アスカは、里に下っていく少年を見送ると、すぐに家に向かってきびすを返した。
家に戻ると、シンジは部屋の掃除が終わったのか、学生服のシャツの上にPUYO PUYOと書かれたエプロンを着けて、庭で掃き掃除をしている。
耐久性が数百年レベルと尋常でないプラグスーツを別として、服の大半は里からの奉納に頼っている。服については、エプロンは家事を取り仕切るシンジの希望だろうが、そういったもの以外はアスカが要望を出していた。
シンジの学生服は、アスカ曰わく「シンジはやっぱりこれでないと」だそうで、着るとアスカが喜ぶ。「アタシのシンジだ」と。
「あ、お帰り。早かったね」
さっきの少年との話が、頭に残っているからか、アスカは、顔を近づけて、シンジをじっと見つめた。
(確かに顔は中の上……ぐらいかな。女顔だと思うけど)
「な、なにかな?」
過去に、アスカに顔をまじまじと見つめられた後、そのまま寝室に引きずり込まれた事がある(哀れな)シンジは警戒心を露わにした。
「だ、ダメだよ。掃除してるんだから。えっちなのはダメだって」
「……はあ?何言ってるんだか」
「ち、違うの?」
アスカは、山頂の神殿の庭から、山の中腹を見下ろして、大きな溜め息をつく。
「あのさ……アタシ、気になる男の子がいるんだ」
「……い、いきなり何。変な冗談はやめてよ……アスカ」
「冗談じゃないわ……そいつの事を考えると、胸がきゅんと締め付けられる……ような気もする」
アスカの表情は真剣だった。胸元に手を当てて、目を瞑っている。実際にアスカの中には名状しがたい感情がわだかまっていた。
「……そんな……」
「十一人めの男の子なんだけど、名前は何だったっけ?」
「へ?」
「だから、気になる男の子よ。もったいぶってないで名前を教えなさい」
シンジはようやく意味を理解して、答える。
「あ、ああ……何だ、そういう意味か。ミチツキだよ」
男の子は上から、アキヅキ、テルヅキ、スズツキ、ハツヅキ、ニイヅキ、ワカツキ、シモツキ、ハルツキ、ヨイヅキ、ナツヅキ、ミチツキ、ハナヅキの十二人。
女の子は、上から、ユウグモ、マキグモ、カザグモ、ナガナミ、タカナミ、オオナミ、キヨナミ、タマナミ、スズナミ、フジナミ、ハヤナミ、ハマナミ、オキナミ、キシナミの十四人だとシンジはすらすらと諳んじて見せる。
「なるほど、ありがとう。ちゃんと覚えてるのね。えらいえらい」
「当たり前でしょ。自分の子供なんだから、アスカもちゃんと名前を覚えてね」
「まあ、気が向いたらね」
そして、アスカはニヤリと笑ってみせる。
「で……何が、そういう意味か……なのよ? 不安そうな顔したと思ったら、今度は気の抜けたようなマヌケ面しちゃって」
「う……いや、だってアスカがいきなり気になる男の子とかいうから」
「恋女房のアタシに、好きな男でも出来たのかと思ったのかしら?」
射抜くようなアスカの蒼い瞳が、獲物のシンジをいたぶろうとねめつけている。こうやって、お互いの心を揺さぶり続ける他愛のないやりとりがなければ、二百年以上もの間、夫婦でい続けることは難しいだろう。お互いの心が静かに固定してしまえば、その時こそが、二人が本当のシトになる時かも知れない。
「アスカが紛らわしい言い方、わざわざするからだろ……」
シンジは誤解だと分かったのに、少ししょんぼりしている。
「いるよ。好きな男の子なら。ずっと前からね」
「え……」
アスカは、人差し指をシンジの胸にちょんと当てて、もじもじと指を回す。
「でも、そのお話なら、ちょくせつ夜にしたいな」
「……うん」
頬を紅色に染めるアスカの熱っぽい息遣いに、今晩もそういう展開になるのかな、とシンジは思った。
◆
「……といっても、今日のアタシは忙しいのよ。これから出掛けてくる」
「いつもゴロゴロしてるのに、珍しいね。さっき聞いたミチツキ関係?」
「ん……まあね」
「暗くなるまでには帰りなよ」
「うん、ダンナさまとの夜の約束もあるからね」
「はは、そだね……」
シンジに背中を見送られ、アスカは、山道を下り始める。途中から、見えないATフィールドをサーフィンの波乗り板のようにしてその上に乗り、滑空するように、山の斜面を滑り降りていく。
やがて麓の里が見えてきた。
里の入り口付近を流れる小川の岸にミチツキと、里の少女と思しきヒトの少女が腰掛けて談笑しているのが、アスカのヒトを超えた視覚に感知される。
アスカはATフィールドを消失させ、地面に降り立った。
(ふーん、あの子が、アタシの息子の相手なの……)
アスカは少し既視感を感じる。
(あれ、あの子、少しアタシに似ている?)
