ピクシーの軍勢が勇者であるあなたを追いかけざわめく静寂の森。そのはるか上空で、翼をはためかせて空を翔ける者がいた。
紫色の肌が映える大きな翼に鋭いかぎ爪。細長くも人とは比肩しえない巨体が優雅に空を飛び、長い尻尾が揺れ動く。一見竜と見まごう姿だが、伝説的生物とは違って体のパーツ一つ一つが既存の生物に似通っている。竜ではなくワイバーンと呼ばれるべき姿だ。
そのワイバーンこそがアルメリア腹心の部下であり、彼女のメイドを務める魔物娘リュミスだった。彼女はグリュイエールと同じくその姿かたちを変化させ、より強力な形態へと移行できる。
その背に乗るのは、もちろん彼女が主人と認める魔物娘アルメリアだった。風を切って翔けるリュミスの背で、エメラルドグリーンの髪をなびかせながら彼女は下を見つめている。
眼下には深い森が広がっている。そこにある多くの気配をアルメリアは確かに感じ取っていた。
「……ファリシアの魔力の気配がすると思えば、あのエルフが持っている魔法書からのようね」
アルメリアがこうしてリュミスの背に乗り警戒していたのは、ピクシーと勇者が戦い始めたからではない。リーシャが持つ魔法書に込められたファリシアの魔力を察知したからだった。
翔けるリュミスのそばには空に大きく広がる魔界の門。今朝方より明らかにその大きさを増し、流れ込む魔界の風の量も飛躍的に増えている。
アルメリアの体には順調に力が戻りつつあった。しかし、これまで力を失っていた体に対して、かつての実力はあまりにも大きすぎる。強力な魔力を体に漲らせつつありながら、アルメリアの肉体にまだうまく馴染んでいない。
今の状態でファリシアと対面するのはまずい。いくらプライド高いアルメリアといえど、無謀な戦いを冒すつもりはない。ファリシアがもしこの森にいるのなら、口惜しいがいったん引くのが最善。
そう思いつつ事態を把握するためリュミスと共に動いたものの……アルメリアの懸念は、あっさりと裏切られた。
いくらファリシアの魔力が宿った魔法書だろうと、それを扱う物が二流なら無用の長物。魔法書を持つエルフではその力を完全には引き出せないだろう。下手をすると制御に失敗し自滅する危険もある。
そう看過したアルメリアは、風になびく髪をかき上げる。夜空に一つ、エメラルドの宝石が流れた。
「お嬢様、こちらからも何か攻撃を仕掛けるのはいかがでしょうか」
「あら、そう事を急ぐ必要はないんじゃなくて?」
リュミスの進言にすげない返答をするアルメリア。リュミスは少し戸惑いを見せつつ再度口を開いた。
「……しかし、あの魔法書は捨て置けません」
魔王の肩書きを欲しいままにしたファリシア。その実力を知っているものなら、皆そう判断するだろう。リュミスも当然ファリシアの強さを知っていた。かつてアルメリアを退けたのもさることながら、それでもなお底の見えない彼の者の実力。それが一端とはいえ宿っている魔法書は見過ごせるはずがない。
「確かに……魔法書を持つあのエルフ、何かを狙っているわね。もしかしたらピクシーの軍勢をどうにかする魔法を扱えるかもしれないわ」
「では……」
攻撃の気配を匂わせるリュミスに、アルメリアは静かに首を振った。
「必要ないわ。あのエルフが何を狙っているにしても、魔法書から魔法を発動するには時間がかかるでしょう。勇者とフェンリルがあのエルフを守っているのがその証拠よ」
アルメリアは静寂の森に蔓延する魔界の風により、森内部で何が起きているのかをほぼ把握できる。勇者がリーシャを抱いて走っていることも、フェンリルが勇者の周りに集うピクシーを蹴散らしていることも。
「こちらもあちらも時間がもう少し必要と言うのなら、利害は一致しているわ。なら少し様子を見ましょう」
