「
ベランダの柵に頬杖をつきながらぼんやりと呟く。
あと何回かは治療を続ける予定だったのだが、どこからか話題のヒーロー『
こんな状況では根の葉もない噂も書かれかねないということで、皐月さんのヒーロー復帰が迫っていたこともあり、一旦治療はお終いということになった。
ただ治療についてはこれで完遂というわけではなく、ヒーロー活動の合間を縫ってまた必ず来ると力強く言っていた。なのでまた皐月さんの治療をする機会はあるとは思うが、それがいつになるかは今のところまったくの未定だ。
おかげで俺の生活は、以前のような刺激の少ない日常逆戻り。騒動があったせいか、協会からの依頼が舞い込むということもない。
皐月さんが治療に来てからというもの、忙しいというか体力的にとても疲れる日々を過ごしていたので、たまには平穏な日常も悪くないとは思う。
しかしどこか物足りなくてつまらないと感じるのも事実だ。
治療の報酬も入ったし旅行でも行こうかと考えたこともあったが、二日に一回出したての精液を冷凍して皐月さんがいる前線へと郵送しなければならないので、遠出するわけにも行かず中々良い暇つぶしの案が思い浮かばない。
そんな時、皐月さんからプレゼントされた情報端末が震えていることに気づき、端末をズボンのポケットから取り出す。
(皐月さんからのメールか)
律儀なことに映像付きのメールが皐月さんから二日に一回のペースで届く。メールの前半部分は皐月さんが防衛の一部を担っている、南の防衛線の状況についてだ。
出現怪獣の傾向や、討伐した怪獣の数・種類、そこから考えられる所感など、まるで会社に提出する報告書みたいなので、皐月さんには申し訳ないがほとんど読み飛ばしている。
後半部分は俺の近況をたずねる文が占めている。私が傍に居なくて寂しくないかどうかとか、千明―― 結解さんが迷惑を掛けていないかとか、変な輩が付き纏っていないかとかそんな感じの内容と、あとは俺が送った精液の味についての評価についてだ。
ここ最近は少し苦く、それはそれで悪くないがもう少し果物などを取って甘くして欲しい、と今日のメールには要望が書かれていた。
映像の方については、ヒーローコスチュームを身にまとった皐月さんが、ひたすら無言で決めポーズを取り続けるという謎めいた内容で、まともに触れていいのか悩んだ俺は、とりあえず毎回格好いいですと適当に返事を返している。
「今日のポーズも最高です。っと…」
皐月さんとは一応恋人関係になったはずだけど、あまり関係性に変化はない。後日言われたことだがあの日、本当は告白するつもりは無かったらしい。事前に私という素敵な女性がいるんだぞと示唆して、他の女性に目がいかないように惹き付けておく程度に留める予定だったそうだ。
何故そんな回りくどい事を考えていたのか詳しい理由は教えてくれなかったが、日本に平和が訪れるまで恋人関係であることは内緒にして欲しいと言われたことから、恐らく自分に対する一種のケジメとか覚悟のようなものなのだろうと思う。
(久しぶりに適当に町でもほつき歩いてみるかな)
そう考えた俺は、ジャージを脱ぎ白いTシャツにベージュ色のチノパンを履くと、皐月さんから貰った情報端末と黒い長財布をズボンのポケットに入れて、途中で洗面所に寄り身だしなみをチェックする。
(少し髪が伸びてきたな)
耳に掛るほどまでに伸びてきた黒髪を見て、そろそろ散髪に行った方が良いかなと考えながらマンションの部屋を出る。
エレベーターで一階まで降りマンションのフロントまで行くと、青っぽい警備服を着た俺より若そうな眼鏡を掛けたインテリ風の男性に止められる。
「すみません。端末をお持ちになっておられないようですが、これからお出かけですか?」
「あ、はい。そうです」
「そうですか。すみませんが規則ですので、こちらに記入をお願いします」
そう言って男性は外出許可願と書かれた用紙を俺に手渡す。
これは能力者専用のマンションに住む住民への規則の一つだ。
格安価格でこのマンションに住む代わりに、政府からの緊急要請があれば出来る範囲で協力しないといけないので、入居者は自分の動向を可能な範囲で知らせておく必要がある。
