あなたはフェンリルとミズハに両脇を挟まれながら、夜の空から駆け落ちていた。
景色が高速で流れていく。真下から吹きあげていると錯覚してしまいそうな強烈な風に総身を撫でられ、奇妙な浮遊感に内臓が浮き上がったかのように感じていた。
翼持たぬ者がその身一つで空中に身を投げ出す恐怖は凄まじい。立つべき地が無いというのに足は震え出し、嗚咽が臓腑から湧き出してくる。
しかし今あなたの意識を奪うのは、落下による恐怖などではなかった。目の前で起きている光景に、息を飲みこんでしまう。
ほんの十数分前、静寂の森の木々を広範囲に渡って吹き飛ばしたアルメリアの魔法は記憶にも新しい。右肩背後に集めた魔界の風を極限まで圧縮して黒点と化し、そこから魔界の風を一気に噴出させるあの魔法。その速度は光とすら錯覚するほどのもので、狙われれば回避するのは難事を極めるだろう。そしてその威力は折り紙付きだ。
その魔法の名を、散果・天津風。魔界の風を利用した、アルメリアにしか扱えない恐るべき風の魔法の一つである。
それが今……落下するあなたの目前で、竜と化したグリュイエールに直撃していた。
いや、天津風を喰らったのはグリュイエールのみではない。あろうことかアルメリアは、己の腹心の部下であるリュミスにグリュイエールを足止めさせ、彼女もろとも魔法で撃ち抜いたのだ。
グリュイエールとリュミスを同時に撃ち抜いた天津風は、そのまま夜空の先に飛び去っていく。対してグリュイエールとリュミスは、二人とも地上へ向かって力なく落下していった。そのうちに二人の変身は解け、赤いツインテールとはためくメイド服を夜空に映えさせながら、ただただ地平へ落ちていく。
グリュイエールどころか仲間であるはずのリュミスもろとも攻撃するアルメリアの非情さに、あなたは声も出ない。はるか頭上を滑空するアルメリアを見上げることしかできなかった。
「勇者様、そろそろ地上に着きます」
衝撃的な光景に心を割いていたあなただが、ミズハにそう言われて現状を思い出す。そうだ、今この身は地平目指して落下している。このままでは高所からの落下ダメージによって残りの体力全てが奪われてしまうだろう。
だからといって、どうすればいいというのか。そもそも空を飛べぬ身で空中に身を預けるというのが自殺行為に近い。
アルメリアは空を飛べないが、風の魔法を利用して優雅に滑空することはできるようだ。その証拠に先に落下したはずの彼女は、今あなたのはるか頭上に位置している。
この様子ではアルメリアは落下ダメージを無効化できるだろう。となると、その後の戦いのためにはあなたも無傷で切り抜けなければいけない。
だが、どうやって? あなた一人では困難な道のりであるが、今左右を固める魔物娘たちの存在を忘れてはいけない。彼女たちは、この状況を切り抜ける強い意志で満ちている。
ミズハが先ほど言った通り、地上は瞬く間に近くなっていた。あんなに遠かった木々の頂上が、今やすぐそこにある。
「木々を傷つけるのは気が進みませんが……私が一瞬だけ落下速度を落とします。その隙にフェンリルさん、お願いしますね」
魔物娘たちはこの状況で意思疎通ができているらしく、かなり頼もしい。ここは彼女たちに身を任せるのが一番だろう。
やがて、落下するあなたたちは静寂の森に突っ込んだ。すると左にいるミズハが、右手をあなたの腰に回し、しっかりと掴み止める。そして空いた左手に大鎌を宿して、鎌の先端を近くの木の幹に突き刺した。
がくり、とほんの一瞬あなたたちの落下速度が止まる。それは木の幹に突き刺さって固定された大鎌をミズハが握っているために起きた、瞬き一つの間にしか続かない奇跡だ。
フェンリルはこの一瞬の間に近くの木を強烈に蹴り抜き、落下エネルギーを強引に自分の物とする。彼女はあなたの腰をしっかりと掴み止め、蹴り抜いた勢いそのままに地上へと向かった。
しかし、まだ速すぎる。落下速度をある程度減じてはいるが、この速度で地上に突っ込んではかなりのダメージを覚悟する必要があるだろう。それでもそのまま落下するよりは大分マシと言えるのだが。
