あなたは走っていた。暗い森の中を、必死で。魔法書を持つリーシャも同じく小走りになってあなたの後をついてくる。
夜を迎えた森は暗く、密集する木々の先は暗黒の帳が張られている。眼前の視界すら薄暗くてはっきりと見通せないが、それでもあなたは走る足を止めなかった。
それも当然である。この暗い森の中、走るのを止めればすぐにピクシーの集団に囲まれてしまうのだ。
数で大きく劣るあなたとリーシャは、ピクシーの軍然と戦うに当たって次々と位置取りを変えるという戦法に出ていた。ピクシーは小柄でその背に生える羽根を使って浮遊しているが、飛ぶ速度は遅い。ゆえにこうした戦法はかなり有効だ。
闇の先から突然一本の矢が飛んできた。あなたは右片手に持っていた剣を振るい、それを切り払う。その間も決して足を止めないままに。
「きゃっ!」
あなたの背後でリーシャが悲鳴をあげる。驚いて振り向くと、転倒するリーシャの姿が見えた。その傍らには矢が落ちている。
おそらく、後方からリーシャ目がけて矢が放たれ、魔法書を手に魔力を集中していたリーシャはそれに気づかず当たってしまったのだろう。
あなたはすぐに駆け寄ってリーシャの手を握り引き起こした。
「だ、大丈夫よ」
ピクシーの攻撃力は低く、彼女たちの攻撃は魔王のしもべとなったリーシャの体力を大きく奪うには値しない。
しかし、魔法を発動させるための詠唱を中断させるには十分な妨害であった。戦闘が始まってからこうしてリーシャに矢が当たり詠唱を妨害されたのは、実に三度目である。
数に劣るのもさることながら、この闇もまた厄介だった。暗闇の中から突然飛来する矢を見切るのは困難を極め、よしんばあなたがそれを成し遂げられてもリーシャには不可能だ。なにより数の限界が見えないピクシーを相手に走りながら戦うのは、精神的にも体力的にも負担がかかる。
「はぁっ、はあっ、はぁっ……!」
あなたもそうだが、リーシャはあなたよりも激しく荒い息を吐いていた。一度転倒して動きが止まったことで、鳴り響く心臓の鼓動を落ち着けられないのだろう。
このままではまずい。リーシャの魔法が完成しなければピクシーの軍勢ときりのない戦いを繰り広げるはめになる。そうなればアルメリアに都合の良い展開だ。
この状況でリーシャを守りながら戦うには……魔物娘の助力を得るしかない。
あなたは魔物娘の召喚を試みた。すると眼前に淡い光が輝き、その中から一人の魔物娘が現れる。
獣耳とふかふかの尻尾、そしてその首にかけられた首輪と破壊された鎖。氷で出きた短刀二振りを両手に握る、魔狼フェンリルがあなたの元へと参上する。
「フェンリル……すごい魔力ね」
リーシャは突如現れたフェンリルに驚きを隠せ無いようだ。魔物娘をしもべとする勇者の力を目の当たりにしたのだから、それは当然の反応といえる。
しかし驚きながらも彼女の瞳には疑問の色が浮かんでいる。フェンリルは確かに強い。だがどれだけ強かろうが、大多数を相手にするのに長けてはいないのだ。
無論あなたはそれを心得ていた。心得たうえで彼女こそがこの場にふさわしい魔物娘と判断したのだ。
あなたはリーシャに近づき、迷いなく彼女を抱き上げる。左手は彼女の背中を支えて、そして右手で両足を持ち上げて、体勢が安定するようにリーシャの体を密着させる。
「ちょっ、とっ……! な、な、な、何してるのよ!」
いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる横抱きをされ、リーシャは顔を赤らめてバタバタと足を暴れさせた。
「ばっ、ばかばかっ、あほっ、は、恥ずかしいでしょこの体勢……! お、降ろしなさいよー! このあほー!」
長い耳までを真っ赤に染めて抗議するリーシャだが、その懇願は聞き受けられない。
あなたはフェンリルに自分たちを護衛するように命じ、リーシャを抱きかかえたまま夜の森を疾走する。その後を氷の短刀を持ったフェンリルが追走し始める。