「……はい」
少しばかり納得できないと匂わせつつも、リュミスは頷いた。彼女からすれば主であるアルメリアを脅かす可能性を放ってはおけないのだろう。さりとて、アルメリアから離れて一人勇者を狙うというのも考えものだ。以前それで痛い目にあっているのだから。
結局のところ、アルメリアが言うように利害が一致している。リュミスはいまだ力が馴染まぬ主を放ってはおけないし、勇者たちは魔法を発動するため時間を稼ぎたい。この膠着状態こそが互いにとっての正解なのだ。
それでも……あの魔力だけは、ファリシアの力だけは。
そんなリュミスの心意気を察したのか、アルメリアはしゃがみこんで彼女の背を軽く撫でた。
「安心なさいリュミス。もう少しすればあの魔法が扱えるくらいには力が馴染んでくるわ。勇者たちが何を狙っていようと、私が力を取り戻したら全てが無意味。そうでしょう?」
「……その通りでございます。お嬢様」
力強く肯定するリュミスの言葉には、迷いや懸念は一切存在しない。
そう、力が戻りさえすれば、アルメリアは誰にも負けない。勇者はおろか、ファリシアにすら今度こそ勝利するだろう。リュミスは心の底からそう信じていた。
なぜならばリュミスこそがアルメリアの実力を誰よりも知っているからだ。魔界の風を操れるアルメリアだからこそ扱えるあの魔法……風の魔法と魔界の風を組み合わせた恐るべき三つの魔法の前に、敵はいない。それこそ勇者など相手になるはずがない。
力さえ戻れば。だからリュミスはこうして空を翔け続ける。こうすれば力を取り戻す間、地上を這う者たちは決してアルメリアに手出しできないのだから。
「……あら?」
「どうかしましたか?」
静寂の森を見下ろすアルメリアが楽しそうに笑ったのを、リュミスは耳の端にとらえた。
「ふふ、勇者のしもべになったとたん、見事な忠犬ぶりを発揮するわね」
「……?」
アルメリアの呟きにリュミスは疑問を抱くことしかできない。
それもそのはず。アルメリアと違ってリュミスは、静寂の森で起きている出来事を一切把握することができないのだ。
アルメリアは今、静寂の森から立ち上る圧倒的な戦意を感じていた。この獰猛な気配は明らかにフェンリルのもの。フェンリルが空を翔けるリュミスに気づいたのだ。
探るように静寂の森を眺めるアルメリアは、木々と葉の隙間から空を見上げるフェンリルの姿をとらえる。
ほんの一瞬、アルメリアとフェンリルの目がかちあった。
とたんにフェンリルの獰猛な気配が膨れ上がる。彼女は森の地面に這うように身を屈め――その足に力を限界まで溜めこみ、地を蹴って跳びあがった。
さながら弾丸の如く斜め上へジャンプしたフェンリルは、更に木々を蹴り跳んで勢力を増していき、ついに背が高い木の先端を蹴り上げて空を翔けた。
その軌道と速度は、地上から舞い上がる流星のように鋭い。フェンリルはあっという間にリュミスがいる上空へと達していた。
「なっ……!」
フェンリルの急襲に、リュミスは驚くことしかできない。当然だ。まさか翼持たぬ者が地上から空へ舞い上がるなど考えるはずもない。
フェンリルはリュミスすらを飛び越えて、完全にアルメリアの頭上を取っていた。フェンリルの眼下に無防備なアルメリアの姿がうつる。
魔物娘は召喚される際勇者と情報を共有する。この事態を収めるにはアルメリアの打倒が必須だと理解したフェンリルは、上空にリュミスとその背に乗るアルメリアの姿を確認した時、千載一遇の機会だと判断したのだ。
「お、お嬢様!」
リュミスはただ叫ぶしかなかった。今からでは翼をはためかせても旋回できない。回避行動は不能。かといってワイバーン形態では背を取ったフェンリルを迎撃することもできない。