ミチツキと親しげに会話を交わす里の少女は、腰の辺りまで長い髪を伸ばしていた。その髪や肌の色素は薄く、頬にはそばかすが浮いている。アスカと同じようにヨーロッパ系の血を引いているのかも知れなかった。
やがて、二人はじゃれあい、互いに小川の水を掛け合って遊び始めた。初春の水の冷たさに、少女は黄色い声を上げて歓び、相手に水をかけて反撃する。ミチツキも同じ様に、声をあげて、顔をしかめたり、楽しそうにさらなる反撃に転じたりしていた。
(シトの五官で、小川の水を掛けられたって、別に冷たく感じる筈がない)
それなのに、少年はあたかも自分も少女と同じ様に小川の水を冷たく感じているような演技をしているのが、アスカにはすぐに分かった。
(ああいう気の使い方、誰かに似てる)
もちろん、誰に似ているかは言うまでもない。アスカがそこまで心の内を知っている少年など、彼女の人生において、たった一人しか居ない。
(シト同士なら、そういう気の遣い方も分かってあげられる。人間だった時と同じ様に振る舞い、何も変わってないようなフリをする。……その、相手の優しい気持ちも。でも、その子にはアンタの気持ちが届いてるの、ミチツキ……)
それから、アスカは、木陰や物陰に隠れながら、二人を観察した。頭からダンボール箱を被って、中に隠れたりもした。そんなアスカの背中に村の主婦が声を掛ける。
「あのぉ……山の大女神さまですよね、ここで一体……」
シンジたちは麓のヒトたちに、山の神さま、とりわけ、アスカは女神の中でも一番格が高い大女神さまと呼ばれているようだった。
「しっ……アンタ、この村の人?」
「ええ、村の主婦ですが」
「あの子たち、付き合ってるの?どこまで進んでるの?」
「……いや、見たとおりの微笑ましい仲だと思いますが……」
「キスは?……キスはしてないの?」
「してないのでは……まだ付き合い始めみたいですし」
「ちっ、グズグズ何やってるのよ」
アスカは爪を噛み、舌打ちをする。本当は、二人の関係が進んでいない事にホッとして良いはずだが、奥手の少年の行動に思わず苛立ちを感じた。それは女の本能かも知れないし、少年にその父親を重ねた故の苛立ちだったのかも知れない。
さらに二人をそっと追うと、二人は場所を移り、少女は花畑で花を摘み、花の冠を作っている。少年は少女に請われて、彼女の頭にその冠を捧げようとした。その時、少女が顔を歪める。少女の手が蜂に刺されて腫れ上がっていた。
(あっ)
とアスカも思わず、声を上げそうになって、すんでのところで言葉を抑え込んだ。
一方、少年は何が起こったのか分からず、戸惑うばかりだ。生まれた時からシトである少年は痛みという概念を知らない。蜂のような小さな虫が、ヒトに強烈な苦しみを与える事も理解できていなかった。
突然苦痛に呻き、涙を流す少女を何も気遣えず、痛みに共感も出来ない棒立ちの少年に、少女は遂に怒りだし、立ち去ってしまう。アスカは、それを苦々しい思いで眺めている。
(ミチツキ……アンタが悪い訳じゃない。人間はそれだけ脆い存在なの。アタシたちとは違うのよ)
アスカは、数旬の逡巡の後、咲き乱れる春の花の野に歩み寄り、手を挙げて声を掛ける。
「……よっ、色男の碇ミチツキくん」
白いプラグスーツ姿の少女の登場に、少年は不審そうに眉根をしかめた。
「母さん……僕の名前、覚えたのか」
「ふん、まあね……で、あの子が、アンタの気になる子なわけ?」
「……別に」