そんな心配は、続くミズハによって軽々と打ち砕かれる。地面へと接触する瞬間、彼女はまた左手に大鎌を宿し、勢いよく地面に叩きつけたのだ。
轟音が鳴り、粉塵が勢いよく舞い上がる。大鎌を地面に叩きつけた時の衝撃が多少あなたの体を襲っていたが、結果として落下速度はほとんどなくなり、あなたと魔物娘たちは全員無事に地上へ着地することができた。
だが安堵に息をつく暇など無い。あなたの着地に遅れて、滑空するアルメリアがどこまでも優雅に地上へと降り立った。ちょうどあなたの真正面に、数メートルほどの距離を取って。
戦いはまだこれからだ。リュミスはさすがに戦線復帰することはできないだろうが、当のアルメリアはいまだ無傷を誇っている。しかも時間経過するごとに真の力を取り戻しつつあるのだ。
アルメリアがリュミスごとグリュイエールを攻撃したのは、裏を返せばもうリュミスの助力すら必要ないと判断したからだろう。となると、今のアルメリアは……。
あなたは警戒しつつアルメリアを注視する。だがアルメリアはあなたのことを意識していないのか、なぜか空を眺めていた。
空……いや、空に暗く輝く魔界の門を彼女は見上げている。どこか、嬉しそうに。
あなたは、はっとしてアルメリアの視線を追いかけた。空に浮かぶ魔界の門は、明らかに先ほどよりもその規模を増している。こうして見ている数秒ほどで更に大きくなっていた。
「ふふっ……」
アルメリアが笑った。もうすでに何度聞いたか分からない、愉悦に浸った哄笑。その意味する所は考えるまでもない。
大きさの規模を増し、夜空に暗く輝く魔界の門。渦巻くその穴が、突然歪な音を立てはじめる。
鋼鉄同士を打ちつけ合ってもおよそ鳴り響かないであろう禍々しくも鈍い音が夜空に木霊し、やがて轟音と化して大気を震わせる。
それと共に渦巻く魔界の門がその暗い輝きの密度を増やしていった。そして巨大な渦穴から、黒き風が激しく流れ込んでくる。
「……魔界の門が、完全に開放されたのよ」
アルメリアの声を聞き、空に浮かぶ魔界の門を眺めていたあなたは慌てて彼女に視線を戻した。
アルメリアは先ほどとはうって変わって、しっかりとあなたを見つめている。その瞳は歓喜に潤み、頬には朱が差し、唇は艶めかしく濡れていた。
気品漂う衣服に映えるその妖艶さに、あなたは思わず一歩後ずさった。妖艶さの陰に、狂喜に似た感情をあなたは嗅いだのだ。
そう、アルメリアは今歓喜している。なぜ、などと問うのは愚かしいことだ。この時、この瞬間こそを彼女は追い求め、そしてあなたはそれを阻止しようとあがいていたのだから。
魔界の門の完全解放。すなわち、ダークフェアリーアルメリアが真の力をその身に宿す瞬間が、ついに訪れてしまったのだ。
「さあ、集いなさい、魔界の風よ」
魔界の門からおびただしく流れ込む黒き風が、アルメリアの元へと集っていく。色濃い黒き風はだが溢れだそうとはせず凝縮し、彼女の背へと向かっていった。
アルメリアの背に、羽根が生える。黒き羽根が。圧縮した魔界の風によって形作られた、恐悦の羽根が。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……そして、六つ。
「ふふっ、あははははっ!」
魔界の風の六枚羽をその背に宿し、気品漂う少女は美しく嗤った。彼女の名はアルメリア。ダークフェアリーアルメリア、その真の姿である。
今ここに、彼女の真の力と真の姿が白日のもとへと晒されたのだ。
アルメリアはどれほどこの時を心待ちにしていたことだろう。彼女は笑う。歓喜のあまり、哄笑する。ただ、ひたすらに喜び狂い震える。
しかし、その歓喜の瞬間を決して認めぬと、そう言わんばかりに炎の魔力がはるか遠方で立ち上った。
この荒ぶる灼熱の波濤は、まさしくグリュイエールのものに違いない。
「アルメリアァアァァァァ!」
絶叫にも近いグリュイエールの怒号が静寂の森に響き渡った。
ここから遥か遠く、空にまで立ち上る灼熱の魔力が、驚くべき速度で近づいてくる。静寂の森のどこかに落ちたであろうグリュイエールはその体力を全て失っておらず、屈辱に燃えているのだろう。
