カイドウとオロチの手による圧政が真綿で首を絞めるような巧妙さを以って進められていた二十年前に、その事件は起こった。
〜〜〜〜〜
暫し時間は遡り、30年ほど前のこと。
ジルクはというと、既に悲願であったトキとの再会を果たしていた。彼は元よりの優しく穏やかな性格ゆえか彼女との再会に涙を流して喜んだ。かくいうトキも、最愛の父であり初恋の相手であるジルクとの悲願の再会に、止めどなく流れる涙を拭うことはなかった。
二人は互いを確かめるように抱擁することに全身全霊を注いだ。
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800年の時を飛んだトキは各地を転々としていた。
ある時、彼女は立ち寄った島で人買いである男に迫られていた。いざ騙されんとしていた時、その場にジルクが割り込むかたちで全く偶然にも二人は再会を果たした。
ジルクとしては単なる善意による行動だった。
この頃のジルクはその能力の覚醒もあってか随分と自信を…とはいっても細やかではあるが…持てるようになっていた。
そのため、自身に出来ることならば人助けでもしようという気概に満ちていたのである。
その実は、諸事情により悉く甘やかされすぎていた自分の境遇を顧みて、多少の苦労がある程度の新生活を始めようとしていた彼なりの決意が行動に現れたと言って良かった。
兎にも角にも、過程や背景はどうであれ二人は800年ぶりの再会を遂に果たすこととなった。
再会した喜び冷めやらぬうちに、二人はいつの間にか周囲を人攫いの一団に囲まれていたのに気が付いた。
タコ男の発言を聞いて、ジルクは日頃は見せない男らしさを全身で振り絞り、トキの身を自分の身で庇うと、彼女を守ろうと身を固めた。
しかし、彼の決意とは裏腹に…そして彼の新生活への期待とも裏腹に…二人は安全にこの島を出港することになるのである。
ガンッ!
突然の轟音に辺りは静まり返った。
前のめりに倒れたタコ男の後ろには、ジルクのよく知る巨大な影が聳え立っていた。
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彼らの二人きりは案外長続きしなかった。
前述したように、ジルクは惨憺たるという表現が使われても良いくらいの"甘やかし"を受けていたのだが、彼は謂わばそこからの逃亡者でもあった。
愛ゆえに追いかけられることは初めてではないが、彼なりに色々と思うことがないわけでもなかった。仏の顔も三度まで…が正しい使い方でもないと思うが、彼は今回が四度目くらいの逃亡だった。
彼はここ50年…いや60年間で少なくとも五度、「海賊団」からとことん甘やかされては、それらの「海賊団」から逃げ出したいた。
彼自身は決して甘やかされるのが嫌なのではない。天性のヒモという宿命を、最近彼も自覚してきたくらいである。一人では生きていけない。それはよく理解していた。だが、態々何度も追い回されたり、執拗に勧誘されるというのも彼には中々に負担であった。
基本的には誰かと一対一の関係と時間を大切にする彼にとって…1日に場所や時を変えて複数人との同棲をも成立させた彼なりのルールだった…大家族や個性の塊のような大所帯で四六時中猫可愛がりされ続ける毎日というのは、一人一人に自分が相手に愛を返せていないようで罪悪感や無力感を感じずにはいられない環境だったのだ。
彼は五度、海賊船からの勧誘、乗船、出奔を繰り返した。
正確には…ロックス海賊団から一度、ビッグマム海賊団から一度、百獣海賊団から一度、白ひげ海賊団から二度の計5回である。
非正規の乗り降りならば、上記の回数には収まらないが…一時期でも正式な乗組員として数えられたのはそれぞれ一度ずつであった。
…なぜ白ひげ海賊団から二度も逃げたことになっているのか?それは、二人が再会した島にまでジルクを追いかけて白ひげ海賊団がやってきたことで、ジルクとトキは二人して強制加入の、ジルクは再加入の流れと相成ったからであった。
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白ひげは、強大なその巨体を喜びに震わせてジルクを見つけたことを彼の家族に大声で伝えた。
「野郎どもぉ〜〜!!!ジルを見つけたぞぉ〜〜!!!」
耳を塞ぐジルクとトキ。
遠くでも雄叫びが聞こえた。
「待っててくだせぇ!ジルクさぁ〜〜ん!!俺たちがすぐに駆けつけますから!!」
声がけからすぐに白ひげ率いる海賊団は一同揃い踏みとなった。因みに、タコ男は白ひげの息子になるらしい。
一度も息子とは呼ばれた覚えの無いジルクにはピンと来なかった。
トキは敵意のないことに安心したらいいのか、ジルクの少し残念そうな表情を心配すればいいのかと考えていた。
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今、二人は船に揺られている。
あの後彼らは直ぐ様に島を出港する運びとなった。
トキを離さない少し怯えた様子のジルクと、彼との再会に大盛り上がりの海賊達の様子は対照的だったが、ジルクも嫌がっているわけではなさそうであった。少しお疲れ気味というのが適当であろう。
彼は船員と、船長エドワード・ニューゲートからのムギゥといった擬音がつきそうなほどの抱擁に胸焼けしそうであった。しかし、愛されて不満などあるはずがなかった。全員が回り切る頃には、慣れというよりは心に余裕ができたのか、最後にまとめて抱きついてきた少年達へ優しげに抱擁を返していた。
抱擁が終わると、彼はすぐさまトキと手を繋ぐと、観念して白ひげの船に乗ることにした。
その答えを聞いた一同の喜びようは凄いもので、彼を今度は逃すまいと船員達に囲まれてワラワラと賑やかに船へと乗り込んだのだった。
白ひげとその息子達一同、そして客人一名からの熱烈な歓迎は船の上で本格的なものとなった。
そんな華やかな船内から少し外れて、風のままに進む海賊船の船尾では、訳ありの男が一人。
3日耐えれば乗船を許すという約束を果たすべく鎖にしがみついていた光月おでんその人である。
おでんは約束の初日まではまだ余裕をもって耐えていた。
しかし、2日目に入る夜明け頃から、突如として普段の航海でならまずしない速度で、白ひげの海賊船は海を縦横無尽に駆け始めた。
