※この作品はR-18です。

式波さんちのダンナさん   作:しゅとるむ

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外伝6話 アスカとシンジの眠り姫 後編

 アスカとシンジの二人が呼び出され、娘のユウグモを連れて船長室に駆けつけた時には、すでに寝台に横たわるミサトの顔の上には、白い布が被せられていた。

 

「……ミサトさん」

「ミサト」

 

 二人は茫然として立ちすくむ。葛城ミサトは二人にとって初めて出来た家族だった。血を分けていなくても、彼女はシンジとアスカを家族として、人間らしく扱ってくれた。碇ゲンドウなどは最後までシンジをそう扱わなかったのに。

 

「どうしてよ……ミサト、昨日は元気だったじゃない!……なんでなのよっ」

 

 アスカの拳が部屋の壁を打ち付ける。シトの拳には何の痛みも感じない。ヴンダー艦上で十四年振りに救出したシンジに再会して、ガラスの隔離壁を殴ったときと同じだ。その感じない痛みは、消え去る訳ではなく、心の痛みに変換されている。それが、シトであるアスカたちが唯一感じる痛みだから。心の痛みがある以上は、彼らはヒトではなくとも人間だった。

 

 ユウグモの予知能力で、ミサトの最悪の可能性は認識していた。しかし、それでもまさかそんな事にはなるまい……と信じたい気持ちだったし、いざその死に直面するとアスカは動揺を隠せなかった。肉親のいない式波・アスカ・ラングレーにとって、ミサトの死は、初めての近しいものの死と言えた。

 

 そして、アスカは恐ろしい可能性に思い至る。

 

「まさか、昨日あたしたち家族が押し掛けたから、その負担で……」

 

 隅に居た医官の鈴原サクラ──名字は変わっていた気がするが──が、椅子から立ち上がった。彼女も今や六十五歳、髪はすっかり白くなっている。艦内ではなかなかの名医として知られていた。

 

「そないな事、関係ありません。大往生でしたわ。そんなに苦しんだ訳でもなかった……それが救いです」

 

 サクラには医師として無数の死に立ち会ってきた人間独特の平坦な感情と諦観があった。

 

「でも、だって昨日の今日でっ……どうしてよ……」

「本当はこういうの家族にしか伝えてはいけないんですが、お二人は艦長のご家族と同じ──でしたから……聞きたい事があればお答えします」

「……何の病気だったの」

「病気とちがいます。……寿命、ですわ。これまで己の使命──人類への責務を果たさんと気力だけで踏みとどまってきた命の蝋燭がついに燃え尽きた。だから皆さんが昨日訪ねてとか関係ありません。むしろ生きている間に会えてよかったんです」

「……だけどっ」

 

 それがアスカには単なる慰めに思えて、素直に頷くことは出来ない。

 

「さぞやお力落としかとは思います。でも哀しくても嘆かんであげてください。みんな順繰りですわ。艦長の世代の次は、ヴンダーでブリッジオペレーターだった皆さんの世代、次はうちのお兄ちゃんたち、そしてうちら……そうやって、子供たちに席を空け、道を譲るんです」

「でも、あたしたちは……」

 

 アスカはすっかり肩を落としている。アスカたちはその世代間の席の譲り合いとはもう一切関係ない位置にいる。アスカとシンジはもう命に限りのあるヒトではないのだから。

 

「ありがとうございます、看取ってくださって……サクラさん、ミサトさんは何か言ってましたか」

 

 今までずっと押し黙りミサトを哀しい目で見つめていたシンジが──ユウグモと手を繋いだまま──サクラに顔を向けた。トウジの妹であるサクラの方が当然、年下なのだが、シンジには初対面の時から彼女が年上に見えている。だから「さん付け」が自然だった。

 

「いや……遺書のたぐいは法務部に前から預けてたらしいですし、意識も混濁してて、今際の際に私ごときに何かを言うことはなかったですわ……ただ、最期には加持、リョウジと……」

「……そうですか」

 

 加持リョウジ。それはミサトの元恋人の名前であると同時に彼女が加持との間に生(な)した彼の忘れ形見の名前でもある。ミサトは息子リョウジにその亡父の名前を付け、自分は母親と名乗ることもなく、遠くから見守るだけだった。新しい恋人を作るでもなく、時折、激務の合間にそっと机の中に忍ばせていた二葉の写真を眺めるだけだった。