時間にしてほんの数秒で、グリュイエールが木々を蹴り跳びあなたとアルメリアの元へと馳せ参じる。その総身は灼熱に包まれ、形相は怒りに燃えていた。
グリュイエールとてすでに体力のほぼ全てを失っているはずだ。だが彼女はアルメリアを視界に入れ、更に魔力を高めた。
もとよりグリュイエールは孤高の竜。手負いの獣がそうであるように、逆鱗に触れられた竜は何よりも恐ろしいものだ。
荒ぶる灼熱が彼女の手に宿り、鋭いかぎ爪を形作る。そして四足獣のように前傾姿勢を取ったグリュイエールは、下肢に魔力と力を充満させ、一息に地を蹴り跳び出した。
風を切る音だけが耳に聞こえる。あなたと魔物娘たちには、グリュイエールの動きが一切見えなかった。それほどまでに圧倒的な初速で放たれた攻撃を、しかしアルメリアは……。
彼女はまるで風に吹かれて舞い泳ぐように二歩ほど左に動いた。そしてくるりとその場で回転し、もう一度前へ向いた時には……その右手にグリュイエールの首を掴み止めていた。
「がっ、あっ、ああぁっ……!」
細身とはいえグリュイエールの体を右手一つで、しかも首だけを掴み高々と持ち上げている。地を踏むことすらできないグリュイエールは、ただ足を無力に揺らしていた。
「グリュイエール……」
グリュイエールの喉を潰すように右手に力を入れながら、アルメリアはくすくすと笑う。
「力を取り戻した私にとって今のあなたは……そこらの雑魚にすら劣るわ」
かつて力を失っているアルメリアを雑魚に劣ると言ってのけたグリュイエール。そんな彼女に向けられたアルメリアの皮肉に、その瞳がカッと吊り上がる。
気力を振り絞り、グリュイエールは右手に宿したかぎ爪でアルメリアの顔を狙った。
だが、それよりも早く……。
グリュイエールを掴み上げるアルメリアの右手に、魔界の風が集っていた。
「狂い咲きなさい」
アルメリアの右手に集まっていた魔界の風が放出される。掴み止めていたグリュイエールの喉に密着して放たれた黒き魔界の風は、さながら暴風のように渦巻きつつ暴れ狂った。
狂咲・緋色ノ花。相手の体を掴むや手の平に魔界の風を集め放出する、アルメリアが扱える恐るべき魔法の一つである。その威力は天津風ほどではないが、密着状態で浴びる暴れ狂う魔界の風は致命的なダメージになることは間違いない。
ほんの数秒程で魔界の風の奔流が収まると、グリュイエールの総身は力を失ったようにぐったりとなった。アルメリアはそれをまるで、ゴミのように投げ捨てた。
投げ飛ばされたグリュイエールは力なく数度地面を転がり、そのまま動かなくなった。緋色ノ花が彼女に致命打を与えたのは疑うべくもないだろう。
一連の出来事を全てその瞳で写して、あなたは一歩も動けなかった。それはあなただけではない。フェンリルやミズハも同様である。
あまりにも圧倒的すぎる。グリュイエールはかつての封印によりその力を大幅に減じているが、それでもその実力は凄まじい。
それをやすやすと一蹴した、真の力を取り戻したアルメリア。その実力を目の当たりにして、うかつに動ける者などこの場には誰もいなかった。
「さて……」
ぼろ屑の様に転がるグリュイエールを一瞥した後、アルメリアは小さく呟く。
「さっさと終わらせてしまおうかしら?」
アルメリアがあなたを見つめる。目と目が合ったその瞬間、あなたの全身から冷や汗が噴き出てきた。
あなたは勘としか言えないとっさの判断で、手に持つ剣を斜めに構えた。その次の瞬間には、真正面にいたアルメリアの姿が掻き消え、あなたの目前へと迫っている。その手には、いつの間にやら剣が握られていた。
風の中級魔法、ウィンドブレード。風の魔力によって剣を形作り、それを武器にする魔法である。
風の剣が疾風のように鋭く振り下ろされる。風の剣とあなたの剣は交差し……鈍い音が鳴り響いた。
折れた。あなたの持つ剣は、あまりにも簡単に、脆く、砕け散る。アルメリアの強力な魔力が宿る風の剣が相手では、剣の強度が足りなかったのだ。