体を打ち据える水の勢いは暴力的になる一方…そんなこんなで丸一日が過ぎる頃には流石のおでんも疲れ切っていた。
どこかの島に着いたのか、先ほどまでの凄まじい航行はぴたりと止まり、しばらく止まったかと思えば、今度は緩やかに航海を始めたのだ。
その日の夜、気力に任せて握り込んだ鎖を誰かが引くのがわかった。
夜まで続く再歓迎の宴の賑やかな喧騒は、おでんの耳にも届いていた。
「君はどうしてそんなところに捕まっているんだい?」
おでんは頭の上から降ってきた声に気づいて、その腫れ上がった顔を向けた。
声の主人の顔ははっきりと彼の目に写っていなかったが、男であることはわかった。
「…君は冒険野郎というやつなんだね?凄いなぁ…」
しみじみと男は語り出した。
彼がいうには、少し前までとある国の、海に憧れる青年の元で暮らしていたらしく、彼が一緒に暮らしていたその男もその冒険野郎というやつで全く恐れを知らない、とても好奇心に満ちた男だったらしい。どうしても海に出たいと言っていたらしく、周りのものにも迷惑をかけていたという。
そいつはとんでもないやつだ!とおでんは思った。
目の前の男が思いついたように言った。
「君も海に出たくてこんなことをしているの?」
おでんは肯く。念願を果たすため、故郷にはまだ戻るわけにはいかなかった。
見たいもの聞きたいもの食べたいもの…兎に角経験したいものが山ほどあったし、生まれ故郷で共に暮らし、先日一足先にすんなり海を越えていった10代の頃からの友、ジル公方との再会の約定も果たせていないのだ。
おでんが頷いたの確認した男は、彼の握り込んでいる鎖を触ることなく船尾に手繰り寄せた。
何たる妖術!とおでんは驚いたが、更なる驚きが続いた。
彼を海が持ち上げたのである。比喩なしに、それまで彼を叩きつけてきた水の原野が、いきなり意思でも宿ったようにその形を椅子のように変えると、おでんを丁重に抱え上げて、海面から相当高くにある甲板へと押し上げたのである。
驚愕に空いた口が閉まらないおでんを他所に、海を操ってみせた男の方も別の理由で驚いていた。
「えっ⁉︎よく見ると…君、おでん君じゃないか!」
その日三度目の再会であった。
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翌日、手当を受けたおでんは改めて白ひげに乗船を申し込んだ。
今回は先に見せた頑固さなどなかったとばかりの異様なほどの快諾であった。
その裏に漢を見せたおでんへの好感度が鰻登りであったことと、今朝方の寝ぼけ目のジルクが発した"おでん君も乗せてあげたらいいのに"発言が強く影響したのは言うまでもない。
ワノ国に寄った折に逃げ出したジルクと、彼に入れ替わる代わりで乗船を試みたおでん達一行は、トキを除いて全員が全員顔見知りであったことに白ひげを含めた船員達は全員が驚いていた。
また、おでんも怪我が回復して目がしっかり開く状態でジルクと再会したことで、彼との再会に改めて喜び、奔放な主人を支えるために共に出奔したイゾウ、おでんを慕い船倉に隠れて密乗船していたイヌアラシとネコマムシも、往年の恩人との再会に胸を躍らせた。
トキはというと、おでんやイゾウの姿格好からワノ国との繋がりを見出し、彼の国へ行くのが悲願であると打ち明けた。
対して、ワノ国に行きたいと言うトキの言葉に、白ひげもおでんも甚だ嫌だと言う表情で応えたが、どことなく最終目的地としてワノ国が設定されたと言うのは周囲の共通認識であった。
と言うのも、"トキの行くところに僕は着いていくよ。もう離れ離れは嫌だからね。"というジルクの発言に、嫌そうな顔をしていた白ひげは表情を直ぐに直して「考えておく」と言い出し、他の幹部の面々も「またあの滝を昇る用意をしなきゃな」と各々表情を締め始めたため、それらの様子からもトキの願いは遠からず叶えられそうであった。
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白ひげがワノ国に寄港した折を見て、一人海を超えて島を回っていたジルクは、結果的にトキと再会し、再び白ひげの船に乗り、果てはおでん達旧縁とも再会した。
何となくこれから何か起こりそうだという不安と期待がある中、彼はトキと共に行動する旨を皆に伝えると、後は彼女の航路に従うのみと早々に自分に与えられた部屋に戻っていった。
後に残ったワノ国の面々とトキは今後について白ひげ達との話し合いを進めた。
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おでんと白ひげ達との航海は思いの外長く続いた。
ジルクの思う以上におでん達は広い世界への好奇心を爆発させ、常に溌剌として力を持て余している様にさえ見えた。
白ひげ達もおでん達が大好きになった様で、毎日の賑やかさが前にも増すのに時間はかからなかった。
道中でみなしごを拾ったりと、仲間が増えることもあった。
帽子を被った少年に、根拠のないシンパシーを感じたジルクは、何故か鼓動が二つある自分の体のことが頭に浮かんだが、気にすることはなく、感じる共感のままに、その少年を彼なりに可愛がった。
眠らない少年はジルクから見ても不思議な存在だったが、純粋な彼はそんな人もいるのだと納得し、一方で眠いのを我慢しているのかもと思い添い寝をしてやるくらいには気を遣っていた。帽子の少年は、物静かではあったが直ぐにジルクに懐いた。
ジルクは彼が気づいていないだけで、とても包容力のある、温もりに満ちた存在だった。他の海賊団の中にあっても彼は違いなく愛されたが、白ひげの海賊団の中にあっては特に顕著であった。彼の包容力や温もりは、正に家族に向ける愛情そのものであり、様々な過去を持つが故に不恰好だが本当の家族として強く結束していた白ひげ海賊団の全員にとっては、本心から代替でも偽物でもハリボテでもない本物の家族愛と慈愛を向けてくれるジルクは何よりも大切な存在となっていた。
白ひげの元では常に誰がジルクと過ごすのかをくじ引きや決闘で決めるほどに彼は愛されていたし、実際彼は船内でも船外でも常に誰かと共にいた。彼を護るためでもあり、彼と共にいたいと言う思いからでもあった。
ジルクはジルクで白ひげ海賊団のみんなを愛していたし、彼なりに家族としての愛をとても大切にしていた。
