いつからそこに居たのか、その瞬間まで彼女がこの場に姿を現したことに気づいた者はいなかった。
静寂の森の中で一際身長の高い大木。その頂点に彼女は……魔王ファリシアは佇んでいた。
「見事です、勇者よ」
アルメリアとの戦いに勝利し彼女を屈服させている最中のあなたを眼下におさめながら、ファリシアは誰にも聞こえぬ小さな声でそう称賛した。
ファリシアはあなたとアルメリアの戦いをしかと見届けていた。その眼で直接か、あるいは何らかの魔法を使ってかは分からないものの……彼女は勝負の行方を最初から見守っていたのだ。
その上で出た言葉は、掛け値ない勝算である。
「アルメリアは、確かにかつての力を取り戻していましたよ。彼女の全力を、しかし勇者であるあなたは正面から打ち破りました。見事……そう言う他、ありませんね」
どことなく嬉しそうに、そして歌うようにファリシアは言の葉を散らす。
「ですがこれはあなただけの勝利ではありません。魔物娘たちの奮闘に、リーシャやエルフの手助け、そしてあなたの機転とそれが導いた運すらも含めての勝利。しかし、あなたの実力を疑う者はいないでしょう。勇者とは、他者に勇気を示し、時に与えた勇気を譲り受ける者。個人でありながら他者の力をも己の者とするあなただからこそ、アルメリアに勝てたのです」
ファリシアは物憂げに空を仰ぎ見た。空、というよりも、その先か、あるいはそこにある目に見えない何者かを視界へとらえるように。
「女神イストワール。はたして彼はあなたが望む勇者の道を歩むでしょうか? 彼には意思があり、それを支える魔物娘たちもいる。いまだこの世界の全てがあなたの管理下にあると思っているのなら、それは思い上がりです。現に、あなたはこうして名を失い封じられているのですから。……もっとも、それをどうにかするためにこしらえた勇者なのでしょうけど」
誰にも聞こえていないからこそ、誰も疑問を返さない。いったいファリシアが何を言っているのか、何に向けて言葉を散らしているのか。
誰の耳にも入らない虚しい独り言。ファリシアはしばし無言になった後、思い出したように視線を動かした。
彼女の視界の中心に映るのは、空に渦巻く魔界の門だった。
「それでは私も約束を果たすとしましょうか。勇者の奮闘に敬意を表して、特別にこの技を見せましょう」
ファリシアが右手をかかげると、そこに薄暗い闇が集っていく。闇は渦を作り、ファリシアはそこに手を入れて何かを引っ張り出した。
それは剣だった。あるいは剣と呼ぶしかない別の何かだった。手で握る柄があり、そこから伸びる刀身は歪な形をしている。湾曲した刃は歪に刀身を形作り、赤紫色に発光しながらも透き通っていた。
その剣が現れたとたん、この場にいる誰もが一斉にファリシアの方へと振り向いた。無論ファリシアがそこにいると気づいたからではない。この剣が発する異様な気配に、誰もが反射的に恐れを抱いたのだ。
見ろ、と。まるで命じられたかのように。リーシャが、エファナが、屈服したばかりのアルメリアが、ミズハやフェンリルが、そして、勇者であるあなたが。
誰もがファリシアを見た。誰も何も言えなかった。いったい何が起こるのか、想像できた者もいなかった。
ただ、固唾を飲んでファリシアの動向を見守ることしかできなかった。
ファリシアが握る異様な剣に、魔力が集中していく。おびただしい量の魔力が見る間に集まり、それに比例して刀身が薄暗い光を放つ。
「あ……あ……」
誰かが呆然としたような声を発した。誰の声かは誰にも分からない。あるいは、あなたを含む全員が同時に発したのかもしれなかった。
ファリシアの刀身に、まだ魔力が集っていく。まだ、まだ。もはやおびただしいという言葉ですら片づけられないほどの異様な魔力が。異常な程の魔力が。まだ集まっていく。まだ。まだ。
ファリシアが、無造作に剣を構えた。右片手で、ただ振り上げたとしか言いようのない構えから、更に無造作に剣を斬り下ろす。