折れたというよりもまさしく砕け散ったといえる刀身を目にし、あなたの思考が一瞬停止する。
その時間をアルメリアは貪欲に奪い去った。彼女はあなたの剣を砕くやすぐに乱雑な前蹴りを繰りだし、あなたの胸へと叩きつけたのだ。
ただ蹴り足を前に出したとしか言えないような雑な前蹴りだが、そこには魔界の風がエンチャントされている。胸をしたたかに蹴り抜かれたあなたの体は吹き飛び、数メートル先を転び回った。
乱雑な蹴りの、なんという威力か。幸いまだ体力は残っているものの、これほどの攻撃を何度も喰らうのはまずい。
すぐに立ち上がろうとして、あなたは全身の力が抜けていく感覚に気づく。毒の影響だ。体力を大幅に失った今、リュミスの弱体効果を持つ毒がまたあなたの体の中で主張を始める。
全身が怠くなり、四肢に力が入らない。体の奥は熱を持ち、あぶら汗が額に浮かんできた。地面に這いつくばる格好のまま、そこから立ち上がることができなかった。
そんなあなたをアルメリアは悠々と見下していた。勇者などなんてことはない。蔑む彼女の目が、雄弁にそう伝えている。
あなたはどうにかして立ち上がろうと、両手で地面をついて体を支えた。しかし、腕は震え、足には力が入らない。
その間にもアルメリアは大胆に近づいてくる。このままではまずい。追撃を喰らってしまう。
当然、そんなことは誰よりもあなたのしもべである魔物娘たちが許さない。フェンリルとミズハがそれぞれの得物をその手にし、あなたを庇うように前へ立った。
先ほどはアルメリアの動きを追えずあなたへの攻撃を見過ごしてしまった彼女たちだが、次はそうはいかないとばかりにアルメリアを注視している。
アルメリアはそんな二人を前にして、艶やかに唇を指で撫でた。
「今のグリュイエールにすら劣るあなたたちに、いったい何ができるというの? いいわ、勇者よりも先にあなたたちを嬲ってあげる。かかってらっしゃい」
フェンリルとミズハを前に、あまりにも余裕なその態度。だが二人は激昂を覚えるどころか、その心のゆるみにこそ勝機があると捉え油断なく己の武器を構えた。
「はぁっ!」
最初に仕掛けたのはミズハだった。彼女は両手に持つ大鎌をアルメリア目がけて投げつける。ミズハの投擲スキル、堕天の一撃。正確無比な投擲もさることながら、真に恐ろしいのは大鎌に付与された追尾機能である。
しかしアルメリアはリュミスによってこの大鎌の特性を把握していた。そうでなくても、投擲大鎌による攻撃は空中戦ですでに仕掛けられたものである。
「避けても追いかけてくるなんて品がないわね」
猛然と大気を裂いて翔ける大鎌を前にして、アルメリアはただ左手を掲げるだけで応じた。そのまま大鎌の刃先を事も無げに掴み止める。
受けるでもなく、避けるでもなく、圧倒的な力に満ちた投擲大鎌を掴み止める。それは魔界の風によるエンチャントで身体能力を底上げしているからこそ出来た芸当だが、驚くべきは彼女が一切の戸惑いを見せずさも当然にやってのけたという事実である。
今のアルメリアを強大にさせているのは取り戻した真の力でもなく、取り巻く魔界の風でもなく、彼女の根幹にある自尊心なのだ。
アルメリアはそのまま左手に力を込め、大鎌の刃先に指を食い込ませていく。やがて刃先にはヒビが入り、あっさりと砕け散ってしまった。
「もろいわね」
悠然と笑うアルメリアに、今度はフェンリルが仕掛ける。彼女は両手に持つ短刀を地面に突き刺し、その体に満ちる氷の魔力を注ぐ。すると地面から巨大な氷柱が次々と生え出てきて、アルメリア目がけて突き進んでいった。
「氷遊びは芸がないんじゃなくって?」
己の体を突き刺さんばかりに生え出た目の前の氷柱を、アルメリアは無造作な前蹴りで迎えうつ。彼女の蹴りが当たった瞬間氷柱は歪な音を立てて瓦解してしまった。
しかしこんな魔法が通じないのはフェンリルも予想の内。地面から生やした氷柱は攻撃のためではなく、アルメリアの目をくらませるためであった。
砕け散った氷柱によってアルメリアは数瞬視界を覆われた。その隙を狙ってフェンリルは彼女の右側面へと疾駆していたのだ。