ジルクにとって、血の繋がった家族として最も古い存在はトキである。そして、最も愛している娘にして、男女として互いを最も想い合う関係でもあり、その絆は800年を隔てても途切れなかった。
そんなトキは、白ひげ達との旅の中でおでんと日に日に仲を近づけていた。
彼女からすれば、父以外の男への愛情を初めて感じた機会であり、新鮮であると共に僅かな不安や緊張、未知への畏れなどがあった。
しかし、彼女は持ち前の胆力を旅の中で磨き上げていき、遂におでんの子を身籠った。
白ひげ達は祝福したが、一方でトキとはおでん以上に深い関係であることが側から見てもわかったジルクがどんな心中であるのかが心配でもあった。
ジルクはトキを深く愛していた。しかし、彼女はジルクのものでないことは、ジルクがよく知っていた。だからジルクはトキが、自ら愛した相手と添い遂げることに何か想うところはなかった。
しかし、トキが誰かに添い遂げる時、そのトキと共に自分が添い遂げてはならないなどと言うこともまた何人にも言われる筋合いはないとも、彼らしからぬ強烈な意志を持っていた。
トキが誰を愛そうとも、たとえトキが他の男の子供を産もうとも、ジルクはトキを愛している。
ジルクはトキを誰よりも愛していた。それは、例えおでんが見ても否定はできない事実だった。
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28年前、おでんとトキとの間にモモの助が生まれた。
ジルクは祝福した。そして、少しずつトキが自分から離れていく様に、寂しさと成長に対する感無量の涙を流さずにはいられなかった。
だが、この時ジルクはトキの愛情を見誤っていたと言わざるを得ない。
トキはジルクが想う以上に彼を愛していた。ジルクはトキの父離れや、初恋との離別を思ったがそれらは全くの間違いであった。
トキは無論のことおでんを愛している。しかし、800年を超えてでも父と共にあることを選んだ剛毅さを持つ彼女が、一度たりとて初恋の、変わらず自身の最愛の男であるジルクのことを片時とて忘れたわけがなかった。
夫であるおでんと比べるまでもなく、彼女の生涯第一の全ては初恋の男、父ジルクその人以外に存在しなかった。
トキは強くジルクとの繋がりを、次代に命を遺すことで絶対のものにしようと考えていた。彼女にとって、子供を残すことは意志を残すことだ。おでんという傑物の意志を残すことは価値あることだし、愛した相手の子を産むことに不満はない。
だが、ジルクとの子を為せぬと言うのであれば話は別であった。
彼女がジルクとの愛の形を求めよう動き出そうとする中で、白ひげとおでん達一行は、世界に名を轟かせる大海賊の一つであるロジャー海賊団のゴール・D・ロジャーと出会い、おでんは「損なわれることのない書物」を読み解く能力を買われて、ロジャーから1年間の旅に誘われることとなる。
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「全てを知ること。」
「それが愛する誰かより、どれだけの価値があると言うんだ‼︎‼︎」
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ジルクは温厚である。しかし、彼の生涯には数回特筆すべき"憤怒"がある。
そのうちの一つは、全てを知ることと引き換えに女を守らなかった男への怒りと直接愛する女に傷をつけた男への怒りだ。
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ロジャーとの出会いは世界の運命であったのだろう。
白ひげは家族と離れることを渋り大地震を起こしかけ、ロジャー達は一触即発の状態に陥ったが、大地震で割れた海を片手間に穏やかな海原へ鎮めたジルクから肩に手を置かれつつ「話くらい聞いてやってよ。エド、お願い。」と宥められた白ひげは、おでん自身からの頼みもあってか本当に渋々と言った様子ではあったが、ロジャーへの同行を許した。
おでん、トキ、モモの助、イヌアラシ、ネコマムシのおでん一家は、イゾウを白ひげの元に残してロジャーの元へと移っていった。
ジルクはというと、白ひげへの"お願い"という名の直談判で、トキについていくことを認めてもらった。
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ラフテルまでの道のりには多くの困難が立ち塞がったが、困難以上に世界の神秘はロジャー達とおでんの心に感動と刺激を与え、心臓を揺さぶった。
血湧き肉躍る大海原の大冒険は後世にまで語り継がれるであろうことは疑いの余地がなかった。
少しずつピースを集めていくロジャー達とおでんはどこまでも楽しそうだった。
おでんの故郷にあるという赤いポーネグリフを探し求めて、一行はおでん達の故郷であり、トキの念願の地であるワノ国へ向かった。
ロジャーとの旅の始まりの頃に、"僅かな時期遅れ"で生まれた娘日和は、おでんに似ても似つかぬほどに美しく、母親の血を色濃く継いでいることに違いなかった。
日和は、父おでんにも懐いたが、母トキの父で、祖父にあたるジルクには特別に懐いた。ジルクもまた、孫の日和を目に入れても痛くない位にとても可愛がった。
トキはひとつだけ父に嘘をついた。それは日和がジルクの孫娘ではなく、ジルクの実の娘だということだ。
モモの助が生まれてから、トキはおでんと片手で数えるほどしか交わっていないが、それもまた理由づけに過ぎなかった。
彼女は、第一子をおでんの精で、第二子をジルクの精で生んだ。これは、彼女が選んだことであり、他ならぬ彼女が望んだことだった。
彼女は自分の愛する男は後にも先にも一人しかいないと知っている。
しかし、今の時代に限って愛する男だと考えれば、おでんは確かに彼女が愛する相手だった。
彼女はおでんとの子を生み、育てる。だが、それと同時に800年の念願を、父との絶対の繋がりを彼女は実現した。
酒に弱いジルクのことは、娘の自分がよく知っている。トキはジルクを酔わせると、ロジャーやおでん達の目を盗み海へ二人で飛び込んだ。
身投げか入水か、そんな心中染みた事をするために海へ入ったわけではなかった。彼女には確信があった。他人が見れば賭けだが、彼女はその賭けに勝ったのだ。
愛する女を無意識にも腕に包んだジルクは、その身に宿る加護で海の中に二人だけの空間を形作り、そこで誰にも知られぬ情交を遂に果たした。
