あなたがリーシャを抱えて走り出してから、いったいどれほどの時間が経っただろうか。必死で走っているため長い時間が流れたように体感するが、もしかしたらまだ十数分も経っていないのかもしれない。
ピクシーの集団を迎撃に行ったフェンリルはいまだ戻ってこなかった。それでも彼女が役目を全うしているのは、後続のピクシーたちがあなたに追いつかないことからも明らかだった。
それでも、やはり静寂の森に潜むピクシーの数はかなり多い。木々の隙間を縫うように走るあなたの周囲からは、いつの間にかガサガサと茂みをかき分ける音がついてきていた。
いる。まだ姿は見えないが、ピクシーたちが両側面から並走し近づいてきている。
なんとか振りまこうとあなたは走る速度を上げた。そうして目の前にある一際大きな茂みに突っ込んで駆け抜けると……。
そこには、ピクシーの集団が待ち構えていたのだ。
あなたは思わず足を止める。すると並走していた左右のピクシーたちも続々と姿を現し、あっという間に周囲を取り囲まれる。
この状況は非常にまずい。ピクシーの攻撃はあなたに対してろくなダメージにならないが、その攻撃をリーシャが受けると彼女の詠唱が途切れるのが問題なのだ。
リーシャを庇おうにも、四方八方から矢を射られたらどうしようもない。
ピクシーたちが次々と弓に矢をつがえる。もはや射られるまで幾ばくもない。あなたはせめてもの抵抗として、抱き上げるリーシャを更に体に寄せて彼女を覆うようにして守った。
その時だった。あなたの四方を取り囲むピクシーを切り崩すように、包囲の外側から何者かが鋭く突っ込んで来る。
餓狼めくその鋭い軌道は、まさしくフェンリルの動きだ。修羅場に割り込んできた彼女はあなたの前に立ち、守るように短刀を構えた。
心なしか彼女の衣服が召喚した時よりボロボロに見えるのは気のせいだろうか。
あなたの視線に気づいたのか、フェンリルは少し気落ちしたように答える。
「……ちょっと見誤った。あのお嬢様、もう私一人では手に負えないかも」
どうやらフェンリルは、あなたのあずかり知らないところでアルメリアと交戦したようだ。彼女が無事だったことにほっとするのもつかの間、発言の意味を理解して絶句する。
魔狼フェンリルをして手に負えないと言わしめるとは、アルメリアは順調に力を取り戻しつつあるようだ。
これ以上アルメリアを自由にさせておくとまずいことになる。そう思うあなただが、まずはピクシーの軍勢をどうにかしないといけない。
ピクシーたちはフェンリルの登場に警戒しているのか、弓を構えたまま動かなかった。しかし森の影から続々とピクシーたちが現れ、その数を増していく。
どうやらフェンリル相手にかなり強い警戒を示しているらしく、数で押せるようになるまで膠着状態を維持し続ける腹らしい。
ピクシーの判断は、今のあなたの状況にも利を与えている。このまま攻撃されるとフェンリルはリーシャに矢が当たらないよう防戦一方になり、非常に不利だったのだ。
こちらの切り札はフェンリルではなくリーシャの魔法であると、自我無きピクシーでは察する事ができないのだろう。
しかしこのまま取り囲まれるがままというのも決して良くない。かなりの数のピクシーが揃えば警戒状態から一転功勢にうつるだろうし、その時放たれる無数の矢からリーシャを守りきれる保証なんてないのだ。
しかしこちらから仕掛けても藪蛇である。ただこうして攻撃を待ち受けるしかないのか。
「……もう大丈夫よ」
追い詰められて冷や汗を流すあなたに、リーシャの短い言葉が投げかけられた。
緊張に心を割いていたあなたは、言葉の意味を理解しかねた。どういうことなのか、とリーシャを見つめると、彼女はバタバタと足を暴れさせる。
「だ、か、らっ! もう降ろしなさいって言っているのよー!」
あまりにもリーシャが腕の中で暴れるものだから、あなたは黙ってリーシャをゆっくりと降ろした。
「ふぅ……ああ、もう、恥ずかしかった」
ミニスカートの裾を払いながら、リーシャはこの修羅場を理解してないかのようにフェンリルの前に進み出る。
あなたやフェンリルばかりか、自我を失っているピクシーですらリーシャの行動を理解できず、数瞬この場にいる皆が彼女を見つめた。
するとリーシャが右手に持っていた魔法書を掲げる。そこからは、おびただしい魔力があふれ出ていた。
「時間稼ぎありがとう、後は私に任せなさいよ」
リーシャがちらりと背後にいるあなたに振り向き、ウインクをする。
「さあ、魔王様が愛読書、ミスコリデ変異書に記された呪法の威力をとくと見なさい!」
リーシャが高らかに宣言する。それはこの場にいるピクシーに聞かせたのではない。はるか上空にいるアルメリアへ向けた啖呵だった。
魔法書から溢れ出ていた魔力が急激に暴れ狂い、波濤となって広がっていく。波間の波紋が如く、闇の魔力が静寂の森を覆いつくしていった。