だがアルメリアの側面を狙ったのはフェンリルだけではない。ミズハもこれを好機ととらえ、大鎌を再度生み出してアルメリアの左側面へと駆けていた。
見事フェンリルとミズハはアルメリアを挟み撃つ格好となる。そのまま両者は攻撃を仕掛けようと己が手にする得物を振りかざした。
その寸前で、小鳩が鳴くような美しい声が放たれる。
「恐れ慄きなさい」
アルメリアの周囲に魔界の風が渦巻き、突風が吹きすさぶ。そのあまりの風速に、フェンリルとミズハは為す術もなく吹き飛ばされてしまう。
恐慄・華風凛は術者であるアルメリアの周囲に魔界の風による結界を張り巡らし、その内部や境界線に居るものを弾き飛ばす魔法である。近接戦闘をしかけたい者にとって、これほど厄介な魔法は無いだろう。
「近接戦闘は優雅ではないわ。雅な戦い方というのを少しだけ教えてあげる」
左右に分かれて吹き飛ばされたフェンリルとミズハに向けて、アルメリアはするりと両手を伸ばした。
それだけでアルメリアの魔力を含んだ風が吹き荒れる。風そのものに硬さと重さが宿っているのか、強風を浴びた二人はその甚大な威力に数歩退いた。
するとアルメリアは優艶にステップを踏み、くるりとターンをして見せる。その動きに連動してか再度風が吹き荒れ、風の打撃がフェンリルとミズハを再び打ち据えた。
アルメリアは踊っていた。舞いながら風の魔法を発動し、フェンリルとミズハを翻弄している。こんなものは戦闘ですらない、ただの遊びだとでも言うように。
「ぐっ、ぅぅっ!」
「ああぁっ……!」
フェンリルとミズハは為す術もなくアルメリアの魔法の餌食となっていた。彼女がステップを踏むたびに、いや、その細くしなやかな指が少し揺れ動いただけであらぬ方向から風の打撃が襲い来るのだ。アルメリアの動きから攻撃方向を予測することもできず、防御に専念しても滅多打ちにされてしまう。
やがてアルメリアは、ダンスの終わりを告げるようにスカートをひらりと翻してターンを決めた。それと同時にフェンリルとミズハの足元から風が巻き上がり、彼女たちの総身は風の刃で斬り刻まれる。
フェンリルとミズハは低く呻きながら崩れ落ちた。対してアルメリアは息一つ乱していない。
手も足も出ない。フェンリルやミズハですら力なく崩れ落ち、あなたは毒の影響で立ち上がる程の気力すら持ち合わせていなかった。
敗北の二文字があなたの頭に浮かび上がる。それはつまり、ここからの逆転などありえないと悟ってしまったに等しい。
アルメリアは強い。強すぎる。魔王を倒すという役目を第一とせず、エルフたちを救おうとしたあなた。その決意が間違っていたとでも言うのだろうか、この現実はあまりにも絶望的すぎる。
「さて、そろそろ幕引きといきましょうか」
邪悪に唇を歪め、アルメリアが一歩ずつあなたに近づいて来た。
このまま覚悟を決めるしかないのだろうか。あなたは歯を食いしばり、アルメリアを見上げることしかできない。
アルメリアは見上げてくるあなたの視線を極上の美酒とし、待ち受ける勝利に酔いしれる。
その時だった。あなたに近づくアルメリアが急に一歩跳び下がって距離を取った。その動きに遅れて、アルメリアが先ほど立っていた地面から闇で出来た細い針のようなものが幾重にも突き出てくる。
これは闇の魔法だ。あなたはリッチがこのような闇の魔法を扱うのを何度か見たことがあった。
だが、いったい誰が? あなたの疑問に解答を見せるかのように、アルメリアが近くの木々に強風を叩きつけた。
突風の音が鳴り響き、大木が軋む。すると木の陰から小さな悲鳴が聞こえ、やがてふらつく足取りで一人の少女が現れた。
少女は耳が長く、右手に魔法書を持ち、ボロボロになった衣服からはところどころ肌が覗いていた。その姿をどうして忘れることができるだろう。あなたの窮地に割り込んできたのは、すでに体力のほぼ全てを失っているであろうリーシャだった。
「誰かと思えば……ファリシアの走狗になったエルフじゃない。その無様さでよくも私の前に立てたわね。いえ……それどころか攻撃まで仕掛けるなんて、身の程を知らないのではなくて?」