長い宴を見計らい、親子水入らずの時間を作っては、その時ばかりは男と女になり、ジルクは酒の酔いにも絆されて、娘ではなく一人の愛しい女の中に自身の子種を執拗に注ぐのだった。
トキは生まれてこの方これほどの悦びを味わったことがなかった。父への、いや、ジルクという男への愛しさばかりが募る。この時間ばかりは、彼女は父との関係を男と女の関係性に歪めながらも、彼の父性に心から甘え、同時にこれでもかと愛を紡ぐことができた。
彼女達の溢れ出した愛は、海の悪魔の加護により誰にも漏れ渡ることなきよう密かに受け止められ続けた。
時は一年が経ち、ワノ国への帰り道に体調を崩したトキと、おでんを除くもの達は皆ワノ国へ帰国することとなった。
明らかに、旅立ちの日に目に焼きつけた故郷からはかけ離れたワノ国の異様な変化にも、おでんは敢えて背を向けたと言う。
ジルクは、ロジャーとおでんに誘われた。
「一緒に世界の全てを見に行こうッ‼」
だが、ジルクは自分でも驚くほどに冷めていた。
「世界の全てを見に行くのは君たちに任せるよ。僕はトキの傍にいるよ。彼女と離れるのだけは嫌なんだ。」
興味が湧かなかった。
ジルクには、目の前の明らかな異常を訴えるワノ国に対して漠然とした不安以上には想うところはなかった。あくまでも、外来の者の身であることを弁えていたつもりだった。
だが、そんな異常が立ち込める地に妻子を残すこと…いや、トキを残してまで「世界の全て」を知りたいとは思えなかったのだ。
ジルクは自分があまり賢い方ではないと思っている。少なくとも、海を通じて様々な事象を知る力があっても、彼自体の勘はあまり鋭くはないのも事実だった。
だが、彼にとって愛している誰かに危険を強いてまで追い求めるべきものにそれだけの価値があるとは思えなかったのだ。
おでんのことは嫌いじゃない。けれど、ジルクは彼が…トキに離縁を持ち出されたからとはいえ…全てを見てくると言ったその瞬間から、おでんという男にはさしたる関心すらも持ち合わせることができなかった。
彼は愛するトキのために、もう暫し此処ワノ国の地で彼女のために尽くそうと決意を新たにしたのだった。
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荒れ放題の侍の国にはかつての楽園の姿は見る影もなかった。
外海からの客人から始まり、おでんと出会い、傳ジロー、錦えもん、雷ゾウ、イゾウ、菊の丞、カン十郎、アシュラ童子と出会い、イヌアラシ、ネコマムシ、河松と出会い…多くの出会いを重ねた末に九里の大大名光月おでんと並び、自由人ながらも公方とまで呼ばれたジルク。
そして、何よりもこの地はトキの母である女と暮らし、彼女がトキを生んだ思い出の地でもあった。同時に、始まりの地でもあった。
彼にとっても、ワノ国の土地は大きな大きな意味を持ち、愛するトキが終着点として望むのに相応しい土地であった。
ジルクは既に知っている。彼女にとって、生まれの故郷はワノ国であり、育ちの故郷は外海だった。
彼女にとって、この地は始まりの地だ。
その命の煌めきが灯された地で、納得の上で最期を迎えることは確かに大切なことである様に思えた。
彼女が納得するまで…つまり、彼が看取ってきた愛するもの達がそうであった様に、満足して、笑って逝ける様になるまで、ジルクはこの地を離れられないと思った。
おでんの乗った船はもうすでに遠く、水平線の彼方へと姿を消した。
薄情者、とは言わない。ジルクはそんな風には考えたこともなかった。何故なら彼にとって、もはやおでんは彼の愛しいトキにも、その子供にも肉親であること以外は関係のない存在だったからだ。
ジルクは人知れず荒れていた。
彼の憤怒は既にこの時に片鱗を見せていたのだ。だが、それに気づける者はトキの他になく、その彼女はジルクの怒りの理由が自分のためだというのも理解していた。
しかし彼女はジルクから向けられる深い愛情の裏返しの憤怒すらも受け入れており、彼から怒りを奪うことを良しとはしなかった。沸々とジルクの心中は毒で満たされていくようだった。
暗雲が徐々に九里の空にも立ち込め始めていた。
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おでんが帰ってくるまでに、ジルクは少しでもトキの負担を減らすことに努めようと決めた。
肝心の主人が帰ってこないことに、ワノ国の人々はもちろん、彼の治める土地に住む物たちもまた不信感を募らせるだろう。それをどうにか繋ぎ止められるのは一人だけだ。
おでんの代わりに顔の役目をこなし、彼と民の関係を絶妙に調整してきた妻のトキだけだ。
元よりジルクにできる事は限られるが、今回はその方が好都合である。誰かを傷つける気など毛頭ないが、自分にはおでんの不始末を片付けるために振るってきた力がある。
お陰で前よりはある程度自分の意思でも使いこなせている。
先を丸めた槍でも、刃を潰した刀でも当たれば痛いのだ。
構えるだけでもしておこうと、彼は初めて国守としての役割を果たすことにした様であった。
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着々と武器工場の生産に向けた体制が整いつつあるワノ国を、城から見下ろす男が一人。
男の名はオロチ。黒炭家本家の直系である。
彼は生まれこそ黒炭に生まれたが、ジルクが大名であった頃に治めていた領地で迫害など受けずに育った。
しかし、ジルクなき後の郷は時を追うごとに荒廃を極めていった。
無論、人々からすればジルクは屍人の扱いであったため、彼の不在に恨みを持つものなど無く、しかして何か行動をという気概あるものも現れなかった。
一度範囲の定まった、狭い社会の平穏な生活に慣れ切った黒炭家の残党は、外の郷や他の大名家との因縁にも一つの区切りが付けられたものと勘違いしていたのである。
外部との関係が希薄ゆえに情報も乏しい中では致し方無かったとはいえ、経済的に裕福とはいえなった郷を何とか支えていたジルクと彼を支えていたひぐらしは、結果的に両者ともせみ丸の手によって外界へと追いやられてしまった。
結果はご覧の通りであった。無惨にも荒れ果てた田畑、貧しさの面影しか残らなかった廃墟の数々。
そして、その中にあって唯一変わりなく存在するジルクの虚庵。では黒炭残党はどこへ落ち延びたのか?
