誰もが言葉を失っていた。不意打ちを受け、立ち上がるのも困難なほど体力を奪われたあなたは当然として、全力を出し切り指一本動かせなくなったランガも、ミコト姫も。
それも当然である。この状況で彼女の姿を目の当たりにし、いったい誰が驚きに声を上げる余裕を出せるだろうか。
彼女……美しい金髪を宵闇に煌めかせる少女姿、魔王ファリシア。先ほどまで一切の気配すら感じさせなかった彼女が、あろうことか全てが終わりかけていたこの状況で姿を現したのだ。
あなたを含めて倒れ伏す三者を見回して、ファリシアは悠然と口を開いた。
「まずは勇者に非礼を詫びなければいけませんね。私としても不意打ちを仕掛けるのは不本意でしたが……何分、そうでもしなければ簡単にその剣を渡してくれそうにありませんでしたので」
冷たい眼差しで神気宿る剣を見下ろしたファリシア。あなたは不意打ちを受けてなお、まだ剣を手放していなかった。
しかし、今の状況で剣を守り通せるかは怪しい。あなたは剣の柄を強く握るが、それはさして意味のある抵抗と言えないだろう。
あなたにはもう立ち上がる体力すらないと判断したのだろう、ファリシアは視線を切り、次にランガとミコト姫を見た。
「あなたはよくやりましたよ、ミコト姫。しかし残念です。あなたに貸した力の代価は剣の破壊のはず。きちんと契約を果たしてもらわないと困りますね」
言いながら数歩近寄り、ミコト姫の傍らに落ちていた魔剣を掴み上げる。
月明かりに照らして刀身を確認するように数度翻した後、魔力により作られた黒い渦を生み出してそこに剣を差し込む。すると魔剣は黒い渦に飲みこまれ忽然と姿を消した。
「私の剣は返してもらいますが、構わないでしょう? すでにあなたの迷いは晴れたようですから、私とこれ以上契約し続ける理由もないでしょう。契約の代価がはたされなかったのは残念ですが、それはそれとしてあなたの迷いが晴れたのは嬉しく思いますよ」
「……なにを言っておる。ミコトをそそのかしたのは、お主じゃろうが」
すでに精根尽き果て魔力も枯れ、体を動かすことができないランガ。彼女は唯一動く口を憎々しげに歪めた。
ファリシアはランガの怒りを正面から受けてなお、ふっと微笑した。
「そそのかしたなどと人聞きが悪い。私は私なりに彼女の迷いに同調しただけですよ。己の力に伸び悩み、しかしそれでも強者に勝つべくあがこうとする。そういう姿を見ていると……ふふ、自然と愛でたくなるというのが当然では?」
「……歪んでおるな。しょせんお主にとって、ミコトの戦いも暇つぶしの一環にすぎないのじゃろう?」
「ええ、良き暇つぶしでした。魔剣に頼らず己の技術を頼りに戦う姿も、私の魔力に酔う姿も、それに立ち向かう勇者の奮闘も……どれも私の心を震わす絢爛な物に値します。死力を尽くす戦いとはやはり良い。私の枯れた心に降りそそぐ雨は唯一それだけでしょう」
「お主は……やはり、それが目的なのか?」
「……とは?」
ランガが一度生唾を飲む。ファリシアの瞳が一層底暗さを増したのに気付いたからだ。
「全力を出すべき相手として、勇者に期待しておるのじゃろう? 儂でも、アルメリアでも、グリュイエールでも、誰もお主には勝てなかった。いや、先ほどの戦いで分かった。お主は儂らとの戦いですら本気の半分も出していなかった」
「……」
「全力を出してみたいのじゃろう? 実力伯仲の勝負に焦がれているのじゃろう? その衝動、儂にも分かる。寂れた心を震わすのは、己に並び立つ仇敵の他にいない。お主はそれこそを求め、しかしそんな者がいないからこそ、人間にちょっかいをかけ心の慰めとしているのじゃ」
数瞬訪れた沈黙。息が詰まるとは、このことだった。
ランガの言葉がファリシアにいったいどのような影響を与えたのか。底の見えない、心が読めないあのファリシアから、わずかに感情が発露した。
それは彼女の纏う魔力に流れ、この場を支配する。
怒りではない。歓喜でも、悲しみでも、憎悪でも。ファリシアが今わずかに感じている感情は、とてものこと形容できるものではなかった。
だが、あえてそれに名をつけるなら……絶望と言うしかない。
「……この世界は、彼女の鳥籠でしかありません」
沈黙していたファリシアが、ぽつりとつぶやいた。
「ランガ、あなたはずいぶんと私を評価してくれているようですが、しょせん私も皆と同じく籠の中の鳥なのです。わずかに開いた扉から籠の外へ飛び出してみても、飼い主からすれば部屋の中を飛び回っているだけに過ぎない。彼女の支配から完全に脱することなど誰にもできないのです」
「……?」
「それでも私は束の間の自由を感じたい。ただ倦怠に沈むよりも、心震わす一瞬だけを追い求めたい。いつか籠を見張る彼女が舞い戻るまで」