その動きに鋭さはいっさいなかった。空に浮かぶ月を撫でるかのような、ふわりとした斬り下ろし。
だが、それと同時に剣に込められた魔力が開放される。一つの音すらなく、ただただ静かに。
剣に込められた魔力は解放されると同時にひとすじの刃と化して、虚空を突き抜けた。
目に見えない刃が、空を切り裂く。音も風もなく、静かに、ただ、見るものに恐れだけを与えて。
ファリシアが剣を振り下ろした次の瞬間には、空に渦巻く魔界の門が斬られていた。渦巻いていた巨大な魔界の門は、門自身が斬られたことに気づいていないのかしばしそのままの姿でいたものの、突如鉛を引き裂くような奇怪な音を上げて空に散開した。
ファリシアが与えた切れ目から、文字通り千切れ飛んだとしか言いようがない。あれほど威風を主張していた魔界の門は、ごくあっさりとその姿を崩壊させたのだ。
後に残ったのは静寂のみ。誰もが呼吸を忘れ、呆然と見入っていた。その静寂は、見る者の恐れからくるものだった。
いったいなにが起きたのか、誰も理解できなかった。ただ分かっていることがある。
これが、魔王ファリシアの実力なのだ。
エファナは恐れのあまり震え、歯をカチカチと鳴らしていた。リーシャは魔王のしもべでありながら、腰を抜かして震える体を抱きしめていた。
アルメリアと戦ったばかりのあなたですら、垣間見えたファリシアの絶望に背筋を冷やすしかない。
あの剣は、あの技は、明らかに……明らかに、アルメリアの天津風をはるかに超えている。
かつて、ファリシアはグリュイエールやアルメリア、そして彼女たちと肩を並べるもう一人の魔物娘を相手にして勝利し、魔王という肩書きを欲しいままにしたという。
グリュイエールが語ったこの事実を直接肌に感じてあなたは……一つの予感を抱く。
勝てない。今のままではまだ、ファリシアには……決して。
地から見上げるあなたと、木の頂点から見下ろすファリシア。その実力差は、この高低差をはるかに凌駕していた。
ファリシアは地上の者たちなどに興味ないとばかりに、ズボンのポケットをごそごそと漁り、一つの物を取り出した。
それは剣と同じく赤紫に発行する鉱物。魔水晶だ。
それを空にかかげ、ファリシアは魔力を込めていく。すると千切れ飛んだ魔界の門の渦が一か所に集まり、見る間にその規模を小さくしていき、やがて完全に消滅した。
魔水晶によって、魔界の門に再封印を施したのだ。
これでようやく全てが終わった。アルメリアとリュミスによる魔水晶の破壊を切欠にした戦いが、ようやく。
しかしそれは、勇者であるあなたにとってあらたな……いや、真の戦いを告げるものだった。
魔王に。ファリシアに。この恐るべき魔物娘に、あなたは勝利しなければいけない。それが、勇者であるあなたの役目なのだから。
魔界の門を封じたファリシアは、かかげた魔水晶から手を離した。彼女の手が離れたはずなのに、魔水晶はそのまま空に浮かんでいる。ファリシアの魔法によるせいなのかもしれない。
魔水晶はそのままふわりと空を漂い、リーシャの目の前で静止した。
「リーシャ、あなたも良くやりましたね。勇者がアルメリアに勝てたのは、あなたの尽力もあってこそ。あなたの奮闘への褒美に、その魔水晶は差し上げましょう。あなた自身も、これより自由です。勇者に呪印を解かせるなり、あなたが望むように動きなさい」
リーシャは無言で魔水晶を両手で包み込み、確かに受け取った。魔界の門を封じ続ける魔法がかかった、ファリシアの魔力宿る魔水晶を。
それを見届けたファリシアは、ゆっくりと視線を動かしてあなたを見た。どことなく、あなたを射すくめるように。
「勇者よ、私はここよりはるか北の地、かつて聖都と呼ばれた場所に滞在しています。私と戦いたければ、いつでもどうぞ。私に勝てると、その確証を抱けたのならば、ですが」
くすりとファリシアは笑った。挑発するようではなく、ただ自然に。夢を見る乙女のような、ありえない未来を想像する静かな笑みだった。