彼らが逃れた先には彼らが望む豊かな生活も、過去との和解も、温かな優しさも無かった。しかし、それと同時に彼らに与えられるべき罰もまた存在していなかった。
社会から経年により忘れ去られた存在。それが、彼らであった。ある側面からすれば幸運である。何処からともなく現れる、正義の味方は他のことで忙しないのか参上せず、彼らの身に降りかかる火の粉といえば軽度の軽蔑や無関心程度であった。
だが、狭い社会で平穏に包まれて外の世界への理想を想い描いていた黒炭の人々は、理想と現実との隔絶に苦しんだ。
彼らはジルクに慣れていた。彼は親しい人間以外には至って無関心な性格にも思われがちだが、穏やかな彼は基本的には寛容であり、何より世間一般の価値に無頓着ゆえ金や力は多少ならば強請れば与えてくれる様な男だった。
他人は懐が深いという評する者もいるくらいだから確かである。しかし、都といえどもそうではないのが実際であった。
元々農作業でコツコツと、家族の分だけ作れば十分に生活できていたのは彼らが貨幣経済から物理的に切り離されていたからだった。土地を借りて生活を再開できれば御の字。
ほとんどの者達は何時ぶりかの金のやり繰りに難儀した。九里の賊から命からがら逃れてきた彼らに大した金になる様な財産などあるわけがなかった。
貧しさは拍車をかけて彼らを追い立てる。オロチはその渦中で少年期を過ごした。日々、自身に差し伸べられない見えざる手への恨みを心の奥に燻らせながら。
青年になった頃、彼は運命的な出会いをした。相手は何時ぞやに国を出た黒炭ひぐらしと黒炭せみ丸だった。
「ど、どうして今更⁉︎あんた達がいなくなったお陰でっ!俺たちの郷は滅びたぞ!公方様が亡くなられたのは仕方ねぇ!だがっ、何で稼ぎ頭のアンタや、郷一番の知恵者であるひぐらし様まで出て行ったんだ!!」
「九里の奴らに滅茶滅茶に荒らされた畑を見ただろ!俺たちは散り散りに逃げて、今や物乞いや小作人が精々の惨めな暮らしだ!今までアンタら何してたってんだ⁉︎」
オロチの怒りは最もであった。しかし、帰ってきた二人は彼の言葉に身を縮こませるどころか、ニマりと不気味な笑みを浮かべてオロチへ擦り寄った。
薄暗い部屋の灯りでも二人の姿がハッキリと見える様になり、オロチはせみ丸が順当に歳を取り腰が曲がり手も震える爺の姿なのに対して、幼い頃に最後に見たままの若い姿のひぐらしに目をギョッとさせた。
驚くオロチをよそに、ひぐらしは語り出した。
「私らもずいぶん外の海で苦労したんだよ…だが、世界は広かったお陰で味方になりそうなのも見つけることもできた。…オロチや、アンタにことの真相ってやつを教えてやろうじゃないかっ⁉︎いいかいよくお聞きっ!アンタや私らがこうも苦しむ羽目になったのは!全てあるヤツのせいなのさ!そいつが居たから何もかもが狂っちまった⁉︎…っジルグざまも"っ!奴とその一味に殺されちまったんだよぉッ!!」
無論、ジルクは生きている。が、ひぐらしはそれを知らない。まんまとせみ丸の言葉を信じ込み、かれこれ十年以上も外の海を放浪し、単にヤツへの復讐のために動いていた。
「そのっ、そのヤツっていうのは一体!?」
熱のこもった涙ながらの言葉に、オロチも呑まれてつい聞き返した。
「それはね?…将軍スキヤキとその一味さ!!ヤツらは自分で大名にしたジルク様を警戒し始めていたのさ!黒炭の血を絶やさぬように、私らを守ったのは彼が黒炭の手先だからだって考えてね!!元々ジルク様はこの国唯一の公方様、お公家と呼ばれる貴い地位を、ヤツの祖父のさらに前々代から一代で賜った方だ!不老の身は神聖に尽きる!人望も厚い!ずぅっ〜〜っと前から計画されてたのさっ!目障りだろうよ、将軍様より輝く太陽のような御方だからね…それが祟って海に沈められたのも否めないがね…いぃやっ!きっと騙されたのさ!スキヤキの一派が公方様を誘い出して殺したのさっ!」
彼女の言葉は半分が…ジルクに対する思いは…本当だが、一方の半分に関してはやはりせみ丸の入れ知恵である。
せみ丸という男は、昔過激派を率いていた男に違いないが、彼は若い男達が中心の過激派にあって最初から老年の域にある指導者であった。一時は噂で先の大名殺しの裏の立役者であったとか、と騒がれもしたが真相はもはや闇の中だ。
少なくともわかることは、ここまでの一連の不穏な流れの源流は間違いなく10年前からこのせみ丸という男であるということだけである。
ひぐらしの言葉に小さくない反響を感じつつも、オロチはあくまでも冷静に指摘した。
「す、スキヤキ…でも!そいつは将軍様だろう⁉︎何だって俺たちまでここまで貧しい暮らしをしなきゃならないんだ?公方様は亡くなったんだろ?」
様は亡くなったんだろ?」
ひぐらしから聞いた話を元に考えれば、元はといえば将軍と公方の間でのことである。何故自分たちにまで累が及ぶのか、そんな素朴な疑問であった。そして燻り続けていた不満と誰に向ければいいのかわからぬ怒りへの答案を求めての衝動的な質問でもあった。
「考えてご覧よ!アンタの祖父はどうして死んだのか、知ってるだろう?切腹さ!大名殺しで切腹さ、スキヤキの一派にはその大名の家の連中もいたのさ!それにね、アンタよくよく想像して見なさいな、一度は失敗したとはいえども将軍になろうとした奴らを、今の将軍様は許しておくほどお優しいのかね?」
ひぐらしは、待っていましたとばかりに畳み掛ける。
まだオロチは幼い。
体は成熟していても、貧しさゆえに学がない。生きる上での指標は自ずと自分の物差しになる。中身が元々我が儘だったり陰湿ならば、それが貧しさという不条理に原因をもとめ、果ては自分を肯定し、この上で貶めた存在として幻の黒幕を作り上げて、それに縋るだろう。
ひぐらしは、いや、せみ丸は薄い目をこの時ばかりは薄らと開き、オロチの出方に目を凝らした。
ひぐらしの言葉が終わる頃には、オロチの目には不釣り合いな欲望に任せて幅を利かす野望と、それに尻込みしている己の微かな理性が残るのみとなっていた。
「…………」
理性の炎は揺れる。今何か口にしたら、オロチはこのまま前へ進み続けるほかなくなるだろう。