「な……なにを、何を言っておる……?」
ファリシアの呟きがランガには全く理解できなかった。ランガだけではない。ミコト姫も、そして当然あなたも、彼女の言葉の意味が分からない。
それでもかまわずファリシアは言の葉を散らしていく。絡まり合った心の紐をさらけ出すかのように。
「実力伯仲の戦い……ああ、確かに私はそれを勇者に期待しています。しかし、それ以上に私は、彼に……彼に……」
ファリシアが振り返り、地に崩れるあなたを見た。
その瞳は少しばかり潤み、なぜか……哀愁に濡れている。
まるで、あなたを憐れんでいるかのように。
なぜそんな目で見てくるのか、あなたには分からなかった。しかし、そこに込められた感情は、決して嘘偽りないものだと直感できる。
ファリシアは……あの恐るべき魔王は、確かにあなたへ憐憫の情を抱いているのだ。
しかし彼女はすぐに顔を伏せ、次にその瞳を晒した時には元の冷ややかな色に戻っている。
「ランガに乗せられて喋りすぎましたね。さっさと目的をはたして私はお暇させていただきます」
ファリシアがゆっくりとあなたに近づいてくる。ミコト姫に委託していた通り、彼女の目的はあなたの持つ神気宿る剣だ。
対ファリシア用の神気の剣。その威力は先ほどのミコト姫相手に実証済みである。この剣ならばファリシアに大ダメージを与えることもおそらく可能。
この剣を失う訳にはいかない。しかし、先ほどの不意打ち、闇の魔法である影の魔槍にてあなたはすでに瀕死とも言える状況である。
リッチですら比較にならない圧倒的な魔法の一撃。立ち上がることすらできないあなたは、おそらく抵抗できず剣を奪われることだろう。
このままではまずい。そう思っても、どうしようもない。
相手は魔王ファリシアである。万全の状態でもはたして勝てるかどうか怪しいというのに、この状況では手も足も出ないのが道理であった。
あなたのすぐ近くまでやってきたファリシアは、腰を屈めて神気の剣に手を伸ばす。
その瞬間、彼女の動きを制するように地面から氷柱が這い出てくる。
「これは……」
ファリシアは注視するように瞳を細め、一歩退いた。
あなたとファリシアを二分するように地面から生え出た巨大な氷柱。この魔法は……間違いない、フェンリルのものだ。
あなたとファリシアがそう理解した時にはもう、遠くから大声が響いていた。
「勇者様、大丈夫ですか!」
パイレーツの大音声と共に、あなたが召喚してきた魔物娘が走ってくる。
ネコマタ、リッチ、パイレーツ、ミズハ、フェンリル、リュミス。あなたが後を任せた彼女たちは見事勝利を納め、あなたの窮地へ駆けつけてきたのだ。
「……なるほど、ランガは最初からこれを期待して時間稼ぎを仕掛けたというわけですが。まんまと乗った私も愚かですね」
ファリシアは本当に自分の愚かしさを反省しているのか、困ったように肩をすくめていた。
「リッチがいきなり魔王様の気配がすると喚くので慌てて来れば……九死に一生のようでしたわね。リッチもたまには役に立ちますわ」
「たまにはとはどういうことだ! と、というかだな……ほ、本当に魔王様がいるではないか……!」
この修羅場にやってきて開口一番、いつもの調子で言い合うパイレーツとリッチ。
しかしそれは余裕のあらわれではなかった。彼女たちはファリシアの姿をあらため、首筋に冷や汗を垂らしていた。
「こっちは六人。数は有利だけどさ……」
「……相手は魔王様。正直、どうだろうね……」
ネコマタとフェンリルは苦々しく唇を歪める。
「しかし、戦わないという選択肢はありません」
「ええ、勇者様をお守りしなければ」
ミズハとリュミスは魔法によって作り出した己の得物を手にする。
同時に、他の四人の魔物娘も次々臨戦態勢へと入った。
その姿を見て、ファリシアは一つため息をついた。
「私は戦いに来たという訳ではないのですが……あなた方がやる気だというのなら、しかたありませんね。いいでしょう、少しばかり相手をしてあげます。そう長引くことはないでしょうし……私もたまには戦わねば、体が鈍りそうですからね」
魔物娘六人を前に、ファリシアは普段通り、自然体で佇む。
魔力の気配もなく、構えを見せるでもなく、隙だらけのその姿。彼女たちを舐めているのか、あるいは、ただ冷静にそれで十分だと判断しているのか。
そんなファリシアの態度に対して、悪態をつく者はいない。誰もが理解している。挑戦者はこちらの方だと。
相手はあの魔王ファリシアである。恐るべき火竜グリュイエール、魔界の風を操るダークフェアリーアルメリア、オーガにして比類なき剣術家ランガ。かつて魔界の覇を争ったかの魔物娘ですらかなわず、ついには魔王とまで呼ばれ畏怖される存在。
そんな彼女が、ついにあなたの目の前で戦いを繰り広げようとしていた。