「なかなか、いい雰囲気だったじゃないの。でもね。里の子と恋愛沙汰はやめた方がいいと思うな。お母さんは」
「……母さんには関係ないだろ」
里に下りたせいか、丁寧だった口調が年相応にぞんざいになっている。それもアスカには何故だか気に入らない。
「"お"母さん、でしょ?いつも、おうちではそう呼んでくれてるんでしょ?里に来たからって何を格好付けてるんだか」
「……話にならない。僕はあいつを追いかけなきゃ」
「ダメよ」
アスカがしっかりと、去ろうとした息子の手首を掴んでいる。
「行っちゃダメ。あんたはこのまま、お母さんと一緒に帰るのよ」
「な、なんでですか」
「なんででもよ。アンタはうちでお母さんたちと一緒に生きるの。もうここには来ないと、約束しなさい」
余りにも理不尽な命令だった。昨日まで子供の名前も覚えていないほど、放任だった。気まぐれのように母親を名乗り、一体何がしたいのか。
「恋愛をするなってこと?」
「そうよ。そんな事をしなくてもいい。アタシたちはヒトではなく、シトなんだから」
「じ、自分は生涯の伴侶を得ているくせに、勝手な事を言うなよっ!母さんには父さんがいる、それなのに僕には恋をするなって……何なんだよそれ!」
母親に対する少年の口調が完全に崩れ、剥き出しの感情が露わになった。
「……あの子、ちょっとアタシに似てるわよね」
「……」
「それ、本当に恋なのかしらね。単に母親に甘えたいだけ、代わりを求めてるだけじゃないの?甘えたいだけなら……いいよ。今まで放置してた分、アタシが甘えさせてあげる。もちろん、それ以上のことは無理だけどね」
「ち、ちがう……母さんの代わりとかじゃない。僕は本当にあいつのことが」
仮に、そうだったとしても、とアスカは言葉を継ぐ。
「シトは星が滅びても、宇宙の終わりまで生きていける。星々の深淵にたった独りでもね。そういう進化を遂げた生命体なの。だから恋なんて要らない。愛なんて消えてなくなる。アタシとシンジの仲は、単に……ヒトだった頃の未練だよ」
そこまで言ってのけると、アスカは、自分自身のセリフに傷付けられたような顔をして立ち尽くしている。
(そうか、単なる未練だったのか)
アスカは憮然として、やがて、茫然としていた。
「……父さん」
とミチツキがアスカの後ろに向かって声を掛けた。
そこに居たのは、いつの間にか現れたシンジだった。朝と同じく学生服姿だ。シンジは軽くミチツキに頷くと、アスカの腕を掴んだ。
「アスカ……ちょっと来て」
「な、なによっ。は、離しなさいよっ……アタシはあの子にまだ話が……」
「いいから……」
有無を言わさぬ拘束で、シンジはアスカを引きずって行く。やがて、アスカの抵抗が弱まったので拘束を外すと、手を繋ぎながら、ミチツキが少女と居たのと、同じ小川のほとりにたどり着く。
「ちょっと座ろうか」
「……なんなのよ」
ふぅとシンジは少しだけ、間を取るように嘆息する。
「アスカが里に出てくるなんて珍しいよね。ミチツキが気になったんだね」
「別に。アンタこそ何でこんな所に居るのよ」
「アスカはミチツキが気になった。僕はそんなアスカが気になった。……だっていつものアスカと何だか違うんだもの」
ぷいとアスカはそっぽを向く。なぜか自分の先刻までの行動が後ろめたい気がして、夫の顔が見れないでいる。
シンジはゆっくりと周囲の風景を見回している。
「……たまにはこういう
「何も食べられないのに、そんなもん何が楽しいのよ」
「そうかな……僕はアスカや子供たちと一緒なら、こうやって座ってるだけでも楽しいけど」