「そうだろう…わかっただろう?アンタは本当なら、もっと幸せな暮らしができたんだよ!元はと言えばお前の祖父が下手をしたからだ、けれどその後まで転がり続ける必要があったかね?私らは酷い仕打ちを受けてばかりさ?…アンタの気持ちを聞かせておくれよ…私らがどうして帰ってきたのか?そ!は準備が、整ったからだ…アンタの気持ち次第で、黒炭本家は将軍にだってなれるかもしれないねぇ…」
ひぐらしは、トドメとばかりに天下の頂点の椅子をオロチの目先に吊るした。
ハリボテでも椅子は椅子だ。座ればどうとでもなる。
ひぐらしは復讐者だが、オロチは復讐に燃えるほどの悪意は向けられずに育つことができた。
故に何か餌を使って、愚かで欲に正直な男を生み出す必要があった。
「ッ!?し、将軍!?」
案の定、オロチは吊るされた餌に涎を垂らした。
食いつくのは時間の問題だ。
「あぁ!そうさ、そうともさ!アンタは本来大名の血を引いた歴とした支配者の生まれなんだ!上手くいけば、あの時だって将軍になってたのはアンタのお爺さんだったのさ、そしてソイツが死ねば次はアンタだった…どうだい?私はジルク様の敵討ちと思ってここまできたが、せみ丸は黒炭の世にしたいらしくてね、アンタはこれから二つの道を選ぶといいさ、将軍になるか、このまま貧しく暮らすか…答えは決まっているかねぇ…?」
ひぐらしは、せみ丸と相談して彼に過去という実績と、潜在的に存在する、立場という良否の極端な生来の才能をチラつかせた。
勿論どちらも過去のもの。しかし、過去の栄光は日輪の光より眩く、瞳に宿る知性から力を奪うのだ。
「お、俺はっ、将軍になるぞ!公方様の敵討ちっていう大義もあるんだ!で、できる気がしてきた!」
公方の名を持ち出したのは、まだ青く正義感の屑切が剥がれ落ち切っていないオロチなりの誠意であったかもしれない。
裏切りでも、侵略でも、簒奪でも。
それぞれの立場にはそれぞれの大義と正義と真実が存在した。彼もまたそれに従ったまでである。
「キョキョキョキョキョッ!!その意気だよ!さぁ、せみ丸!」
「…この実を。オロチ"様"。」
ひぐらしは上機嫌に笑い、せみ丸に例のものを持って来させた。怪しげな果実だ。
「?これは…なんだ面妖な果物?」
悪魔の実、である。
「キョキョキョ!コレがアンタに力をくれるのさ!アンタに私らは力を貸す、アンタはアンタで頑張りな!この世を恨んでくれても構わないよ!何てったってスキヤキの支配はワノ国中を覆ってる!アイツに尻尾を振る奴らなんてスキヤキの奴と同類さ!」
ひぐらしは復讐者の顔を覗かせながら、オロチから首輪を外すかのように免罪符を与えた。罪悪感の免罪符、そして燻り続けてきた…暴君に備わるそれと同様の無責任な怒りの解放である。
「ま、まずは何すればいい?…将軍になれるんだ、なれるんだったら何でもやる!」
オロチはこの日から白舞へ向かった。
すぐに寄生先は見つかった。力を研ぎ澄ます間、この大名から少しずつ力を吸い取ることとしよう。
同じ館には彼の怨敵スキヤキの息子おでんもいたが、今は雌伏の時として手を出さずにおいた。
数年後に、彼はスキヤキのみならず、ワノ国へと牙を剥く。
ひぐらしは復讐の完了を見ることなく、静かに息を引き取った。死んでも肉体の若さは保たれ、ジルクが死んだとされた場所に、せみ丸の手でジルクと同じように葬られた。
無論、ジルクは生きている。
故に、ひぐらしは知らないのである。オロチを野放しとしたことが、凶と出ることを。
オロチの凶暴性は、タガが外されたことで巧妙に狡猾に、そして残忍に成長した。
彼は建前も捨てた。既に眼中にあるのは将軍の座、のみ。
侵蝕と静かなる凋落によりワノ国を打ち崩すを是とし、武力による抑圧は暴発の寸前まで抑えた。
結果、人々が気づくことはなかった。
淡々と牙を研ぎながら日々を過ごすオロチやその協力者達とは対照的、だいぶ前に帰ってきていたジルクやおでん達は刺激的で平和な日々を送っていた。
おでんとの直接対決は避けて、彼が海を出たのを見計らい国を呑み込んだ。喉につっかえようと踏ん張る者もいたが、難なくあしらわれた。
せみ丸と、外の世界の大物カイドウという男の力のお陰だった。
粛々と治世から統治への移行を進めた。
ワノ国はもはや無い。自らの思い通りになる国の完成までの時は後わずかであった。
しかし、そこへおでんの帰還の報せが降ってきたのだ。
オロチは持ち前の小心を発動し、急いで協力者カイドウへ事情を伝えた。
プルルルル…ガチャ
「何だ…オロチ、問題か?また侍どもか?あれで懲りたと思ったが流石に屈強だな。」
「ち、ちがう、もっと大きな問題だ!頭の狂った男が帰ってきたんだ!早くきてくれっ!アイツを始末しないことには武器の安定供給は難しいんだッ!!」
「何ぃ?…そいつは誰だ?そこまで慌てる訳がわからんな…」
日頃はカイドウの権勢を使ってワノ国に圧政を浸透させていたオロチだったが、彼はおでんの常軌を逸した人となり、そして何よりその強さを知っている。それゆえの慌てようであった。
しかし、ピンと来ていないカイドウはあまり乗り気では無い。理由としては一人の侍に恐れるとはいかがなものかという疑問と、侍一人に慄くオロチの臆病さと、それを理由に自分を頼みにする脆弱さへの嫌悪である。
また、少し前に九里を除く大名連中が徒党を組み、都のオロチを討伐せんと打って出てきたのだが、コレをオロチに呼ばれたカイドウが殲滅し、その時のしぶとさや屈強さをカイドウが気に入ったのだ。
強者のヘッドハンティングを好む超実力至上主義の彼からすると、それほどの男を塵殺するのは、些か勿体なく思うのである。
気に入ったとはいえ、数百数千人でも自身に敵わない侍という存在に、どれだけ強力とはいえ一人に過ぎないと見切りをつけていたというのもあるだろう。
「しかし!頼むから来てくれ!きっとアンタのお眼鏡にも叶う強者なんだ!俺はアレの相手などしたくもない!」
しかし、なおも食い下がるオロチ。
いい加減鬱陶しくなってきたカイドウ。