すると突然闇の中からあなた目がけて矢が飛んできた。リーシャを抱きかかえるあなたにはこれを制する術がない。
「ふっ!」
しかしその矢は当然の如くにフェンリルが切り払う。更にフェンリルは暗闇をものともせず疾走し、矢が飛んできた闇が広がる森の先へと潜りこんだ。同時に鋭い風切り音が放たれ、その一瞬後にまたフェンリルが姿を現し並走する。
「す、すごいわね……」
フェンリルの働きに呆然とするリーシャに、あなたは魔法を発動することにだけ集中するよう促した。
「あっ……そ、そういうこと。わかったわ、今だけはこの体勢で我慢してあげる」
お姫様抱っこは不本意なのか、リーシャは少し頬を膨らませていた。しかしすぐに魔法書を開き、ぶつぶつと詠唱を呟きながら魔力を集中させる。
そう、これこそがこの場における最適の戦法だ。あなたはリーシャを抱きあげたまま彼女の足代わりに走り、リーシャは魔法を発動させる為に集中。そして圧倒的な速度を誇るフェンリルはあなたたちの護衛に努める。互いが互いの役目を全うしつつカバーし合うにはこれしかない。
「……左横にピクシーがおそらく四人。そのはるか後ろにピクシーの集団、かなりの数。前方にも数人いてこのままだと数秒後にはち会いそうかも。私が前方に突っ込んで左横のピクシーもろとも蹴散らすから、勇者様は右へ曲がりつつ走って」
フェンリルは狼らしく鼻がよく、この暗闇の中匂いだけでピクシーの気配を察知していた。彼女の感知能力を信じ、あなたは誘導されるまま右へ曲がりつつ走り続ける。
その横でフェンリルは強く地を踏みしめ、半ば跳びはねるように前方へと疾駆する。
フェンリルの察知した通り、前方にはピクシーが三人迫っていた。
自我を失って操られるままのピクシーでも、突然現れたフェンリルに驚いてしまったのか、その姿を目の当たりにするや、数瞬彼女たちの動きが止まる。
フェンリルはその隙に、まさに餓狼の如く跳びかかった。まず両手に持つ短刀でそれぞれピクシーを打ち払い、慌てて矢を放とうとする残りのピクシーを回し蹴りで仕留める。
ほんの一瞬で三人のピクシーを気絶させたフェンリルは、そのまま動きを止めなかった。回し蹴りを放った勢いそのままに背面飛びを行い、空中でくるりと回転。フェンリルは空を舞いながら、先ほど自分がいた位置に数本の矢が飛来しているのを見届けた。
彼女の嗅覚は左横にいたピクシーたちが前方に飛び込んだ自分を追ってきていたのを察知していたのだ。
背面飛びで空を舞うフェンリルは嗅覚が命じるままに視線を動かす。やや左後方にピクシーが四人、弓を構えてこちらを狙っている。
かつてグリュイエールを相手に空を逃げ場にしてしまい、本来の体術を自ら縛り敗北した彼女だが、当然そのことは肝に命じている。あの時とここでは環境が違う。平原とは違って森の中は跳躍した後でも枝葉などを足場にできるのだ。
フェンリルは太い枝に右足だけで着地し、ゆるく落下するように体を空中に躍らせ、続く左足で枝を蹴り抜いた。
張りつめられた弦から解放された矢のように、フェンリルはピクシー四人の中心へと着地する。
そのあまりの速度に構える弓の照準を見失ったピクシー。フェンリルをその短刀の間合いまで接近させた上でそれほどの隙を晒しては、もはや勝負にならない。
フェンリルはその場で鋭く回転しつつ短刀を振るった。攻撃回数はたった四回。文字通り一撃必殺のままにピクシー四人を気絶に追い込む。
だがまだ戦いは終わっていない。むしろこれまでは準備運動だと言わんばかりにフェンリルは鋭い目を暗闇の中の一方に向けた。
その先に感じるピクシーの集団の気配と匂い。近い距離に多くのピクシーがいるらしく、フェンリルの嗅覚でも正確な数を察知できなかった。
それでも……三十、あるいは、四十か。それほどの集団が迫ってきている。
これを見過ごすことはできない。見過ごせば先に逃げる勇者にやがて追いつくだろう。かといって、倒しきるのに時間がかかってはまずい。それだけ勇者の傍を離れて危険に晒すのだから。
