翌日の下校時間、校門前。武蔵は鈴木を待っていた。
「よう。それじゃあ、少し歩こうか。」
鈴木と武蔵は、岩川台営業所に向かって歩き出した。
「…凜さんが佐藤の手に落ちるのを防ぐ話なんだが…。」
武蔵が話し始めると、鈴木は武蔵の顔に注目した。武蔵は話を続けた。
「お前に直ぐ打てる手は…お前が元気を取り戻すこと、だそうだ。」
「冗談を言ってるんですか?それとも打つ手がないってことなんですか?」
「いや…私も最初そう思ったんだが、冗談でも何でもなく、これが本当にお前が打つべき手なのだそうだ。」
「…武蔵さんの考え、というわけじゃないんですか。」
「うむ。金剛…同僚の知恵を借りた。これは金剛が出した結論だ。」
さらに武蔵は話を続けた。
「お前の傷に触れることになってしまうが…佐藤の手に落ちてしまったお前の女友達、山田さん、川上さん、竹内さんには共通点があった。三人とも、お前に好意を寄せていたが、お前からは好い反応を得られていなかった。」
「…………。」
鈴木は黙り込む。
「すまん。だが話は続けさせてもらう。…彼女たちは不安な状態にあった。彼女たちにはお前からの好い反応か…誰かからの慰めや同情が必要だった。そこで彼女たちを手に入れるために佐藤がとった方法だが…この不安を悲しみに、さらには絶望にまで深めた上で同情と慰めを与える、というものだったと推測される。」
「不安を悲しみや絶望にって…どうやって?」
「具体的な方法は金剛にも私にもわからなかったが…三人それぞれに『自分は鈴木と結ばれることはない』と信じ込ませたのだろう。」
「…やっぱり、僕のせいで…!」
「…続けるぞ。すると『女を深く悲しませ、絶望させてから同情と慰めを与える』ことが、佐藤の『基本戦略』だということになる。ここで佐藤が本当に凜さんを狙っているとすると、佐藤はどんな手を打ってくるだろうか?…金剛の頭脳は、ゾッとするような可能性をはじき出したよ。」
「ゾッとするような可能性?」
「佐藤にとっては…お前は死んでしまった方が都合が良い、ということだ。」
「!そ、そんな!いくら佐藤でも、そんなことまでは…!」
「もちろんこれはただの可能性にすぎない。だが想像してみろ、お前が全ての女友達に去られ、孤独感と絶望感から死に至ったとしたらどうなるか…。」
武蔵は一旦言葉を止め、そして続けた。
「お前を失い悲しみと絶望に暮れる凜さんを、佐藤が慰め癒すと言う構図が出来上がってしまう。」
鈴木は戦慄し、言葉を失った。
「凜さんのことが心配なら、お前は生きなければならない。元気を取り戻さなければならない。」
「でも…どうしたら…。」
「とりあえず、凜さんの前では笑え。」
「笑えって言ったって…。」
「作り笑いでいいから、笑え。誰かが言っていた、人は幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せになるんだ、とな。」
「………。」
「その人はこうも言っていた、幸せになることは人の義務なのだ、と。今のお前には幸せにならなければならない、少なくとも元気を取り戻さなければならない理由がある。そうではないか?」
「…ありがとうございます。」
「?礼の言葉が出て来るような話ではなかったと思うが…。ああ、それと、佐藤は別の手を打ってくるかもしれない。強引な手ではないだろうが、警戒が必要だ。凜さんからは佐藤と話をしたのか、どんなことを話したのか、それとなく…あくまでもそれとなく聞き出すようにしてくれ。注意すべき点としては、凜さんがどう答えてもお前は感情的になってはいけないということだ。凜さんが何と答えても、お前は『へえ、そうなのか』という態度を崩すな。凜さんが佐藤について話したことは、逐一私に知らせてくれ。佐藤がどんな手を打ってこようが、佐藤の意図など挫いてみせる。…まあ、対抗策を考えるのは金剛だが。」
「…わ、わかりました…。」
岩川台営業所敷地内にあるプレハブ一戸建て住宅のうちの一軒、武蔵の宿舎。
宿舎の居間は和室になっており、中央には卓袱台が置かれている。(冬は炬燵として使うようだ。)
「では、お前の勉強を見るとしよう。ところで、お前は勉強が好きか?」
「いえ、正直言って、あんまり…。」
「何故だ?」
「何でって…正直あんまり面白くないし、こんなことやってて将来何の役に立つのかなって…いつもってわけじゃないけど、時々思っちゃうんです。」
「何のために勉強するのか、学問を修めるのかわからない、と…。」
「でも、一方で勉強しなくちゃならないってこともわかってるんです。何のために勉強しなくちゃならないのかは、将来わかることなんだろうなとも思ってます。」
「お前は二つ間違っている。学問を修めることは『何かのため』にすることではないし、『しなければならない』ことでもない。」
「え?それじゃ、武蔵さんは勉強なんかしなくていいって言うんですか?」
「そう判断してしまうのはお前の自由だが…。」
武蔵は続けた。
「私は『源氏物語』を読んだことがない。」
「え?」
「少なくとも二、三日中に読む予定もないし、読んだことがなくて困ったこともない。源氏物語についての知識は、私にとっては全く何の役にも立っていない。」
「はあ…。」
「しかし源氏物語を愛読書とし、研究している人は多い。海外には、今では殆ど通用しないような古い日本語を習得してまで源氏物語の研究に臨む人もいる。この人たちはなぜそこまでして源氏物語の研究に打ち込むのだろうか?」
「ええと…そう聞かれてしまったら…わからない、ですね…。」
「実はな…理由なんかないんだ。」
「ええ!?」
「この人たちは源氏物語の知識が何かの…例えば工業や農業の生産性向上とか、医療技術の進歩などに役に立つと思って研究しているわけではない。この人たちが源氏物語を研究する理由と言えば、この人たちにとって源氏物語それ自体が面白く、興味深いから。結局ただそれだけなのだ。」
「…………。」
「何かを研究するということ、学問を修めることは、それ自体が面白く、興味深いからすることなのだ。学問が何かの役に立つというのは、後付けの屁理屈にすぎない。勉強するということは、学問を修めるということは『何かのためにしなければならないこと』などではない。それ自体が面白く、興味深いこと…つまり、遊びなのだ。」
「勉強は遊び…なんですか。」
「そう、勉強することは遊びだ。私にとってはセックスと同じくらいに楽しめることだ。だから私は、友としてお前の勉強を見ることにした。」
武蔵は一息おいて、話を締めに入った。
「『ホモ・ルーデンス』という言葉がある。人間は遊ぶから人間なのだ、という意味だ。…お前は生きねばならないが、生きることは遊ぶこと、遊ぶことは生きること、だ。だからお前の勉強を見るにあたっては、例えば数学や物理がどういう遊びなのかを話すところから始めよう。そして、数学や物理の遊び方を説明して、実際に数学や物理を遊ぶ…と言う流れを取ることにする。」
「生きることは遊ぶこと、遊ぶことは生きること…ですか…。わかりました、よろしくお願いします。」