 

 だけれども、いや、だからこそ──その最期にはやはり彼女の心にあったのは恋人である加持、息子であるリョウジ、その何れかの存在、いや恐らくはその両方の存在だったのに違いない。

 

 ミサトと加持とその息子、あり得たかも知れない三人家族のささやかな幸せを奪ってしまったのはシンジの起こしたニアサードインパクトだった。

 

 それはシンジに尽きせぬ後悔を反復させる。ミサトたちだけではない。戦艦ヴンダーに乗り込んで、人類補完計画の顎から逃れられたのは人類の内、ほんの一握りだ。ヤマト作戦の失敗はシンジのせいではないとしても、人類がここまで僅かな、いつ滅んでもおかしくない、脆弱でか弱い種になってしまったのはシンジの責任が大きい。

 

 だから、シンジは必ずや人類の新天地たるRoss128b──船長室の天井の鉛ガラス越しに迫る巨大な岩石惑星──のテラフォーミングを成功させなければならないと思っている。それにはアスカの手助けと重機に改造した特殊装備のエヴァが必要だ。シンジは何百年かかってもやり遂げる覚悟だ。

 

 シンジの改めての心中の決意に、ユウグモの不思議そうな呼び掛けが混じり込む。はっとして、声を上げているユウグモに視線を向けると、少女は白い布を顔に被せられた老女の身体を見つめている。

 

「ミサト……なのか? どうした? 寝てる、か?」

 

 その無邪気というよりは、純粋に不可思議に思っているだけの問いかけに、少女の父も母も何も言葉を与えてやれない。

 

「その子は、ユウグモちゃんでしたね……私が取り上げたのだった」

「その節はありがとうございました……サクラさん」

 

 前例のないシトの出産。未知に対する心配で、アスカもシンジも不安でいっぱいだった。サクラはその時に、出産は出産だと泰然自若としていた。その動じなさに二人は救われたのだ。

 

 サクラは看取った人間、取り上げた人間、全てを覚えている。その名前と顔を全て覚えている。それが生と死に立ち会う医者としての仕事の一つだと思っていた。

 

 握っていた父親の手を離し、ユウグモはミサトにトタトタと近づいた。しばらくじっと眺めていたが、やがてシンジたちが制止する暇もなく、ミサトの身体に取り付いて、揺さぶり始めた。

 

「ユウグモ来た。なぁミサト。起きて一緒に遊ぼう」

「……ゆ、ユウグモ……」

 

 そうやってしばらく彼女の亡骸を揺さぶっているが、勿論ミサトからの反応はない。ユウグモは不思議そうに小首を捻った。シンジとアスカの方を振り向いて、困惑した顔を見せた。

 

「……なぁ、とと、かか。どうしてミサトは起きない? ヒトが寝ても、しばらくしたら起きるのに」

「ユウグモ……ミサトさんはもう起きないんだ……」

「どうしてなのだ?」

「それは、ミサトさんは亡くなってしまったから……もう死んでしまったから」

「死ぬ?」

「生き物の命が途絶えること、もう生き物ではなくなること、よ。話すことも、目を開けることも、考えることもない」

 

 アスカが補足すると、ユウグモの顔が初めて曇った。

 

「……死ぬ……もしかして、ととやかかも死ぬのか。ユウグモも死ぬのか」

 

 初めて不安そうな顔になったユウグモの肩に、アスカは手を置く。

 

「とともかかもユウちゃんも死なないわ……あたしたちはヒトじゃないから、老いることも死ぬこともない」

「本当に?」

「本当よ……」

 

 アスカはそう言って、不安を宥めるようにそっとユウグモを抱きしめた。

 空咳をして、サクラが再び立ち上がった。

 

「……お花を摘みに行って来ますわ。しばらく誰も来んと思います。ゆっくりお別れをしてください」

 

 明らかに気を遣って、サクラは席を立ち、シンジたちにそっと頭を下げた。それは彼女が毎週のように尽くしている遺族への礼だった。

 