「……本気、だそっかな」
ぼそりと呟いたフェンリルは、軽く目をつぶり息を吸った。
そして目を強く見開くと同時、溢れんばかりの魔力が体に集中し、氷の結晶が周囲に浮かび上がる。
フェンリルを中心に森の中を冷え冷えとさせていく氷の魔力。今ので付近のピクシーたちはフェンリルの存在に気づいただろう。近くにいるピクシーの集団がこちらに迫りつつあるのをフェンリルは感じた。
フェンリルは唇を釣り上げ、立派な犬歯を露わにした。
そして彼女は疾走する。目標は当然、迫ってくるピクシーの集団だ。
ピクシーの集団の先鋒を視界におさめたとたん、フェンリルは強く地を蹴り抜き斜め上へ跳んだ。
自我なきピクシーが跳躍するフェンリルの姿に視線を向け、弓を構える。多数の戦意を肌で感じながら、フェンリルはそれでも不敵に笑った。
斜め上へ跳躍したフェンリルはそのまま木の幹を蹴り抜き、再度跳躍。その後に遅れて多数の矢が放たれるが、ピクシーの腕前では圧倒的な速度を誇るフェンリルを捕捉できない。
フェンリルはそのまま再度木の幹を蹴り、また鋭く跳躍した。それを何度も繰り返していく。ピクシーの集団を嘲笑うように、彼女たちの上空を幾度となく舞い跳んだ。
自我を失い魔界の風に操られるままのピクシーでは、フェンリルの動きに翻弄されるままだ。彼女たちは弓を構えたままフェンリルの姿を追いかけ、その姿を見失い、また視界の端にとらえて弓を向け、見失う。そんな無駄な行動を繰り返してた。
そんなピクシーたちに呆れたとでもいうのか、フェンリルは突然木の幹に短刀を突き刺し、片手でぶら下がって動きを止めた。ここだ。私はここにいる。そう主張するように。
ピクシーたちの視線が一斉に集中する。フェンリルに向けて彼女たちが矢を放とうとする……その瞬間。
ピクシーの集団の頭上に、淡い青色の不思議な紋様がいくつも浮かびだした。円形に縁どられたそれは内部に複雑な線を走らせ、力満ちる模様を形作っている。
魔法陣。空中に魔力で作った紋様を設置し、そこに込めた魔法を任意のタイミングで発動する設置型魔法の一種だ。自身の体の動きを詠唱代わりにして魔法を行使するフェンリルは、木の幹を蹴り跳びながらこの魔法陣を設置していたのだ。
ピクシーが気づくよりも早く、魔法陣は魔力を発した。
「魔氷方陣」
フェンリルが呟くと同時に、魔法陣から氷の塊が射出される。
一面に降りしきる魔氷雨は、ピクシーの集団を次々と打ちのめしていった。魔法陣がその役目を終えて消滅した頃にはもう、四十を超えるピクシーの集団は一人残らず気絶してしまっていた。
勇者と別れてからここまで、わずか数分の出来事である。フェンリルは木に突き刺した短刀を引き抜いて着地した。彼女はいまだに息一つ乱していない。
圧倒的な力でピクシーを都合五十人ほど蹴散らしたフェンリルだが、彼女が倒したのはこの森に潜むピクシーのわずか一端でしかない。
静寂の森に生い茂る木々の数を正確に数えられないように、魔界の風に操られるピクシーたちもまたどれほどの数になるか。おそらく今倒したのは全体の一分にも満たないだろう。
それでも、走る勇者の周囲に群がるピクシーを倒すのには意味がある。倒せばそれだけ勇者とリーシャはひと時の安全を得るのだから。
そろそろ勇者の元に戻ろう。そう考えたフェンリルが暗い森の中を疾駆しようとした時、彼女は何を思ってかふと空を見上げた。
嗅覚ではない。別の何かが命じている。空に何か厄介なものがいる、と。根拠の無い勘ではあるが、フェンリルはその感覚が絶対のものだと察していた。
それはフェンリルが持つ、本能ともいえる危機察知能力による直感であった。
木々の葉に覆いつくされる森の空。葉っぱのわずかな隙間に見える夜空に、舞い飛ぶ何かの気配を感じる。
「……この気配、あのメイドとお嬢様だ」
警戒するように見上げるフェンリルは、ついに空を飛ぶワイバーンと化したリュミスの姿を発見する。
その背に立つアルメリアとフェンリルの目が、ほんの一瞬かち合った。