「アルツ・ググツ!」
リーシャが呪いの言葉を発すると、静寂の森に広がっていた闇の魔力が地へ沈み込み、地面そのものが赤黒く発光し始める。
そして赤黒い地の底から闇の魔力が次々と立ち上り、ピクシーたちの小さい体に纏わりついた。
あなたを包囲していたピクシーたちの体は、ほんの数秒で赤黒い魔力で覆われていった。
地面から立ち上るおぞましい魔力の気配に、あなたは肝を冷やすしかない。いったいこれは何の魔法だというのか。
「呪法、アルツ・ググツ。闇の魔力で対象者を縛り、己の意のままに操る魔法よ。といっても、実力者にはまず効かないけどね。でもピクシー程度なら見ての通りよ」
リーシャは慌てるあなたをなだめるように続ける。
「この魔法は静寂の森全域を覆っているわ。つまり、ピクシーはもう全員私たちの味方。数の不利はひっくり返ったってことよ」
魔界の風によって自我を失いアルメリアに操られているピクシーを、呪いの魔法で逆に操り返す。確かにこれならば軍勢と呼んでもいいほど多くのピクシーたちを無力化し、かつ己の戦力へと変えることができる。
しかし、ピクシーは戦いを望まぬ愛らしい魔物娘であるというのに、魔界の風のせいで自我を失い、更には呪いで操り返されるとは不憫と言うしかない。この戦いが終わったら彼女たちを労う必要があるだろう。
……そう、戦いはここからが本番なのだ。これでようやく、アルメリアと正面切って戦う準備ができた。
あなたとリーシャ、そしてフェンリルは、空を眺めた。アルメリアは今やその姿を隠そうともせず、ワイバーンと化したリュミスの背に乗って優雅にこちらを見下ろしている。
森を包む呪いの魔法は目の当たりにしただろうに、それでもなおアルメリアには余裕の色が消え失せない。
その姿と態度を見て、リーシャはぎり、と歯を噛みしめた。
「我が物顔で私を……私たちエルフの国を、この静寂の森を見下ろさないでよ! 空にいようが関係ないわ! ピクシーたち、リュミスに向かって集中砲火しなさい! 撃ち落とすのよ!」
リーシャの号令に従い、静寂の森に潜むピクシーたちが一斉に弓を構えた。
戦闘タイプではないピクシーだが、今の彼女たちは先ほどまでと違う。全身を覆う闇の魔力は彼女たちを強化し、その弓は段違いの威力を有している。
矢の勢いははるか上空にいるリュミスまで届き、当たればかなりのダメージを与えることになるだろう。
それがもはや数えられない程放たれるとあれば、リュミスは決して逃げられない。確実にリュミスを撃ち落とせるはずだ。
そう冷静に状況判断するあなたは、しかしそれとは裏腹に胸の内にざわめきを覚える。いったいなぜ……なぜ、こんなにも不安を覚えるのだろうか。
ピクシーたちの弓が、ついに放たれた。地上から空に向かって撃ちだされる無数の矢は、さならがら天を穿つさかしまの流星群。重力をものともせず、風を切り空を駆け抜ける。
これだけの矢は回避も迎撃も不可能。だというのに、リュミスの背に佇むアルメリアは静かに笑っていた。
いや、それは笑っていると言っていいのだろうか。笑みを形作る唇は邪悪の色を帯び、悪逆の限りが詰め込まれている。
「恐れ慄きなさい」
アルメリアが小さく言葉を発すると、彼女の周囲に魔界の風が集った。それは猛り狂い、一瞬にしてリュミスの周りを覆いつくす。
突風の音が空に鳴り響く。リュミスを包むように広がった魔界の風が、地から迫る鋭い矢のことごとくを弾き飛ばしたのだ。
恐慄・華風凛。魔界の風を操るアルメリアのみが扱える恐るべき三つの魔法。その一つが今、衆目に晒された。
その実態は、術者であるアルメリアの周囲に魔界の風による結界を張り、近づく全ての者を弾き飛ばす魔法であった。
「な……なによ、それ……」
これにはリーシャも言葉を無くすしかない。ピクシーたちが放つ威力を増した無数の矢を、さながら小虫のように払いのけるその威力と、そこに込められた凶悪なまでの魔力。戦慄するより他がないだろう。
しかしリーシャが……いや、あなたやフェンリルまでもが真に恐怖を覚えるのは、この数秒後のことであった。
アルメリアの右肩背後に、魔界の風が集っていく。黒き魔界の風はその規模を増し、圧縮し、やがて黒点のように小さく煌めきはじめる。
上空を舞うリュミスの背に乗るアルメリアが、すっと右手を伸ばした。開いた手の平を眼下の静寂の森へ……あなたたちへ、向けている。
その時あなたは、反射的にぞっと肌を粟立たせた。
「散り果てなさい」
何かが来る。何か、恐ろしいものが。
その直感を抱くと同時に、アルメリアの右肩背後に凝縮されていた魔界の風が一瞬にして噴出した。
轟音が鳴り響く。その音を、どこか遠くで聞いているかのように錯覚しながら。
あなたは全身にはしる鈍い衝撃を感じていた。