 遺族たちには様々な想いがある。後悔や不和がその場で噴き出す事もある。それは元から蓄積されていたもので、人の死はそのトリガーとなるだけだ。サクラは様々な場面に立ち会ってきたから、なんとなくその家族の行く末が見えてしまう。

 

 でも、サクラが船長室の自動ドアをくぐるとき、彼女の口許は少し緩んでいた。

 

 式波さんのうちは大丈夫ですわ──

 

 声に出さないが、サクラの経験は彼女にそう伝えている。根拠は分からないが、それは確信だった。

 

 サクラが去ると、シンジは静かに促した。

 

「……アスカ、ユウグモ。ミサトさんにちゃんとお別れしないと」

 

 でも、アスカの瞳は濡れている。理不尽に対する、何処にも持って行きようのない怒りがそこにはある。

 

「シンジ、シンジはこんなの──平気なの?」

「平気なわけないじゃないか。ミサトさんが亡くなって哀しいよ」

「そうじゃない! その事じゃない! あたしたち、これからみんなを見送るんだよ。ずっとずっと、あたしたちの側が見送るんだ。あたしたちが見送られる事は永遠にない。そんなの寂しくて……たまらないよ……」

 

 みんなに取り残される。知っている人はみんなアスカの前から去っていく。また孤独になる。せっかくエヴァに乗って、死ぬ思いをして戦って生き残り、色んな人と出会えたのに。そういう出逢いを通じて、ようやく自分は只のクローン──エヴァを動かすための生体部品ではなく、人間になれたと思ったのに。

 

「しょうがないよ、僕らはシトなんだから。もうヒトではないんだから。……アスカは後悔してるの?」

「……後悔? 当たり前でしょ! 毎日後悔してるわよ。今、ヒトに戻れるなら一も二もなく戻りたい。眠れないし、食べられない。永遠に生き続けなくちゃいけない、そんな化け物みたいな人生、イヤだよ……」

「化け物なんかじゃないよ」

 

 シンジはゆっくりとかぶりを振った。

 

「ヒトだろうと、シトだろうと、アスカはアスカだ。同じアスカだよ。僕の大好きなアスカだよ」

 

 シンジはアスカの肩を抱き、ユウグモを抱き寄せた。二人の体温が同じシトであるシンジにはちゃんと感じられる。

 

「……シンジ」

「確かに僕らはやがて星々さえも滅んだ、暗黒の深淵の中で、孤独になるんだろう。でも、独りになってしまうわけじゃないよ」

 

 シトは不老不壊(ふろうふえ)の存在で、シトと同質の存在であるエヴァンゲリオン以外の手では滅ぼされる事はない。

 

 ──厳密には、宇宙に満たされる真空が、そのエネルギー状態が真に最低エネルギー状態ではない「偽の真空」である場合、量子力学におけるトンネル効果によって「真の真空」へと相転移する「真空崩壊」が起こる可能性がある。

 

 この「真空崩壊」はシトも含めた全てを滅ぼすものだが、それが起こる確率が宇宙の寿命に比して十分に低いものであるのかは、自然界の四つの力である電磁気力、弱い力、強い力、重力を統一的に記述するTheory of Everything──万物理論で解き明かされるまでは詳らかではない。

 

 しかし、それは何れにしても宇宙的タイムスパンの話である──そして、宇宙の寿命の終わりを事象の地平面の彼方で静かに待つにせよ、光速度で拡がり迫り来ると言われている真空崩壊に滅ぼされる運命から待避し、最期まで抗うにせよ、アスカもシンジも決して独りではないのだ──朽ちない身体で結ばれた二人だから、とこしえに共にいる事が約束されている。

 

「アスカの隣にはいつだって僕がいる。ユウグモだって、……これから生まれる子供たちだってきっといる。それでもアスカは寂しい?」

 

 アスカは無言だ。家族の存在では埋めきれない悔しさがあるのだろうか。

 

「エヴァの呪縛って、僕らがシトになってしまう事で、確かに呪いなんだけど、でも、僕はアスカとずっと一緒にいたいと願ってしまった。呪縛されたままでもいいよ。宇宙が滅びるまでアスカと一緒にいたいんだ。千年だって一万年だって一緒にいれるんだ。エヴァの呪縛も悪い事ばかりじゃないよ」