外出目的や目的地、帰宅予定時刻などの項目があるが、外出目的以外は任意だし肝心の目的も散歩みたいな雑な理由でも通るので、多分本来の目的からすると形骸化してしまっている手続きになっていると思う。
まあ今まで緊急要請など一度も無かったので、多分どんどんいい加減になってしまってるんだろうな。
政府から支給された情報端末を持っていれば省略出来る手続きなので、今までの俺ならあまりやることのなかった手続きだ。だけど今は皐月さんから貰った端末の方を持っているのでやる必要がある。支給された端末も持てばいいんだろうけど、二つ持ちするのは鬱陶しいからな。
俺はそんなことを考えながら、目的欄に床屋に行くとだけ記入して用紙を返す。
男性は俺から用紙を受け取ると、指で眼鏡をクイっと上げてから外出許可願と俺の顔を一瞥した後、「お気をつけていってらっしゃいませ」と言って会釈する。
それを見た俺は丁寧な対応だなと感心しながら、行きつけの床屋に向かうことにした。
――――
「おじさーん、お久しぶりです。髪切ってもらってもいいですかー」
俺は床屋に入ってすぐ、六畳ほどある部屋の隅で椅子に腰かけ新聞を読みながら電子タバコをふかしている、チェック柄のシャツに青っぽいジーパンを履いたおじさんこと
おじさんは相変わらず白髪のパーマに鼻の下から顎、モミアゲまでつながった見事な髭に、黒縁の眼鏡を掛けている。視力は良いらしいが、本人曰く掛けている方が知的に見えて孫にも評判が良いからということらしい。
頬にいくつか古い切り傷が付いているが、渋めの顔つきにガッチリとした筋肉質の良い体つきなので、かえってない方が不自然なくらい顔とマッチしている。
おじさんは第一世代と呼ばれている俺より前の世代の能力者で、俺のように生まれながらにしての能力者ではない。怪獣の肉を食べ能力を得たので、現在では能力者と区別して適合者と呼ばれることが多い。
今でいうと五級くらいの能力しかないが、尊敬しているし俺がヒーローに憧れた切っ掛けとなった人物でもある。
「おー、良太郎か。久しぶりだな」
そう言っておじさんはこちらに向かって軽く手を挙げ、椅子の上に新聞を置いた後ゆっくり腰を上げる。と同時にふかしていた電子タバコを上にピンッと指で弾き飛ばすと、床を蹴り右拳をぎゅっと握り締めて俺の顔面目掛けて殴りかかってくる。
俺はそれを左手で受け止めると、お返しの意味を込めておじさんにボディーブローをかまそうとしたが、寸でのところで手で払うようにしていなされてしまう。
俺の攻撃をいなしたおじさんは、先ほど弾き飛ばした電子タバコをキャッチすると、こちらを見ながらニヤリと笑った。
「一応それなりに動ける身体は維持してるみたいだな」
「仮にも特級能力者ですからね。いくらおじさんが攻撃系だからといって五級能力者相手には負けられませんよ」
とは言うものの今日の一撃はいつもに比べてやけに鋭く、割とギリギリだったのは内緒だ。今もおじさんの拳を受け止めた左手が少し痺れている。
「ほー、言うようになったじゃねぇか。学生の頃は良いように儂にやられてたお前さんがよく言うようになったもんだ」
「あ、あの頃は教師にヒーローになるのは無理だって言われて、ちょっとやぐされてたんですよ…」
まあ俺自身、自分の能力の使い勝手の悪さは自覚していたので薄々無理だろうと判ってはいたが、他人に言われるのが辛かった。
今では消し去りたい過去の一つだ。
「あー、だからあの頃は妙に変な格好してたのか」
「そ、それは誰にも言わないで下さいよ」
「ならたまには髪切る用事以外でもウチに来いよ。カミさんが最近流行ってるヒーロー物のドラマに夢中で暇でな」
「そう言いますけど、ウチに金落とさないなら来なくていいって言ったのはおじさんの方じゃないですか」
「あー、そんなこと言ったか?」
記憶にないなとおじさんは、天井を見上げながら顔を指で掻く。
「言いましたよ」
「それは忘れてくれ。最近、例の件もあって孫がうるさいからな…」
「例の件?」
「ああ。まずは説明する前にこれを見ろ」
おじさんは電子タバコを片付け、立ち上がり俺の肩に手を置き顔を近づけると、ポケットから取り出した一枚の写真を俺に手渡す。
