玲さんはそのまま五秒ほど立ち尽くしていました。それが輝子さんと乃々さんだと判別するのに、二人がどうなっているのか認めるのに、また自分がどうすればいいのかの逡巡がその間にあったのでしょうか。ボクに背を向けた格好でしたので、どんな顔をしているかまでは窺えませんでした。
「あ、あ、あああああああああッ! ショーコぉッ! ノノぉッ!」
その五秒が過ぎると、堰を切ったように叫んだ美玲さんが二人に縋り付きました。ロッカーから二人を引きずり出して、ビニール袋を破こうと爪を立てています。ボクは慌てて駆け寄りました。
「だ、ダメですよ! 開けちゃいけません!」
「し、ショーコが、ノノがッ! 助けないと、助けるんだッ!」
「もう死んでますよ!」
「ウソだ死ぬもんかッ! すぐ救急車を呼ぶんだッ!」
あっと思うと、美玲さんはビニール袋を破いてしまいました。中に溜まっていた血と内臓が床に広がってしまいます。せっかく苦労して包んだのに……。
そうして破けた袋から覗けた輝子さんは、頭が文字通り首の皮一枚で胴とつながっている状態で、粗い切断面からは折れた首の骨らしいものが窺えます。首を切られたので当然、全身血に染まっていない部分を探す方が困難なくらいなのですが、不思議と顔だけはそれほど汚れておらず、それが確かにこの死体が輝子さんであると認識させてくれました。
かたや乃々さんはというと、顎が砕けてなくなっている上に、残った顔の右半分が潰れているので、元が誰なのかぱっと見では判別がつきません。もしかしたら、この死体だけ乃々さんにどこか似ている別人、という希望的観測にすがれる可能性もあったかもしれません。
「う、んぐッ……」
そこに見えているのが皮膚の下の世界であったり、彼女たちを動かしていた器官だったというのは認識できたようで、猛烈な悪臭も手伝って一般的な感性を刺激されたらしい美玲さんは、たちまち二人の上に胃の中身をぶちまけてしまうのでした。
彼女の吐物が発生させた第三の悪臭が、お二人の死体が醸す第一第二のそれと衝突し、第四のものとして発生します。さすがにボクも口と鼻を手で抑えながら、げえげえ唸る美玲さんを横目に右隣のロッカーを開けました。
と思ったらそこに入っていたのは用意していた斧とレインコートではなく、ビニール袋に包まれたトレーナーさんでした。やっぱり次から目印をつけておこうと反省しながらそれを閉じ、もう一つ隣のロッカーを開けます。
今度こそ用意してあったレインコートを着て、それから斧を手に取ります。どちらも替えの分なのでぴかぴかの新品です、備えあればカワイイボク。返り血を浴びた一着目のレインコートは元より、一本目の斧も輝子さんと乃々さんに使ったことで壊れてしまったのでした。
準備を整えロッカーを閉めると、その音ではっと気付いたように美玲さんが顔を上げてボクを見ました。顔じゅう涙と鼻水と胃の中身でぐちゃぐちゃになっていて、とてもファンの方には見せられない状態です。
「さ、サチ、サチコ……何だそれ……」
「何って、必要な準備ですよ?」
「な、何の、何のだよッ……」
へたり込んだまま、美玲さんはボクから距離を取ろうとします。床を蹴ってお尻を擦らせながら離れようとするので、ボクも合わせて歩み寄り、距離を保ちます。
「な、何だよッ!? 来るな、来るなあッ!」
「ちょ、ひどすぎませんか!? いくらボクでも傷つきますよ!?」
と思わず大声を出してしまうと、美玲さんはボクに背中を向けて走り出しました。ぶつかるようにしてドアに縋り付くと、必死にドアノブを回します。けれどそのままガチャガチャと格闘しているばかりで、一向に開きそうにありません。
「何でッ、何で開かないんだよッ!」
慌てすぎるあまり、鍵がかかっていることに気付いていないようです。ともあれ外に逃げられると面倒なので、予定通りここで仕留めることにします。斧の刃が届くところまで近づいて、両手で柄を持ち、振り上げました。
ところがそこで美玲さんが振り向きました。一瞬だけ引きつった顔が見えたかと思うと、彼女は短く叫んで転ぶように左へ逃れてしまいます。斧を振り下ろしかけたボクは、危うくドアを壊してしまうところでした。
「うあああああッ! ああッ、やめろサチコッ、やめろぉぉぉッ!」
ボクが斧を構え直すと、床に転がっていた美玲さんはすぐさま立ち上がります。両足ががくがくと震え、伸ばした両手をもがくように激しく振っています。ボクが近づくたび、距離を開けようと後ずさることも忘れていません。
「美玲さん、動かないでもらえますか? じっとしてればすぐ終わりますから」
「何でッ、何でだよッ……どうしてウチを、ショーコとノノをッ……」
トレーナーさんが含まれていないのは、先ほどロッカーを開けた時に嘔吐の真っ最中だったために気付かなかったからでしょうか。
それにしても、何で、と聞かれたら答えに困ってしまいます。斧を下ろして顎に手を当てました。
「何でって……それはまた、どうしてです?」
「どうしてって、オマエ……何言ってるんだッ」
「だってどうしても何も……」
考えようとしますが、よくわかりません。今まで聞かれた試しがなかったので、答えを用意していませんでした。インタビューでされる質問の予習をしていないのはアイドルの自覚が足りないかもしれません、反省します。
しかし輝子さんは首を切った一撃でしゃべれなくなりましたし、乃々さんは震えるばかりで悲鳴も上げず、トレーナーさんに至っては逃げようとして転んだ弾みに頭をロッカーにぶつけて動かなくなったので、誰も美玲さんのしたような質問をボクに投げかけることはなかったのです。
うーん。
例えるのが難しいのですが、どうして歩くのとか、息をするのとか、それくらい当たり前というか、考えるまでもないことなので、答えようがないと言いますか。
つまり生きるために必要だから?
