蔓延する魔界の風の影響により、エルフの国は壊滅的な打撃を受けていた。
昨日までまだ元気だったエルフたちの多くが歩くこともままならず倒れ込み、苦しげに咳き込んでいる。これは高濃度の魔力を含む魔界の風がエルフたちの体を蝕んでいるからだった。
比較的症状の軽いエルフも中にはいたが、それでも激しい咳が止まらず息を吸うのもままならない。
あなたとリーシャは、そんなエルフたちを清浄な空気流れるクルスククス神殿へと避難させていた。神殿はかなり広く、エルフの国に住むエルフたちはそこまで数が多くないのも手伝って、全員が避難するスペースはなんとかあった。
まだ歩ける者には避難先をうながし、歩くこともままならないエルフは直接抱き上げて一人一人運んでいく。重労働だが、苦しげなエルフたちを見ていると疲れを感じる暇などなかった。
クルスククス神殿に清浄な空気が流れているといっても、魔界の風はゆっくりと確実に神殿内にも忍び込んでいく。神殿内に運ばれたエルフは少しばかり体調を回復させたが、それでもまともに動くことはできないようだ。
最初から神殿内にいたエルフの姫エファナの側近たち、そしてエファナ自身もエルフの民を神殿内へ避難させるためその身を粉にする。普段から神殿内の清浄な空気を吸い加護を得ているのか、彼女たちはまだ魔界の風への抵抗力があるようだ。
しかし、それも長続きはしない。エルフの民たちを全て神殿内に避難させた頃、彼女たちは限界を迎え、他のエルフと同じように体調を悪化させてしまった。
今やこのエルフの国でまともに動けるのは、あなたとリーシャだけとなった。
勇者であるあなたは魔界の風に屈しないほどの抵抗を持っているし、リーシャは魔王のしもべであるため魔王の呪いをその身に宿している。つまりある意味で魔王の加護を受けているのだ。そのおかげで彼女は魔界の風による影響から逃れられていた。
「……もう夕方ね」
エルフたちを避難させ終えたあなたとリーシャは、神殿入り口で座り込んでいた。
リーシャが言うように、もう夕暮れである。魔界の門が空に現れた時、太陽は覆い隠され森全体が暗くなったが、時が経つにつれ太陽は移動しわずかに光を注いでいた。
しかしそれももう終わる。沈み込む太陽とちょうど真逆にある魔界の門は今朝よりも大きくなっていて、禍々しい黒い渦穴と化していた。
その異様な姿は、それこそ黒い太陽と言うしかない。これから赤い太陽は地に沈み、暗黒の空を黒い太陽と化した魔界の門が禍々しく照らすのだ。
あなたはゆっくり沈み込む夕日を眺めて、大きくため息をついた。それは現状を嘆いたからではなく、強い疲労感によるためだ。
朝からこの時間までエルフたちを担いで奔走したのだ。全身に強い疲労を感じるのはしかたない。
それに加えて、体の奥をじくじくと蝕む熱を感じる。疲労によってリュミスから受けた毒が主張を開始したのだ。
そう、リュミスの毒はいまだあなたを蝕んでいたのだ。エルフの国に来てから体調を整えていたため毒の影響を感じなかったあなただが、ここに来て強い疲労を抱いたせいで毒の影響が現れてきた。
リュミスはここまで予想してあなたに毒を与えたのだろうか。その答えは分からないが、あの時受けた一手はまさに痛恨と言うしかない。
「とりあえずこれでも食べて体力を回復させなさいよ」
あなたの疲労を察したのか、リーシャがパンを差し出してくれた。素朴なバターロールだが、腹を満たすのには十分だ。
リーシャと共に、パンをかじる。リーシャはどことなく憂いを帯びた表情をしていた。自分の住む国がこんなことになって、彼女はいったいなにを思っているのだろうか。
あなたとリーシャはしばし無言になった。黄昏時があなたたちを包み込む。しかし当然、あなたたちは黄昏る心境ではなかった。
問題はここから先である。エルフの国を包囲するピクシーの軍勢に、ワイバーンの魔物娘リュミス。そして魔界の門を開いた張本人にしてグリュイエールに並び立つ魔物娘、ダークフェアリー、アルメリア。
ここから先、あなたとリーシャが相手にする困難はか様なものだ。それが苛烈な過程になるのは想像に易く、だからこそあなたとリーシャは無言で現状を受けとめるしかなかった。
しかし逃げるわけにはいかない。こんな状況で、あなたはそう強く思っていた。
その決意ははたして勇気によるものか、あるいはただの無謀か。勇気と無謀が似て非なるものだということは当然あなたは知っている。
しかし今この瞬間に抱く、エルフたちのために決して逃げられないというこの決意は……他者が無謀となじろうと、それは確かに勇気と呼ぶべきもののはずだ。