写真の中では十代くらいのショートボブの黒髪の少女が紺色の学生服に身を包み、にっこりとした笑顔でピースしている。どこかで見たような覚えがあるのだが、どうも名前が出てこない。
「あの、この子は?」
「忘れたのか? ウチの孫の
より可愛さに磨きがかかったというべきだな」
おじさんに言われてようやく思い出す。これくらいの年齢の子は数年見ない間に随分と変わるもんだな。
「
「そうだ。いま三年生だから、あと一年足らずで卒業してとうとう孫も大人の仲間入りだ」
おじさんは感慨深そうに、少し潤んだ目をして遠くを見ながら言った。
「あーそういえば、軍学校卒業したら十五歳でも成人扱いになるんでしたね」
確か俺が高校を卒業した頃くらいに導入された制度だ。
政府曰く、厳しい訓練を潜り抜けた者への特権の一つ。ということらしいが世間一般では、慢性的に不足している前線の兵力を補充するための苦肉の制度だと言われている。
「そう、だから困ってるんだ。良太郎、前に
「約束?」
まだ小学生だった頃の明音ちゃんとはよく遊んだ記憶はあるが、また一緒に遊んでね。と言うような子供っぽい口約束以外はした記憶がない。
「やっぱり覚えてないか。まあ儂も
「は? 結婚ですか?」
「ほら、明音が木から落っこちて怪我した時の話だ。お前が唾つけて傷を治したじゃねぇか」
言われてみると昔、明音ちゃんが怪我した時に治したような気もするが、昔のこと過ぎて詳しくはよく覚えていない。
「治したような気はしますけど…約束のことまではちょっと」
「そうか、まあいい。とにかく明音は卒業したらお前と結婚するの一点張りでな。倅も俺も根負けしてどこぞの男に取られるくらいならと思ってるんだが。どうだ、確かお前まだ独身だろ」
「そう…ですけど」
「なんだその煮え切らない態度は…まさか女が出来たのか?」
「はい。まだ付き合いたてですけど」
俺の返事を聞いたおじさんは、額に手を当て天を仰ぐ。
皐月さんには内緒にしろと言われているが、誰と言わなければ問題はないはずだ。
「あちゃー。一足遅かったか…。だが明音も儂に似て頑固なところがあるからな。出来るなら重婚することも視野に入れておいてくれ」
「重婚って…確かに制度上問題ないですけど、まだ世間の評判はあんまり良くないですよ」
怪獣出現の混乱期に半減してしまった日本の人口を増やす対策の一つとして、重婚が法律上可能になった。しかし海外はともかく日本国内では、収入や能力面での規制があるため金持ち・能力者優遇政策の一つだと、マスコミの意図して下げるような報道の影響もあってあまり評判はよろしくない。
「それは儂も分かってる。だがもしもの場合は、覚悟を決めろよ。まだ儂はお前さんを助けた恩を十分に返してもらってないからな」
「う…だからこうして学生の頃からずっとここに通ってるんじゃないですか」
俺がまだ小学生だった頃、おじさんには命を助けてもらった恩がある。
あの頃は今よりも遥かに能力者の数が少ない上に質も圧倒的に低かった。
だから防衛網を突破した怪獣によって民間人に被害が出ることも度々あり、俺もそんな民間人の一人でその時警戒任務にあたっていたおじさんに、ギリギリのところで助けてもらったのだ。
「ほー、お前さんの命の価値はその程度なのか?」
「はぁ…わかりました。明音ちゃんが成人した時にまだ俺のことが好きだったら、二人で話し合って決めますよ」
一回り以上離れてるし、軍学校には俺より将来有望な子が沢山いるだろうからその内、目が覚めるはずだ。
それに
「言ったな?」
「はいはい。それより早く髪切ってもらえますか。ここ床屋ですよね」
だんだん相手をするのに疲れてきた俺は、大きな鏡の前にある背もたれの大きい革製の黒い椅子に腰かけ、おじさんに向かって手招きした。
三十分後、二~三センチくらい髪を切ってもらい少しさっぱりした髪を触りながら俺は床屋を出る。
(学生の時みたいにたまには用事が無い時も店に寄るようにするか)
そんなことを考えながら、曲がり角を曲がる。
「
「はい?」
誰かに突然後ろから呼びかけられた俺は、後ろに振り向くと同時に急速に意識が遠のいていくのを感じた。