 

 要はものの見方だ。永遠に生きることを孤独と見るか。でも永遠に生きる者が、一人でないのなら。死が二人を分かつことがないのであれば、それは寂しさとは永遠に無縁になれるのかも知れない。

 

「シンジと一緒なら寂しくはない……でもね、あたし。正直に言うよ。……もう一度だけ、シンジのお弁当が食べたかった! あんたの作ってくれたご飯が食べたかったよぅ……」

 

 そう言うと、アスカはミサトの死でもどうにか堪えて、流さなかった涙を流し始めた。ポロポロと零れ落ちる涙の滴は、アスカの後悔と未練だ。

 

 きっと、二人はヒトのままで結ばれる事だって可能だった筈だ。シンジにもっと勇気があって、アスカがもっと早くに素直になれていれば。一生、シンジの作る手料理を食べて暮らしていける世界だってあり得た筈だ。

 

 だが世界は──アスカとシンジは──、もはやそうではない。

 

「ゴメンね……アスカ。きっと次の宇宙では、次に巡り会える世界では、アスカのために、たくさんご飯を作るから」

「そんな世界、百万年経っても来ないじゃないか。あたしたち、死ねないんだから。来世にだってもう行けないんだよ……」

 

 シンジには何も声をかけてあげられない。アスカは悲嘆の海に沈んでいる。このまま浮かび上がっては来れないかと思うほどだ。自分の言葉の無力さに、シンジは立ち尽くすしかない。

 

 しかし、アスカが着る──出掛けに慌てて引っ張り出してきた、黒というよりも実は濃紺色のスカートの裾を引っ張る少女がいる。ユウグモだ。ユウグモはアスカの顔を見上げるようにして言う。

 

「……かか。泣かないで。ユウグモ、かかとずっと一緒。ととも一緒。ユウグモ、ご飯なんか食べたことない、でもシアワセ。みんながユウグモに優しくしてくれるからシアワセ」

 

 きっとシアワセってそういうことだ。誰かがその人のシアワセを願ってくれる、そういう人がいることがもうそれだけで、シアワセなんだ。

 

 アスカは少しだけ救われた。

 

 己が娘に救われた。ユウグモのシアワセをアスカとシンジが願っているように、ユウグモも「とと」と「かか」のシアワセを願ってくれている。みんなが笑顔の世界を望んでいる。

 

 自分が作り出した生命に救われる。自分だけでは救われない事でも、シンジとあたしが作り出した「いのち」に救われる。なんだか不思議なことだ。だって、それは自分は自分以上のものを生み出せるってことなのだから。

 

「でも、ユウグモ、ご飯はどうでもいいけど、眠るってことは興味がある」

「え? 寝ることに?」

 

 アスカは目を丸くする。

 

「うん。ヒトはみんな寝る。きょう、ミサトが寝たまま、帰ってこないというのも知った。ユウグモは寂しい……」

 

 シンジはユウグモの頭に手をやって、そっとその頭を撫でてやる。

 

「帰ってこないんじゃないよ。ミサトさんは永遠になったんだ。僕らシトとは違うやり方で、ヒトは永遠になる。その人のもういない所で、その人の事を思い出す。その人の話をみんなでする……そうするとその人はまたそこに現れる。そうしたらいつだって、僕らの所に帰ってきてくれる」

「……とと。ミサトの話をまたしてくれるか?」

「もちろんだよ……その時には悲しい顔をするのではなく、笑って話をしてあげたい。だって、ミサトさんにも笑顔で帰ってきて欲しいから……でもごめん、ユウグモ……それには、今すぐは無理だ……僕はまだ、笑ってミサトさんの事を思い出せない」

 

 シンジはそれから天井を見上げた。父親が泣いている姿を子供には見られたくない。大切な人を失って泣くことを、情けないとは思わないけど、それでも父親は母親とは違うのだから。

 

 上擦る声でそのまま天井を見つめ、シンジは娘に説明する。

 

「……ヒトはね、眠るとき夢を見るんだ。僕と『かか』──アスカは、まだヒトだった時に、お互いの事を時々夢に見ていた。そんな事を昔、アスカと話したことがある。夢はもう一つの世界で、現実には叶えられない事でも叶えられる。寂しくて相手に逢えない時でも夢の中でなら逢える。現実じゃなくても素晴らしい事がある。素敵なものがある」