怒気を孕んだアルメリアの声を受けて、だがリーシャはふらつきながらもきつく睨みつける。
「身の程なんて知った事ではないのよ……! このまま……このまま終わらせたりなんかしない……! 絶対に負けないんだから……!」
リーシャが持つ魔法書が暗い輝きを蓄えはじめた。満身創痍でありながら、リーシャはありったけの魔力を魔法書に注いでいる。その瞳のなんと力強いことか。
アルメリアの攻撃を喰らい、その力の差に絶望し子供のように泣いてしまっていた彼女はもうそこにはいない。まだそれほど時が経っていないというのに、短い時間の内に彼女は立ち上がるだけの気力を取り戻したのだ。勝算など、どこにもないはずだろうに。
「喰らいなさい、アルメリア!」
魔法書の暗い輝きが一層強くなり、魔法が発動される。リーシャの足元からひとすじの影がアルメリアに向かって伸び、そこから鋭い闇の針が次々と突き出してくる。
「くだらないわね」
しかしアルメリアは、そんなもの避けるまでもないとばかりに長い髪を梳いた。
事実、アルメリアに避ける必要は無かった。彼女の背に生える黒い羽根の一枚がさらさらと砂のように流れ落ち、魔界の風と化して地から這い出る闇の槍を次々迎撃していく。
一歩も動くこと無く、アルメリアはリーシャの魔法をしのいでいた。這い出てくる槍を一つ残らず壊し終わった時、リーシャは肩で息をしながらついに地へ崩れ落ちた。
「威勢のいいことを言った割にはこの程度なのかしら? さあ、もっと攻撃をしてきたらどう?」
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
蔑む笑みを見せながら、アルメリアは地にへたり込むリーシャを見下していた。あえてトドメの一撃を与えずに、屈辱に震えるリーシャの姿を楽しんでいるのだ。その驕慢さは、もはや覇王の気風すら孕んでいる。
大きく息を荒げながら、リーシャはアルメリアを見上げた。その目を見て、アルメリアの笑みがふと消えさった。
この痛ましい状況の中で、リーシャの瞳はいまだ陰りを見せていない。その瞳がつい先ほど大粒の涙と共に暗くなっていたのは、アルメリアもはるか上空から把握していたことだ。
しかしリーシャはその瞳に生気を戻してここに立ち、完璧な敗北を前にしても絶望に瞳を曇らせていない。
それがアルメリアには訝しかった。そしてそれ以上に腹立たしい。何か考えがあってのものか、それとも事ここに至って現実を理解していない痴愚の証なのか。どちらにせよ、彼女にとっては業腹な態度としか映らない。
「この状況でまだ何かを企んでいるというの? ……まさか、ファリシアが助けに来るとでも考えているのかしら? ……答えなさい!」
アルメリアは右手をリーシャに向け、恫喝する。その手には魔界の風が集い始めていた。その奔流がどこに向けられるかは、リーシャの返答次第である。
リーシャは、その危険の程をしっかりと理解した上で、はっきりと言った。
「魔王様がそんなに恐ろしいの? アルメリア……」
「……」
アルメリアは答えない。しかしその沈黙は、激昂よりもなお恐ろしいものだった。
「そんなに怖がらなくてもいいわ。魔王様はあなたを倒そうとはしない。だって、あなたを倒すのは勇者なんだから」
「……耳を疑うわね。勇者が私を倒す……? 目が悪いのかしら? その勇者なら、あそこで一歩も動けず竦んでいるわ」
「でも、まだ負けてない。勇者は……あの人は、あなたになんか負けたりしない……!」
「戯言を……もういいわ、そのイタズラな口を開けないようにしてあげる」
アルメリアの手の平に集った魔界の風が旋風のように渦巻いていく。このままではリーシャが攻撃されてしまうというのに、あなたはまだ立ち上がれなかった。
リーシャは絶体絶命においてもあなたのことを信じている。剣は折れ、毒に苦しみ、立ち上がることすらできない今のあなたを。
全精力を振り絞る。このままリーシャへの攻撃をどうして見過ごせようか。大きく息を吐きだし、気力のあらん限りを体に込めた。