「……そろそろ日が沈むわ。行きましょう」
リーシャが立ち上がる。あなたもそれに続いた。
こんな状況でも、無為無策という訳ではない。詳しく聞いてはいないが、リーシャは夜になればピクシーの軍勢をどうにかできるようだ。
それが信頼に足るものかどうかは分からないが、重要なのは、リーシャ自身がそれに賭けているということだ。
この状況で共に戦ってくれる者を疑うことはできない。リーシャがその内に宿す方策に賭けているのなら、それに乗るべきだ。たとえ彼女が魔王ファリシアのしもべであっても。
徐々に暗くなりつつある空に見守られながら、あなたとリーシャはエルフの国の門前へとやってきた。
ここから出ればすぐにピクシーたちが取り囲んで来るだろう。それすなわち戦闘開始の合図である。そうなればアルメリアたちも戦いが始まったことに気づく。
ここから先はもう引き返せない。だからあなたは、リーシャにどんな策でピクシーの軍勢を排除するのか問いかけた。作戦会議をするタイミングは今ここしかない。
「そうね、これくらい暗くなってきたら私でもそろそろ出せるかしら」
リーシャが右手を軽くかかげ、胸元辺りで手の平を上空に向ける。まるで見えない何かをその手の平で受け止めるように。
すると、リーシャの右手に闇が少しずつ集っていく。この気配は闇の魔法に違いない。
手の平に集った闇の塊は、やがてその形をゆっくりと変えていった。手の平よりはるか大きい長方形になり、その表面が質感をともなっていく。
そうして現れたのは、黒い本だった。表面には文字とも言えない奇妙な記号がびっしりと貼り付けられており、あまりにも禍々しい。
「魔王様の愛読書が一冊、ミスコリデ変異書よ。こんなこともあろうかと、魔王様から借りていたの」
リーシャは得意げに微笑むが、まさかここでファリシアの愛読書が出てくるとは思わなかったあなたは、本の禍々しさとそれを愛読書とする異様なセンスに引くしかなった。
「これに魔力を注げば、闇の魔法が使えない私でも色んな呪いの魔法が使えるわ。それこそ魔王様が使うような大規模な魔法でもね。これを使えばピクシーの軍勢はきっとなんとかなるはずよ」
魔王であるファリシアクラスの魔法が扱えるのなら、ピクシーの軍勢どころかアルメリアを相手にだって渡り合えるのではないだろうか。そうであれば更に心強い。
あなたのそんな心境は、だがそれを察したリーシャが静かに首を振ることによって否定された。
「残念だけど、私ではこれを完璧には使いこなせないの。例えば魔王様ならこんな本が無くても何の制限なく闇の魔法が使えるわ、それこそ太陽の光に満ちた真昼でもね。あるいはリッチクラスなら、弱体化はするけど昼間に闇の魔法を使うことが出きるはず。でも、私は無理。闇の魔法に適正の無い私では、こんな強力な本があっても夜にしか魔法を使えないの。しかも、魔法を使うまでかなり時間がかかるわ。それではとてもアルメリアとは戦えない……悔しいけどね」
だからリーシャは夜まで待てと言ったのだろう。魔王の愛読書と言っても、そうそう都合の良い道具ではないようだ。
しかしそれでも、ピクシーの軍勢をどうにかするめどは立った。ならばそれで十分。アルメリアとの戦いは、やはり勇者であるあなたの役目なのである。
夕日はその八割以上が地平線の先に沈み込み、夜が訪れようとしていた。
戦いの時間だ。覚悟を決め、行くしかない。
あなたとリーシャがエルフの門を押して開放しようとした時、背後から弱弱しい声がかけられた。
「待て、勇者よ。それに……リーシャ」
その聞き覚えのある声に驚いて振り向くと、魔界の風の影響で伏せったはずのエルフの姫、エファナがそこにいた。
驚きを隠せないあなただが、あなた以上に驚いているのはリーシャだった。
「ひ、姫様! 今神殿から出るのはいけません!」
咳き込むエファナの体をリーシャが支える。エファナは、そんなリーシャに細い声を投げた。
「リーシャ……他のエルフと違い、なぜそなただけが元気なのかと訝しんでいたが……そうか、そなたは魔王のしもべとなったのか」
「……っ」
弱弱しい声に鋭いものを感じ取ったのか、リーシャは気まずそうに視線を逃がした。
しかし、エファナは優しい笑みを見せた。
「非難しているのではない。そなたはエルフの生き方を良く思っていなかったふしがあったからな……魔王のしもべとはいえ、そなた自信の生き方を定めたのなら、それでいい」
「姫様……」
「だが、リーシャよ。アルメリアと戦うのだけはならん。リーシャだけではない、勇者よ、そなたも同じだ」
「な、なぜそんなことを言うのですか!」