 

 誰の言葉だったかシンジには思い出せなかったが、なぜだか記憶の片隅に鮮明に在る言葉を思い出した。その或る人は言った。都合のいい創り事で現実の復讐をするな、と。虚構に逃げて、真実をごまかすな、と。そんなものは夢じゃない。ただの、現実の埋め合わせだ、とも言っていた。あれは一体、誰だったのだろう──

 

 でも、その人はきっと夢の持つ力を知らない、孤独で寂しい人なのだ。きっと、自分自身の事をいつまで経っても好きになれないで、他人を幸せに出来るとも信じられない。アスカと結ばれる前のシンジのような人なのだ。

 

 虚構のもたらす勇気と楽しさを知っている筈なのに、それが好きなことを胸を張って肯定出来ない。堂々と出来ずに、後ろめたさを感じてしまっている。その虚構が──夢が──があるだけで、人々は未来に立ち向かえるのに。物事の明るい側面と、裏切られる事を恐れるよりも信じるに足る存在が人間なのだということをひたすらに信じて生きていけるのに。

 

 パンドラの箱に最後に残ったのは、未だ叶わない非現実。またの名を人はこう呼んだ。希望と──。

 

 だから今シンジは、ユウグモに向かって堂々と夢の事を語る。かくある世界ではなく、かくあれかしの世界のことを。葛城ミサトという素晴らしい人間が、今漂っているに違いない世界のことを。死後の世界なんて虚構だと軽侮するのは簡単だが、それを想像できるのは人間だけの持つ力なのだ。人間の優しさなのだ。そして、ヒトだけでなくシトもまた、人間なのだから。

 

「──ミサトさんは今、永遠の眠りに付いている。もう何でも願い事が叶う世界にいるんだと思う。僕がまだ眠れたら良かったのにと今だけは思うよ。だって夢の中ならもう一度ミサトさんに逢えるかも知れないから。そうしたら、ちゃんと今度こそ、今までありがとうって言いたい。どうして昨日そう言わなかったのかな。明日も逢えるなんてそんな保証は無かったのに」

「シンジ……泣きたいなら我慢せずに泣いてもいいよ、あたしの胸で」

 

 アスカがシンジの背中にそっと腕を回す。シンジのつらさが手に取るように分かった。それは、アスカが今感じている喪失感を更に強くしたものに違いない。生(な)さぬ仲であってもミサトとシンジには、どこか本物の母子のような気持ちの通い合いがあったように思えるのだ。

 

「……アスカ、ありがとう。……ミサトさんは母さんじゃないけど、僕は今、母さんを失ったような気持ちになってるんだと思う。シトになってもヒトだった頃と同じように涙が流せる──大切な人を亡くした事をちゃんと哀しめる人間であり続けられているのは嬉しいよ。嬉しくて、だけど、哀しいよ。だって本当はミサトさんの事で、涙なんか流したくはないんだから……」

 

 でも亡くなったヒトはもう帰ってこない。ヒトではなくなったシンジたちにも元に戻る術はない。世界の変化は不可逆的で、後悔も、悔悟もそこには沢山ある。だけれども、何度もループしてやり直せる世界よりも、この一回切りの世界こそが愛おしいと、お互いの体温を感じ取りながらシンジとアスカは思うのだ。

 

「ミサトさん、さようなら」

 

 名残惜しさに後ろ髪を引かれるままに、ずいぶんと長い間を船長室で過ごした後に、シンジはかつての保護者に声を掛けた。

 

 葛城ミサトは精一杯、自分の責務を果たした。人類に対して彼女の父の代から背負ってきた贖罪をようやく果たして、彼女は今、安らかに眠りにつく。逃げることのない人生だった。碇シンジはその人生の見事さに頭を下げる。──僕にはそんな事、全く出来なかったよ。逃げてばかりなのが僕だった。でも、ようやく僕はもう逃げるのをやめたんだ。アスカや子供からは二度と逃げることはない。それだけはミサトさんに約束するよ。

 