だが、立てない。大きく失ってしまった体力の中で主張するリュミスの弱体化毒は、あまりにも致命的だったのだ。
もう、どうしようもないのだろうか。アルメリアに勝つどころか、今リーシャを助けることすらできそうにない。勇者とはこんなにも無力なものなのか。
悔しさに歯噛みしたくても、そんな力すら体にこもらない。
アルメリアは魔界の風が渦巻く右手でリーシャの喉を掴んだ。あなたはそれをただ眺めることしかできない。もうあなたに出来ることはなにも無いのだ。
「まだ諦めるのは早いぞ、勇者よ。皆の者、放て!」
凛と鈴を鳴らすような美しい声がどこからか聞こえると、周囲の木々の影から矢が次々と放たれた。
アルメリアの周囲を包むように放たれた矢の数々。彼女はそれを目で確認するや、リーシャの喉から手を離し舌打ち一つ両手を振り払った。
「恐れ慄きなさい!」
魔界の風による結界を張り周囲を吹き飛ばす、恐慄・華風凛。
華風凛の結界は飛来する矢のことごとくを弾き、アルメリアの近くにいたリーシャを吹き飛ばす。
「きゃぁっ!」
すでに力が尽きていたリーシャは、強風に抗えることができず、その小柄な体を浮き上がらせてしまっていた。そのまま木にぶつかりそうになる彼女だが、木陰から一人の女性が進み出てリーシャの体を抱き留める。
「ひ……姫様」
自分を抱きしめた者の姿を確認して、リーシャは呆然としていた。
リーシャを抱き留めたのは、白いローブを見に纏った美しきエルフの姫、エファナであった。彼女が姿を現すと同時、アルメリアの四方を包む木々の影から次々とエルフたちが現れる。
おそらくはエファナの側近、その中でも武力に優れた者たちだろう。だがエファナを含む彼女たちは、魔界の風が蔓延しすでに一歩も動けないはずだ。
なのに……彼女たちはそこにいた。誰もが顔色悪く、今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい咳き込んでいるのに、エファナは、そしてエルフたちは、この場に現れたのだ。
「姫様……ど、どうして?」
驚きにわななく唇を必死で動かして、リーシャはそう問いかけた。するとエファナは静かに微笑む。魔界の風の影響で青白くなったその顔は、だがこの夜闇の中どこまでも美しい。
エファナは抱き留めたリーシャを降ろし、彼女を庇うよう一歩進み出る。腰にさげていた綺麗な剣を引き抜き、彼女はアルメリアにその切っ先を向けた。
「リーシャよ。私は……いや、我らエルフは、自然に従い生きるも死ぬもその流れに身を任せることこそが美徳だと、そう信じていた。それこそが女神の使徒に称えられたエルフの生き方、エルフの誇りなのだと。しかし……」
ほんの一瞬エファナは言葉を切った。沈黙を妨げる者は誰もいない。アルメリアは、この場に現れたエルフの姫を訝しんでいるのか、警戒するよう瞳を細めていた。
「たとえ自然の成り行きとはいえ……滅びをあるがままに受け入れるというのは、困難に立ち向かうことを諦めた逃避でしかないのだな。いや、そもそも自然の艱難辛苦に立ち向かうことこそが、自然と共に生きるということなのだ。自然に立ち向かわず、どうして自然と共存できようか。そのことを、我らエルフは安息の日々の中いつの間にか忘れていた。そしてそのことを、困難に立ち向かおうとするリーシャと勇者、そなたたちが気づかせてくれた。故に私も……いや、我らエルフもそなたたちと共に戦おう」
エファナが視線鋭くアルメリアを睨みつける。しかしアルメリアは、ひどくつまらなそうに肩をすくめた。
「魔王のしもべになったエルフの次は、エルフの姫が邪魔をしにくるなんて、本当に……エルフとはどうしようもない生き物ね。魔界の風ですでに虫の息になったあなたたち程度で、私をどうしようというの?」
アルメリアは片手を軽く振るった。すると魔界の風が吹き荒れ、一帯に黒き風が蔓延する。
それだけでエファナの側近たちは激しく咳き込み、体をくの字に曲げ悶えはじめた。
エファナもまた咳き込み、片足を地面につく。その様子を見て、リーシャは力入らぬ体でエファナの体を支えた。