「せっかくなのでグリュイエールやアルメリアとも語らいたいところですが、これ以上は無粋というものですね。それでは、私はこれで。ごきげんよう、とでも言っておきましょうか」
そう言うと、ファリシアの足元から闇が吹き上がり、彼女の体を包む。そしてその体が全て覆われた次の瞬間には、闇も彼女の姿も、全てかき消えてしまっていた。
あの忌まわしい気配を放つ剣すらも。
あなたは思わずほっと息を吐いた。ファリシアの姿がこの場から消えたことで、張りつめていた糸が切れたように緊張が途切れてしまっていた。
それも仕方ないだろう。ファリシアの臨戦態勢……といっていいのだろうか。ともかく彼女がついにその力の一端を見せつけたのだから。
あなたは黙って空を見上げてみた。つい先ほどまで魔界の門が渦巻いていたのに、夜空は今呆れかえるほどに美しい。
あの巨大な魔界の門をただ一太刀で切り裂いたなど、夢を見ていたとしか思えない。それもとびきりの悪夢だ。
強い、などという言葉ですら測れない。それほどまでに次元が違うファリシアの実力を見せつけられて、あなたはかつてない敗北感を抱いていた。
だが、今はその敗北感を飲みこんで。エルフの国が、そして静寂の森や、この世界そのものが魔界の風の影響に苦しむことがなくなった事実を喜ぼう。あなたはそう気持ちを切り替える。
アルメリアとリュミスを無事屈服させ、魔界の門も封じてしまい、これ以上ない結末と言える。しかも魔界の門を封印する魔水晶はリーシャの手にあった。
リーシャは手の平の魔水晶を無言の面持ちでしばらく見た後、エルフの姫エファナへと近づいた。
そして魔水晶をエファナの手に握らせる。
「……リーシャ?」
リーシャの行為に疑問を抱いたエファナが首を傾げた。
「この魔水晶は姫様に捧げます。エルフの国でこれを守ってください」
「それは構わぬが……そなたはどうするつもりだ?」
「私は……」
リーシャは少し逡巡した後、あなたへと視線をうつした。
リーシャの瞳が、真っ直ぐあなたを見つめている。そこに固い決意の色を輝かせながら。
「私は、魔王様の元へいくわ」
驚きの声を、あなたはあげなかった。決意の気配から、そのことがなんとなく察せられたのだ。
「私がアルメリアとの戦いの役に立ったのかは分からないけど、魔王様は私が戦うための力を与えてくれたから……そのお礼はちゃんとしないといけないと思うの。だから、私はしもべのまま、あの人のところへ行く」
リーシャが魔法書を手にし、そこに魔力を込めていく。ファリシアが姿を消した時と同じように、リーシャの足元から闇が吹き上がり、彼女の体をゆっくりと覆っていった。
彼女の全身、その顔の部分まで闇に覆われそうになった時、彼女は満面の笑みをあなたに見せた。
「今度会う時はあなたと敵同士だと思うけど……もしあなたが私に勝ったら、私の呪いをちゃんと解いてよね? じゃあ……さようなら、勇者様。私たちエルフの為に戦ってくれて、ありがとうっ!」
そう言葉を残して、リーシャの姿はこの場から消え去った。
後に残ったのは沈黙だけだった。エファナは何も言わなかったし、あなたもただ、静かに空を見上げただけだ。
静寂の森から覗く夜空はどこまでも美しい。アルメリアとの戦いは、辛く苦しいものだった。だが、戦う価値は確かにあった。
全ての決着がついた今、森に流れる空気はどこまでも澄み切っている。心地いい余韻がこの森を包んでいた。
「……こ、この私が堕とされたというのに、ファリシアは出てくるわすごくいい感じに終わろうとするわ、いったいどういうことなの……!」
「……お嬢様、お気を確かに」
ついさっき屈服したばかりのアルメリアが憎々しげに言い、意識を取り戻したリュミスがアルメリアを慰める。
あなたは気分を削いでくる彼女たちの小声を聞かなかったことにして、ひとまずこの余韻を楽しむことにした。
……平和になった静寂の森の空気は、どこまでも心地いい。