そんな時、火急の知らせを届ける間者が書簡とともに現れた。
「オロチ様!!」
「む!な、なんじゃ!もう俺のところに向かっておるのか⁉︎」
「いえ!それが…おでんは上陸したものの、すぐに外界の者の船へ引き返し…そのまま、また航海へと出て行きました!!」
怯えや震えを隠さずに、オロチは間者に書簡を読ませた。
「なんと!カイドウ、出向いてもらう用は無くなった。問題はない。騒がせたな。………ふっふっ、ぶハハハハハっ!」
心底安心の表情を浮かべたオロチは、カイドウに短く問題は無くなったとつげて電電虫を切った。
そして、満足いくまで腹の底から笑うと、ここどころか国にすらいないおでんに向けて嘲笑を重ねた。
「愚かな男よ…今こそ最後の機会であったというのに…お前が戻るまでにはワノ国は地図から姿を消しておろう。…残るのは精々が俺やカイドウの口に入る食い物を作るための幾分マシな畑くらいだろうに…おでん、お前は今、ワノ国を捨てたんだ!…将軍の椅子は、俺が貰ってやる!ワハハ、わははははっっ!!」
オロチが有頂点になったのとは対照的に、間者は主人に聞こえてないと知りつつも報告を続けた。
「…おでんは航海に出ましたが、同じ船から九里の郷に降り立つものが数名。その中には、公方ジルク、おでんの妻トキ、おでんの子供と思われる男子と女子、??い、イヌとネコ??が確認されたとのことです。」
「わはははは!!!おでんのバカめっ!!コレでワノ国は俺のもの!わは、わははは……今何と言った?」
間者は未だに舞いあがっている主人の様子に、そそくさと退出しようとしたが、突然に肩を掴まれた。
「??…で、ですからイヌとネコが混じっておったと申し上げました!」
馬鹿正直におでんのペット紹介をさせられる間者。
しかし、それに笑うどころか先程の、おでんの時以上に困惑した様子でオロチは尚も聞く。
「ち、違う!犬とか猫とかそんなことは問題に入らん!く、公方と言ったな⁉︎言ったんだな⁉︎そうだな!?」
息を呑むほどの鋭く激しい剣幕でオロチは言う。
間者は一応の確認で書簡を読み直してから答える。
「は、はい!確かに申しました!ここ、ここに書いてありましてござる!!」
首を絞められそうになり、間者は逃げるように退出した。
一人残されたオロチ。
ぐぐぐぐっっ!!
顔色は悪いままに、オロチは八岐大蛇に変身した。
防衛本能が働いたのかはわからない。
しかし、今この時分に死んだと思っていた人間が生きて目の前に現れた事に不気味なほどの必然を感じたオロチは、その得体の知れない胸騒ぎに顔色を悪くさせるほかなかった。
〜〜〜〜〜
おでんが帰ってくるまでに全ての郷がオロチへの恭順を示した。
武器工場の数は日に日に増え続けている。
外部との取り引きは順調に進み、大物カイドウという後ろ盾は全方位に対して有力だった。
財政はオロチの周囲だけが潤い、そのおこぼれにあずかろうとならず物から何までが、内外から集まって来た。
侠客や、おでんと親しい侍達は未だに彼を待ち詫びその日その日を耐えてはいるがそれも限界が近い。
日増しに拡大するオロチとの戦力、財力に限らない全てにおける格差に愕然として、オロチの元へ降る者も増えて来ていた。
充実。全ての充実に、名実ともに将軍であるという満足感を得られたオロチは、目下の最大の課題に目を向けた。
卓に置かれたワノ国の地図には一箇所だけ寸分も境目の変わらぬ土地があった。
「九里」の字を、オロチは忌々しげに見つめる。
それまでは何も障壁に感じることなく順調に進められていたワノ国の植民地化計画。しかし、二週間ほど前から始めたおでんの本拠地「九里」の植民地化は、何の成果も齎さず、完璧に防ぎ切られていた。
領主おでんの不在にも関わらず、だ。
他の郷の施政に少々の付け足しや変更を加えようと思えば、将軍であるオロチの指先、いや筆先一つで、墨の一なぞりで簡単に実行に移されるのだ。
オロチはこの瞬間が堪らなく好きであった。
彼は将軍という立場が持つ、権力の大きさを噛み締めていた。暴利を貪ることは勿論だが、権力の持つ甘美な全能感と、それを振るうことで得られる自身への絶対的な肯定をオロチは何よりも渇望していた。
幼き頃に郷から焼き出され、辿り着いた先でのワノ国の民からの無関心は彼の心を歪めていたのである。だが、それを彼自身が気に留めることはない。何故ならば、彼は渇きを癒す方法と、それを実現できるだけの権力を手にしたからだ。
そんな今の彼にとって、地図を用意し、墨を用意した上で、筆を湿らせることなくその日を終えるなど、心底許し難いことに違いなかった。
しかし、彼が癇癪を起こしたところで地図上で黒く染められた他の郷とは真反対の墨の跳びすら見当たらない真白のままの「九里」の土地には何の揺らぎも見えなかった。
ここ二週間、既に打てる手は打った。
買収、脅迫、間者、放火、果ては侵攻まで実行した。
しかし成果は九里の郷の年寄りが、侵攻に驚いて足を挫いただけ…成果とも呼べない有様だった。
ゆうに現在のワノ国の武器輸出による利益の丸二日分の資材が吹っ飛んだ。しかも単に吹っ飛ぶだけで済むならまだしも、実行した方法がそっくりそのまま5倍で返ってきたのだ。
買収は、何処から引っ張り出したのかわからない金銀がばら撒かれ、コレによってこちらが仕込んだ間者の5倍の役人が内通していた。
脅迫した日には、巨大な山の神が子供を取られたわけでもないのに丸5日も都の真前に陣取って突進するフリをしてみたり、わざと牙で引っこ抜いた山の木を城に向かって飛ばして来たりと生きた心地がしなかった。
放火をすれば、向こうは予報破りの土砂降りが降ったのに対して、都のオロチの城の真上に、これまた五日間も旋風と雷が恐ろしい頻度で落ちて来た。
お陰で天守は度重なる雷により発火し、旋風は火の手を煽り、3日目で城は上が一段まるまる消失してしまった。オロチは青空の下起きる羽目になった。
そして!極め付けは侵攻である。
オロチの号令の元にカイドウの手下共とゴロツキ共を三百人集めて小手調にと送り込んだのだ。
見張りもおらず進み放題の九里の地に、今までのはまやかしだった、偶然だったと笑いが起きた。