痛恨を感じるリュミスと、奇襲成功の確信を抱いたフェンリル。両者の耳に、くすりと優雅な声が聞こえた。
「残念だけど、リュミスの背は私専用よ。しつけのなってない犬にはお仕置きが必要ね」
アルメリアは言いながら、右手を軽く振った。その動きはまるで目の前の蚊を払うような仕草だった。
それと同時に、フェンリルは左わき腹に大きな衝撃を受けた。
「ぐぅうぅっ!?」
視線を動かして確認するも、そこには何もない。何もないのに、何かがフェンリルを攻撃したのだ。
……違う。ある。フェンリルは類いまれなる戦闘センスによって直感する。空気だ。空気の塊が……風そのものがこの体に叩きつけられたのだ。
風の初級魔法、エアリアルブラスト。突風を叩きつけて攻撃する基本的な風の魔法だ。
しかし、それがなんという威力か。フェンリルの脇腹は鈍い音を立て、その衝撃のあまり空中にいた彼女は吹き飛ばされていた。
リュミスの背を取っていたフェンリルはそこから十数メートルも弾き飛ばされ、後はもう落下するしかない。
だがフェンリルは吹き飛ばされた衝撃を生かして空中でくるりと反転。胴回し蹴りを放った。
当然誰も存在しない虚空で蹴りを放ったところで、誰に当たるわけでもない。しかし、その動きを詠唱として魔法が発動される。
胴回し蹴りと共に放たれたのは、氷の初級魔法、アイスコフィン。かつてグリュイエールとの戦いで使用し、彼女の頬を掠めた魔法だ。
その魔法が今、グリュイエールのライバルといえるアルメリアに迫る。空中で正確に狙いがつけられなかったのか、氷の塊は皮肉にもアルメリアの頬を掠めるだけにとどまった。
そして次の瞬間には、フェンリルは頭上から風の強い衝撃を浴びて地上へ真っ逆さまに落ちていった。
アルメリアがその時右手を上から下へ軽く振っていたのを、フェンリルははたして見ていただろうか。
「……」
フェンリルをじゃれつく子犬のようにあしらったアルメリアを目の当たりにして、リュミスは言葉を無くしていた。
魔狼フェンリル。のんびりとした性格とはうってかわり、ひとたび臨戦態勢に入ると獰猛さを剥き出しにする彼女は、アルメリアやグリュイエールほどの格ではないものの、その実力は折り紙つきだ。
それをいまだ力が馴染んでいない状態で、こんなにもあっさりと一蹴した。
フェンリルが不利な空中戦だったということを加味しても、この結果はあまりにも圧倒的すぎる。
「リュミス」
「は、はい、お嬢様」
「もう少し高度を上げなさい。懲りない子犬がまたじゃれついてくるかもしれないわ」
「……はい!」
リュミスは命じられるままに飛翔した。それとともに我知らず咆哮する。体の内から溢れ出る猛りを思わず吐きだしたのだ。
久しく見ていなかった、主の力。その実力の程を知っていたし疑ってもいなかったが、こうして改めて肌で感じると確信する物がある。
我が主こそが最強なのだ。底の見えないファリシアの実力を知りながらも、リュミスはそう思わずにいられない。
「……ふふ」
リュミスらしくもない高々な咆哮を聞きながら、アルメリアは先ほど氷が掠めた頬を一撫でして笑う。
そこには傷など一つもなく、白く美しい肌がその美しさを一切損なわずに存在していた。
アルメリアは右手を握り締めた。そこに魔界の風が集い、アルメリアの魔力とゆっくり交わっていく。
「あと、少し」
呟きながらアルメリアは魔界の門を眺める。
そこから流れ込む魔界の風。体に満ちる魔力の気配。細胞の隅々に、じわじわと魔力が順応していく。
魔界の門がその大きさを増すごとに力が馴染んできている。そしてそれは魔界の門が完全開放されると共に最高を極めるだろう。
アルメリアはそんな確信を抱き、唇を邪悪に歪めた。
彼女の力が満ちていく。ゆっくりと、だが確実に。