何か違う気もしますが、もうそういうことでいいでしょう。
そういうことになったので、ボクはまた斧を構え直します。するとまだ近づこうとしていないのに、美玲さんは背を向け逃げ出そうとしました。
「ひあああッ! あ、うわッ!?」
ところが足元をよく見ていなかったのか、走った先にはロッカーから出された輝子さんと乃々さんの死体が横たわっていました。それにつまづいた美玲さんが短く叫び、前のめりに転びます。それでもなお逃れようとしていますが、下敷きにした二人の血と肉に足を滑らせ、立ち上がることができないでいます。もがけばもばくほど、二人の死体が踏み潰されていきます。
そんな美玲さんの前まで近づき、先ほどのように斧を振り上げたところで、彼女はようやく身を起こしてボクの方を向きました。輝子さんたちの血にまみれて怯えた表情をしながらも、その右目はボクをじっと見据えていました。
「サチコ、やめて……やめてよぉッ……。ウチらトモダチだろッ……? なあ、なあッ……」
そう懇願する声が震え、ボクを見つめる右目からは涙が溢れました。塩水の粒が顔中に塗りたくられた二人の血を滲ませながら、顎の先まで伝っていきます。
そうして動かずにいてくれたのでこれ幸いと、ボクは美玲さんの顔めがけ斧を振り下ろしました。
がつっ、と骨を砕く感触が斧を伝ってボクの手に流れてきました。同時に聞こえた音は「ぶちゅり」とでも言いましょうか、何とも形容しがたいもので、何かが破裂したもののように直感します。
噴き出る血に染まった美玲さんの顔を見ると、斧が刺さったのはあの右目でした。なるほどその破裂したというのは眼球だったようです。しかし視力を破壊しただけで傷は意外と浅く、少し力を入れて引いただけで、簡単に斧は抜けてしまいました。
「ああああああああッ!? 痛い痛い痛いあああッ、げほッ、ごほッ!」
両手で右目のあったところを抑え、輝子さんと乃々さんの上でのたうち回る美玲さん。傷から溢れた血が叫ぼうと開けた口に滴ったのか、途中でむせ返ります。左目の眼帯を外さないのは痛みとパニックでそれどころではないからでしょうけど、今の美玲さんには何も見えていないことかと思います。
その証拠に、やがてうつ伏せのまま這って逃げようとする美玲さんは、ドアでなく壁に向かって進んでいました。
「げほッ、げぼッ! あ―――ッ うあ―――ッ」
実に苦しそうな声を上げる美玲さんに、ボクは申し訳なさでいっぱいになりました。じっとしていればすぐ済むと言ったのに、一撃で仕留めきれなかったせいでこんなに苦しめてしまったんですから。こんなつもりではなかったんです。
だから次の一撃できっちり楽にしてあげようと、決心したボクは彼女の頭の先へと回り込みます。両手を前に投げ出して這う美玲さんは、とうとうそれに気付きそうもありません。斧を高く振りかぶると、それを彼女のつむじ目がけて叩きつけました。
「ぅあ」
と叫びが途切れて、美玲さんの頭がスイカのようにばかっと割れました。血が空気を切る音を立てて噴き出し、ボクの顔を濡らします。少しだけ口にも入ったそれが舌一面に鉄の味を広げ、ボクの血となり肉となります。
それから砕けた頭蓋骨の破片を混ぜ込んだ脳髄が、ボクの足元の床に広がりました。前に小梅さんから聞いた話なのですが、人間の頭蓋骨というのは絶妙なバランスでもって脳を収めているらしく、下手に開頭手術でもすると中身が二メートルぐらい飛び出ることもあるとかなんとか。つまりこれもそういう現象なのでしょう。
明らかに絶命していそうなものですが、この状態でもなお美玲さんの体は動いていました。前に投げ出された両手が、自身の脳髄の上でもがいています。その動きはまるで、こぼれてしまった脳髄を頭に詰め直そうとしているかのようです。見る人が見たなら、滑稽にさえ映る光景でしょう。
ボクはもう一度、斧を美玲さんの頭に叩きつけました。衝撃でびくんと上体が跳ねると、それきり彼女は動かなくなりました。よく見ると時折ぴくぴく痙攣していましたが、これは自然現象なので気にすることはありません。
ということで、美玲さんも死にました。
「ふう」
一息ついて、手近にあった椅子に座ります。腕力にそれほど自信がないので、数回斧を振り回しただけで腕にずしりとした疲労感がありました。斧を置き、右肘で自分の脚に頬杖をつきながら、足元で折り重なった美玲さんたち三人の死体に目をやります。
誰の血かわかりませんが、そこに赤い水面が張られていました。覗き込むと、ボクの顔が映り込んでいます。ところが波紋もなく静かなはずのそこに歪みが見えたので、不思議に思ってより顔を近づけてみると、それはボクの口元の映るあたりに見えました。
いやボク自身の口元が歪んでいたのです。
愉快そうにつり上がっていました。
けれど目はちっとも笑っていないのです。
何よりちっとも楽しいとは思っていないつもりです。
きっとこの疲労感と、疲れた体に休息を与えているところに快感を覚えているんだろうと、そういうことにします。
けどそれにしては、いつの間にか声が抑えられなくなっていたのです。やがてこらえきれなくなって開かれるボクの口。赤い水面の中に、ボクの口内の赤が映り込みます。
「ふふ、ふふん、ふは、あは、あははは」