「ほぉら、ただこの程度でそんな様では、到底私の相手となり得ないわ。身の程を知りなさい」
悪逆の限りを詰め込んだような笑みを見せるアルメリアに、だがエファナもまた微笑みで応じた。
それがアルメリアには意外だったのだろう。彼女は眉をひそめる。
「その通りだアルメリア。我らエルフではそなたに敵わないのは道理。だが、我らはそなたに勝つためにここに来たのではない、勇者と共に戦うためにここへ来たのだ」
「……だから、そんな様でどう戦うというのかしら?」
訳が分からないとばかりにアルメリアは首を振った。もう魔界の風による影響でろくに頭すら回っていないのでは、などとすらアルメリアは思っているのだろう。
「戦えるとも。同じ場で剣を振るうことだけが共に戦うということではない。多くの意志と誇りを共にその手に抱けば、ただ一人でありながら幾千幾万の友と戦っていることに等しいはずだ」
「何を言っているの? さっきから本当に、気が触れたとしか思えない言動ね」
「アルメリア、そなたには理解できないだろうな。己の強大な力こそを第一に置くそなたには、私の言うことなど、決して……」
エファナは言いながら、気力を振り絞ってその手に持つ綺麗な剣を投げた。
アルメリアに向かって……ではない。アルメリアとは違う、別方向へ向かって彼女は剣を投擲したのだ。いまだ立ち上がれない、あなたへと向かって。
あなたの目前で、エファナが投げた剣が地面に突き刺さる。
それはとても綺麗な剣だった。かつてエファナに謁見した時、彼女がこの剣を抜いていたことを思いだす。確か、女神の使徒が授けたと言われるエルフの宝剣。
近くで見るとその意匠は独特だった。パイレーツが扱うレイピアのように全体の形状が細く、刀身の中頃はなぜか歪な螺旋を描いている。鍔も薄く、剣というよりも何か、もっと別の道具のようにも見えた。
「勇者よ、我らエルフは、リーシャとそなたから困難に立ち向かう意志を貰った。故に、私はそなたへエルフの誇りを差し上げよう」
目の前に突き刺さったエルフの宝剣。それこそが、彼女たちの誇りである。
毒の影響で力を無くしたはずの手が勝手に動く。あなたは導かれるようにその宝剣へと手を伸ばした。
柄を握る。すると淡く弱々しい光が一瞬溢れ、あなたの体を包みこんだ。これは宝剣に込められたエファナの魔力だろうか。しかし光はすぐ夜闇に縫い潰され、消え去った。それと共に、あなたは自身の体に起こった変化に気づく。
リュミスの毒が、消えている。先ほどまで体の奥底で熱波を放ち、四肢から力を奪い去っていた弱体毒が、剣を握った時の弱々しい光によって浄化されたのだ。
変化はただそれだけである。大幅に失った体力が戻ったわけでもない。急にあなたの力が増したというわけでもない。そんな奇跡など、起こりはしなかった。
しかし十分である。毒が抜けたことで四肢は力を取り戻した。あなたは、剣を掴む手に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。
一連の出来事を眺めていたアルメリアは、しばしの沈黙の後、失笑を漏らした。
「立ってどうしようというの? 折れた剣の代わりにそんなちゃちな剣を手に入れて、それで私に勝つつもりかしら?」
嘲りも明らかな声に、だがあなたは反応しない。
ちゃちな剣、とアルメリアは言った。しかしあなたの手に握られているのは、決してそのような代物ではない。この宝剣には、彼女たちエルフの気高き誇りが詰まっているのだ。
今エルフの誇りを手に、あなたは突き進む。一歩一歩、アルメリアに向かって。
アルメリアはそんなあなたの姿を見て呆れるように首を振った。いまだ勝負を諦めないとは実に愚かしい。彼女が言外にそう語っている。
「いいでしょう、その剣をへし折って終わりにしてあげるわ」
風が吹き、アルメリアの右手に風の魔法で作られた剣が握られる。その剣を手に、アルメリアは地を蹴って跳びあがった。
一瞬にしてあなたとの距離が詰まる。跳びあがった勢いをそのままに、アルメリアは風の剣を振り下ろした。