 この後、彼女の逝去は艦内の人々に大々的に知らされ、大きな嘆きと慟哭の声と共に、宇宙で亡くなった旅人の例に漏れず、機密カプセルに入れられて宇宙空間に葬られる事になるだろう。そうしたら、微生物によって腐敗させられる事もなく、亡くなった今の姿のまま、永遠に宇宙を漂う事になる。

 

「ミサト、先に行って待ってなさいよ」

 

 アスカたちはテラフォーミングの仕事を終えて、いつかは頭上の惑星──人類の新天地を旅立つ事になる。まだかなり先の未来ではあるが、あの惑星はシンジやアスカたちシトのものではなく、ヒトのものだ。だからいつかは旅立たなくてはいけない。ヒトが再びかつての繁栄を取り戻し、あの星だけでなく銀河の星々が彼らの子孫で満ちることになれば、やがて、シトの生きる世界は星々の彼方の虚空と深淵になる。

 

 だから──彼女は背筋を伸ばし、指先を揃えて、先に旅立つ先輩であるミサトに軍人式に綺麗に敬礼をした。式波・アスカ・ラングレー戦時特務少佐から、葛城ミサト大佐へ最後の手向けだった。

 

「バイバイ、ミサトばぁば」

 

 そして最後にユウグモが、小首を傾げながら頷いた。まだミサトから返事が返ってくるかも知れない、そんな事を思ったのだろう。両親に促されて、部屋を立ち去るまで、ユウグモはしばらくミサトを見つめて佇んでいた。

 

◆

 

 船長室を出ると、本来多忙な艦長に対して列なす陳情者への便宜の為、待合いスペース的に設置された通路脇のベンチ──そこに腰掛け俯いていた男がゆっくり顔を上げて、シンジたちを見た。

 

「……シンジ君。アスカ姐さん」

 

 鬢(びん)に白いものが混じった五十代後半の優男だ。きちんと会うのは久しぶりだったが、狭い船内の事、時々顔を見かける事もあったから、二人とも誰だかすぐ分かった。

 

「……リョウジ君」

「加持リョウジ……」

 

 二人がそれぞれに声を掛けると、疲れたような顔をして男は「うん」と頷いた。二人と加持リョウジ──ミサトと加持の息子──は親しい友人だった。さばさばとした明るく爽やかな少年で、出会うやいなやシンジはすぐに打ち解けた。アスカは人見知りなので、シンジほどではなかったが、それでも数回顔を合わせるうちに、普通に話せるようになっていた。姐さん姐さんと尊敬を前面に出して慕われるような態度には少し辟易していたけれども。──しかし、それもこれも、今から四十年以上も昔の話だ。

 

「……ミサトさんに……会いに来たの?」

 

 シンジは分かりきっている事を訊ねた。その分かりきっている事実の確認が話を進めてくれる筈だった。リョウジの憔悴ぶりから、彼がミサトの訃報を聞いて駆けつけたのは明らかだった。

 

「ああ。昨日も呼び出されて会いに来たばかりだったんだけどね。まさかお迎えが今日だとは。少なくとも口調は元気そうだったんだけどな──」

 

 だから、リョウジは何も懸念する事なく、今日の仕事はEVA──エヴァンゲリオンの事ではなく、Extravehicular activity、宇宙船での船外活動のことだ──を入れていた。リョウジはヴンダーのアストロノーツになっていて、もはやベテランと言って差し支えないが、今日は、日々微細なデブリの衝突に見舞われて損傷する宇宙船の外壁の点検・修理作業に従事していた。根気と集中力と注意力を要する、ヴンダーに乗り組む人々全員の安全に関わる重要な仕事だ。

 

 船外活動でリョウジらが身に付ける宇宙服は作業の都合上あまり加圧出来ない。宇宙服が膨らんでしまうと行うべき微細な作業に支障を来すからだ。それで〇.三気圧程度に減圧しているが、作業を急いで中断してもエアロックで再加圧してから船内に戻らなくてはならない。

 

 それで、ミサトの訃報を聞いても、アスカとシンジより駆けつけるのが遅くなったのだろう。いくら元同居人で被保護者の二人でも、彼らよりリョウジに真っ先にその知らせは行った筈だから。

 