しかし、順調かと思われた矢先に木刀片手に素振りをしている男を発見との報がオロチの元へ届いた。
斬り捨てろ!と下名をすると、すぐに実行されたらしく、再び前進し始めるかと待っていると、「こ、コイツ!本気で頭を斬られたのに死んでない!気絶してるだけだ!…えっ!何で気絶してるのに木刀振り回してるんだ⁉︎っヒィィ⁉︎⁉︎やめっぐパァッ⁉︎」という声が聞こえてきたのである。
オロチは嫌な予感に体を震わせつつ、舶来の望遠鏡で九里の入り口に目を向けた。
オロチの目に飛び込んできたのは死屍累々の三百人。
次から次へと吹き飛ぶ屈強な男達と、明らかに白目を向いたまま、酷使し過ぎて半ばから先がもう無い木刀を振り回す男の姿。
よく見ると男は白目どころか口の端から泡まで吹いており、昏倒したまま神速の剣技を披露しているのがわかった。
鬼神か妖か何かだと思い目を逸らしかけたオロチだったが、望遠鏡から目を離す直前に、白目の男と目があった気がした。
急いで何も知らないとばかりに布団を敷いたオロチの耳に、火急の知らせと不審者が単独で進行して来ているという内容の悲鳴が聞こえて来た。
諦めて直ったばかりの天守から身を乗り出して都を見れば、相変わらず白目を剥き泡を吹いたままの男が、人間とは思いたくない機動力で城に向かって都の大路を一直線に向かって来ていた。「カイドウの部下達はどうしたのだ⁉︎手練れがいたはずだ!」とオロチが叫ぶと、部下が指で示した先には、頭に特大のタンコブを作ったカイドウの部下達の哀れな姿が広がっていた。地獄絵図である。
殿!殿!と、往年の主君に呼びかけるように家臣達が迫真の声で、いや本当に目下に迫り来る謎の脅威への恐れを隠せていない声でオロチに避難を呼びかけた。
オロチは呆然。何なのだあの男は、と今更な疑問を抱き顔を注視した。
「く、く、公方様だぁぁぁっっっ!!!」
町からの悲鳴にも似た歓声に、オロチは最悪の妄想が現実になったと、あるはずのない悲劇の過去を思わせるようなしみじみとした溜息で表現した。腹を括るしかあるまい。伝説は本当だった。死ぬか生きるかは今彼の掌の中にある。
オロチの予想は更に的中。爆走していた意識の無いジルクは足を止め、腰を落としながら木刀…なのか木の破片なのか最早わからないソレを、得物を一度鞘のある位置にしまう動作をすると、使ったことがないのだから誰も聞いたことがない剣技を「城」に振舞った。
「…無二念断刀流・国守打礼」
ゴボボボボッ!!!
腰だめに、文字通り左下段から斜め右上への打ち払いが炸裂した。視認できるだけでも数メートルの大きさにまで膨張した巨大な斬撃は、聞いたこともないような音を立てて、地を這うように、いや抉るように進んだかと思えば、軽やかに垂直に跳ね上がりを見せた。
そして飛び上がりの勢いそのままに、城の天守へと迷いなく飛翔していく。
ドンッッ!!!ド、ドドンッッ!!ドン!!
何の障害物もない空中で、数度膜を高速で突き破ったかのような音が爆ぜ、四度目の破砕音と共に天守へ着弾。
周囲から一瞬音が消し飛び、天守は跡形もなく消し飛んだが怪我人は無し。
最後に残ったのは、先ほどまでの鬼人の如き戦いぶりからは想像もつかない穏やかな顔で白目を剥きつつ失神しているジル公方ことジルクの姿であった。
オロチは命を奪われずに済んだことに感謝した。
今回の主犯格がいつの間にか都に侵入していたおでんの家臣達に担がれて九里へと戻っていく様を見て、今日のところは捨て置くよう部下に伝えつつ、九里植民地化に向けて更なる一手を模索し始めていた。
九里の鉄壁はよくわかった。
都の人々はおでんだけでなく、公方にも絶大な信頼を持っている。
どちらか片方が居れば九里は安泰、他の郷にいる侠客や侍の心も折れることはないだろう。
だが、オロチは狡猾に策を練り始める。
悪の将軍は最後の一手を決して諦めることはなかった。
〜〜〜〜〜
ワノ国 鬼ヶ島
四皇の一人百獣のカイドウは、オロチの元から帰還した部下から都での騒ぎの詳細を聞いた。
被害やオロチの様子には微塵も興味を示していなかったカイドウは、今騒動の犯人へ話が及んだところで絶叫と称して差し支えのない鬼ヶ島中へ響く大音声で驚愕、怒り、そして…焦燥を露わにした。
「オロチの野郎ォッッ!!何故っ⁉︎よりにもよってっ!どうして俺に報告しなかったッ!」
カイドウは犯人に対して思うところがあるのか、近場の部下は勿論のこと大看板と呼ばれる最高幹部にも、以下の二項に従うよう厳命した。
「アレには死んでも酒を飲ませるなぁッ!女を殺すのも止めておけッ!」
大看板の一人でありカイドウの右腕とも言える男キングは何かを察したように頷くと、直ぐ近くにいたもう一人の大看板へと確認も兼ねて説明した。
「クイーン。お前は知らないだろうがこれだけは言っておくぞ。ノロマのお前でも間違いがあってはいけないからな。」
「俺とカイドウさんには深く関係がある。その程度に考えておけばいいが、カイドウさんの言った二つだけは死んでも守れ。死にたくても、死にたくなくても守ることだ。」
「…基本アノ人は人畜無害だッ、だが!今日の騒ぎこそ、酒じゃない…気絶程度だったから良かったものを…酒が入った時は誰にも手がつけられなくなる。」
まるで経験があるかのように語るキングに、いつもの冷静沈着で何事にも動じない頼もしさは無かった。
「女を殺しでもしてみろ…俺も、何が起こるかわからんぞ。」
自分で言ったことで体を一瞬震わせたキングは、クイーンに「そういうことだから決して破るな」と念を押してからカイドウへと目を向けた。
キングが言い終わったのを横目で確認したカイドウは、自身の海賊団に向かってこう言い切った。
「ルーキー共にも教えとけっ!この海には、触れちゃあならねぇ逆鱗が潜んでやがるってコトをな!!!」
鬼ヶ島に吹き付ける風はいつにも増して冷たく、そして荒々しい気配を含んでいた。
〜〜〜〜〜
カイドウの脳裏には数十年前の恐怖の光景が映し出されていた。
ソレは、頬をアルコールで染めて白目を剥いた状態で暴れ回るジルクの姿であった。