暗くなる空に、リーシャの悲痛な声が木霊する。
「我らエルフは、これでよいのだ。我らはただ自然のままに生きるのみ。その結果が今のこの状況というのなら、これもまた女神の導きであろう。だから、我らのためにそなたらが無謀な戦いに挑む必要は無い」
エファナの澄んだ瞳が、あなたのことをじっと見つめる。
「勇者よ、勇気と無謀の違いは心得ているだろう。アルメリアを倒したいのならば、今はリーシャと共に逃げ、確実に勝てる好機を狙うがいい。我らエルフのことなど捨て置けばいいのだ。そなたは魔王を倒す使命を全うしなければならん。我らエルフのせいで、そなたを敗北へ追いやるわけにはいかないのだ」
魔王を倒す。それが勇者であるあなたの目的であり、使命だった。
しかし、エルフたちの惨状を見過ごすことなどあなたにはできない。魔界の門が現れ、苦しみだしたエルフの姿は今もあなたの瞳に焼き付いている。
戦う決意を滲ませながらあなたが首を振ると、エファナは愕然とした。
「なぜだ……なぜ戦う。勝ち目など、あるはずがない」
「姫様……私は、エルフの生き方にうんざりしています」
リーシャが意を決したように口を開いた。
「エルフは自然と共に生きる……ええ、それは素晴らしい生き方だと思います。私も自然は好き。狩りをするのも、木の実を食べるのも、森の匂いも、風の心地よさも、全部大好き。でもだからって、自然に身を任せて滅びを受け入れるなんて私は耐えられない!」
「……だからそなたは魔王のしもべになり、エルフとしてではなく自由な生き方を選択したのだろう? ではなぜ逃げない。アルメリアとの戦いの先に、確実な勝利は約束されていないのだぞ。それこそその先に滅びが待ち受けているかもしれん」
「違う……っ! 私は逃げるために魔王様のしもべになったんじゃないっ。私は……私はっ、エルフの生き方に従って大切な人たちが苦しむのを受け入れるくらいなら、魔王のしもべになってでも皆を守りたかったの! 姫様を……エルフの皆が苦しんだままでいるなんて、嫌だったの……」
リーシャの声は段々と小さくなっていった。最後の方はもう、聞き取れないくらいに。
しかしそこに込められた想いの丈は、間違いなく伝わっている。エファナにも、そしてあなたにも。
リーシャは最初から、アルメリアと戦うために魔王のしもべになったのだ。エルフたちを、守るために。
「リーシャ……そなたは……」
エファナの声はそこで途切れた。それ以上何を言えばいいのか、彼女自身分からなかったのだろう。
「もう、止めないでください。……大丈夫、私は独りではありませんから。この人が……勇者が、私と共に戦ってくれるから」
リーシャは一度あなたに視線をうつした後、再度エファナを見つめた。
「……勇気と無謀は違うと先ほど姫様は仰いましたね。その通りです、無謀とは無思慮な行動のことを言い、勇気とは困難に立ち向かう意思のことを指すのです。勇者とは困難に立ち向かう意思がある者のこと……この人は、間違いなく私たちの勇者様ですよ」
「困難に立ち向かう意思……」
呆然と呟くエファナに、リーシャは今度こそ背を向けた。
「行ってきます」
小さく、そう呟いてエルフの国の門を開け放つ。
あなたは無言で、リーシャと共に門の外へ出た。
門の外には闇が広がっている。日はすっかり落ち、森の中は暗闇が支配しているのだ。
その暗い森の中から、ガサガサと茂みをかき分ける音がひっきりなしに響いていた。
これは門の外に現れたあなたとリーシャのことをピクシーが発見し、包囲しようと集まっている音だろう。
まだ攻撃は仕掛けられていないが、それは時間の問題だ。もう戦いは始まっている。あなたは剣を抜き、構えた。
「……さっきは、ちょっと恥ずかしいことを聞かれちゃったわね」
ふと、リーシャが思い出したように言う。彼女の顔は羞恥によってか、少し赤い。
「でも、本当に頼りにしてるわよ、勇者様。私のこと、ちゃんと守ってよね」
挑発するようにくすりと笑うリーシャに、あなたは頷きを返した。
リーシャが魔法を発動するまで、あなたが彼女を守らなければいけない。森の影に隠れる、大勢のピクシーたちを相手に。
リーシャが軽く息を吸い、小さな声でぼそぼそと呟きを発した。すると彼女の体が蛍のような淡い光を纏い始める。
魔法を発動するため、魔力を集中しているのだ。聞き取れないほど小声で呟く言葉は、おそらく魔法の発動を補助する詠唱だろう。
リーシャが纏い始めた魔力の気配に反応したのか、森の奥から次々ピクシーたちが姿を現した。ピクシーたちはそのまま、手にした弓で矢を放ってくる。
戦いは始まった。後は死力を尽くすのみだ。