 でも、リョウジはミサトが実の母親であることを未だ知らない筈だ。突然、自分が二日に亘って呼び出されたことをどう思っているのだろう。

 

「リョウジ君……」

「葛城ミサト艦長は、俺のことを何故か、目にかけてくれていたみたいだ。前にも一度だけ、出し抜けに呼び出されて、取って付けたような理由で仕事の報告をさせられる事があったよ。まあ、俺も今では搭乗員の一部門の責任者だから、それをおかしいとは言えない──でも違和感は残った」

 

 アスカはその言い方に、はっとして顔をあげた。リョウジの顔をまじまじと見つめると、リョウジは寂しさの上に、私情を吐露する事への一滴の含羞を滲ませた顔で続けた。

 

「──どうして、最期まで名乗ってはくれなかったんだろうな」

 

 考えてみれば、艦内にはブリッジクルーの高雄コウジのように父親の方の加持リョウジの知り合いは多い。ヴィレが加持らに誘引されたネルフの造反組を母体として組織されているからだ。

 

 そこから息子の方の加持が、自分と同名の物故者の存在を知って、その恋人だった葛城ミサト──己の母親にたどり着くのは、人の噂話などが希少な娯楽である閉鎖環境において、特段難しい話である筈はなかった。

 

「加持……」

 

 アスカは力なく下げていた腕の先の二つの拳をぐっと握り締める。やるせない感情を持て余して、しかし加持リョウジに対しては何も掛ける言葉を持たなかった。

 

 一方、シンジは優しい顔をして言った。

 

「大切なことは言わなくても伝わるから」

 

 ミサトはきっと、自分には今更母親であると名乗る資格はないと思ったのだろう。今まで隠し通して、母親らしいことは何もしてやれなかった、だから今際の際にそんな事を言って、息子を惑わし、哀しませ、己一人の安心と満足感を得ることを自分に対して許せなかったのだ。

 

 それはよく分かる。ミサトの気持ちも分かるけれど、それでも名乗ってほしかったというリョウジの気持ちもシンジには分かる。シンジは大人になり、ちゃんと他人の気持ちが分かるようになっていた。だから、大人になっているシンジはミサトとリョウジの感情に必要以上に踏み込む事はしない。代わりに別の事を言った。

 

「君が生まれる前の事だけど──それも考えてみれば、たった半年ほどの間の事だったのだけれど──僕らがミサトさんを取ってしまっていて、ごめん」

「シンジ君……」

 

 とシンジがリョウジに向かって言うのはミサトとシンジとアスカ、三人だけの同居生活のことだ。本物の家族が欲しくて、でもみんなそれを手に入れる事が出来なくて、寂しかった三人の刹那の家族ごっこだった。でもその事をシンジもアスカも忘れることは出来ない。あれは大切で温かい時間だった。

 

「僕とアスカはミサトさんに可愛がってもらっていた。本物の愛情を貰っていた。でも、それは本当は君が貰うべきものだった。だから今、僕はリョウジ君にそれを返さなくちゃいけないと思った──僕らに注がれた親のようなミサトさんの思いやりは、きっとミサトさんが本当はリョウジ君に注ぎたかったものだ。僕らは君の代わりに過ぎなかったんだ。それを覚えていてほしい」

 

 ──だから君は本当は母親、ミサトさんにちゃんと愛されていた、そんな言葉を続けるのは蛇足だろうからシンジはそう言わなかった。でもきっとリョウジには伝わったのだろう。だって、リョウジが両の目から頬に熱いものを伝わせているのが見えたから。

 

「……あたしたち、三人ともミサトの子供だったんだよ。だから今日、三人ともお母さんを亡くしたんだね」

 

 アスカも涙声になっている。

 

「姐さん、シンジ君……」

 

 リョウジが近付いてきて、大人の男の背の高さから身を屈めた。シンジとアスカの首に両腕を回して、二人をしっかりと抱き寄せた。まるで父親みたいだなと何時までも少年と少女の姿のままの二人は、年下のおじさんに向かってそう思った。温かい。優しくて、とても温かかった。ミサトによく似た、不快ではない体臭が仄かに息子である彼の体躯から薫った。

 

「シンジ君とアスカ姐さんが、僕の兄さん姉さんみたいな存在で良かったよ。今、こうしてそれを確認し、名乗りあえたのも母さんのお陰だ。亡くなった母さんが僕らを結び付けてくれている──」

 

 これがヒトの力だ。ヒトはシトと違って永遠には生きられない。でも、死後にも強い力を及ぼす事が出来る。そうしてヒトは誰かの中で永遠になる。リョウジも結婚して、多産が奨励されている船内社会の期待に応えて子供が何人も居ると聞いていた。葛城ミサトと加持リョウジの血は、そうして未来に向かって引き継がれる。

 

 数千年後、彼の子孫にそうとは知らずにすれ違う自分たちを想像して、アスカは微笑んだ。ヒトの永遠とシトの永遠が僅かに交わる未来に──シトとしての生を悔やんできたアスカが──未来に初めて希望を持った瞬間だった。

 

「三人だけで抱っこ! ユウグモも入れるのだ!」

「そ、そうだったね」

 

 シンジが慌てて、三人の輪に、ユウグモを入れる。四人で円陣を組んだようになって、リョウジが当惑しながらも幼女に向かって笑顔を作って見せる。

 

「なんだか、面白い組み合わせだね」

「ミサトさんの事が大好きだった四人の組み合わせだよ──リョウジ君のお母さん──葛城ミサトさんは本当に素敵な人だった」

「女同士、もっとミサトと話をすれば良かった。お互いに女だから時には反撥したりもしたけれど、でもきっとあたしが母親になった今ならば、話せることは多かった筈なんだ……なぜか時間は無限にあるような気がしていた。自分たちがシトだからそんな風に勘違いして──」

「それは俺も同じで──姐さんだけの後悔じゃないよ。世の中の娘や息子はみんなそんな風に親の死に後悔していくんだろうから」

「ユウグモは、ミサトともっと遊びたかった!」

 

 そのユウグモの言葉に、三人は肯いて、静かに笑い泣きをする。

 

 本当に──もっと葛城ミサトと話をしたかった。

 

 いつまでも。いつまでも。

 

 ずっと葛城ミサトと一緒にいたかった。

 

◆

 

 今日も、ユウグモは「とと」と「かか」に「おやすみなさい」とぴょこんと頭を下げて、母から譲られたお気に入りのハンドパペットを抱えて、小さなベッドで眠りに付く。実際には眠れなくても、彼女は毎晩その儀式を欠かさない。それはまるで、自分はヒトなのだ──ミサトたちと同じ人間なのだ、と訴えるかのようだ。

 

「おやすみ、ユウグモ」

「おやすみ、ユウちゃん」

 

 それが、シンジとアスカにはたまらなく愛おしく、また切ない。親として何もしてあげられないけれど、せめてユウグモの「寝顔」が安らかであるようにと毎晩のように祈るしかない。

 

 そしてそんな両親の想いをよそに、ユウグモは毎夜の就寝の儀式に心を弾ませる。なぜなら、そうすれば──もしもヒトと同じように眠ることが出来たのならば──葛城ミサトばぁばに夢の中で逢えるのではないか、また仲良く遊んでもらえるのではないか。そう思えるからだ。ユウグモはそんな儚い夢を抱いて、そっと睫毛を伏せるのだ。これまでに一度も眠くなった事も、眠った事もないのだけれど。

 

 だけど、ユウグモの就寝に込める想いを、この世界の誰にも──虚しい夢だと笑う資格はない。無意味な虚構で、真実を誤魔化す、現実の埋め合わせだと糾弾することは出来ない。

 

 ──少女ユウグモは葛城ミサトの夢を見るか?

 

 それは誰にも分からない。でも、夢は見ようと思うだけで、もう尊いのではないか?

 

 今宵こそはと、少女は目を瞑る。

 

 ユウグモの瞼の裏には、白髪の葛城ミサト艦長の優しい笑みがありありと浮かぶ。

 

 ユウグモはヒトのように眠りたい。

 ユウグモは葛城ミサトに夢で逢いたい。

 ユウグモはもう一つの世界を信じている。

 それは現実とは異なる、優しい夢と虚構の世界。

 

 ──これは式波・アスカ・ラングレーと碇シンジの長女ユウグモが、眠り姫と呼ばれるようになるまでのお話。

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