アスカはそこで思いつき、シンジに向かっていきなり小川の水を掬って掛ける。
「な、なにするんだよ……いきなり」
予想のとおり、顔をしかめて冷たそうな表情をした。
(ほら、やっぱり、あの子と同じだ)
ヒトだった頃と同じように振る舞い、ヒトでなくなってしまったアスカを傷つけないようにする気遣いだ。
「シンジは優しいね」
「……」
シンジもわざわざ何がとは聞き返さなかった。代わりに、アスカに向かっておもむろに切り出す。
「アスカは、子供たちが人間と交流するのに反対なの?」
「……どうせ、アタシたちは仮住まい。いつかはこの星を出て、人間のいない世界に行くのよ。無意味な事は止めた方がいい」
「そうだけど、でも無意味ってこともないような。僕がアスカに再会したとき、僕はまだ人間だったじゃない?」
ヴンダーで外見は十四のまま、中身が二十八歳のアスカに再会したときの事だ。
「だからアンタとは極力接触しようとしなかったのよ。触れられたら、自分が人間でないとバレてしまう。食事も睡眠も取らない化け物だと……シンジにだけは知られたくなかったから」
「じゃあ、アスカは僕がシトにならず、ヒトのままだったら、一緒にはならなかったの。それが理由で別れろって言われたら素直に従ったの」
仮定の質問は無意味だろう。百のハッピーエンドがあれば、その裏には、千の選択肢や、万の悲劇や別離があるかも知れない。アスカは全ての世界でシンジと結ばれると言い切れるほどの、そこまでの運命への確信は持てない。
「そんなのわかんない。そうしたかも知れない。だってそんなの、シンジが可哀想だもの……」
「……そう」
「シンジがアタシの方に振り向いてくれなくて、アタシとシンジの種属が違ってしまったなら、別れたかも知れない。そんなの仮定の話だから分からないよ」
アスカはそんな世界の自分を思って、その孤独と寂寥に泣きそうになった。シンジにもその寂しさは共有されたようだ。
「……なんだか、それも寂しいね。でも僕らは今、こうして一緒にいる。で、アスカはそんな風に別れたかもしれない、別の僕とアスカに重ねて、ミチツキの事を考えるんだ?」
「だってあの子は、アタシとシンジが、二人でこしらえた子供なんだよ。まだたった十四なのに。あの頃の一番苦しんだアタシたちと同じ歳なのに」
けっきょくは、それだけの事からアスカは、こんなに入れ込んでいるのかも知れない。どうしようもなく、十四歳の息子をあの時の自分とシンジに重ねてしまうから。そして、あの子はシンジのように優しい心を持っている。恐らくは傷つきやすい心も……。
「あの子が傷付いて、哀しんだらどうしよう。あの子が村のヒトたちに化け物だとか、そんな風に思われて排斥されたら……そう思ったら、みすみす黙って見ていられない。それに今は上手く行ったとしても、絶対に別れが来る……それはヒトの寿命だったり、アタシたちの旅立ちだったりするかも知れない」
少なくとも、あの山のてっぺんにまで人が分け入るほどに、ヒトがかつての繁栄を取り戻したならば、アスカたちは、この星を旅立つ事になるのだろう。それが三十年後なのか、百年後なのか、千年後なのかは知らないが、無限の寿命からすれば、あっという間の刹那であるのは間違いなかった。
「僕のアスカの可愛い顔をよく見せて」
「……なによいきなり……」
シンジがアスカのおとがいを軽く触り、白い顔を覗き込んでくる。
「アスカのお目目はやっぱりたれ目だね」
「うるさい……ひとが気にしてる事を言うな」
成長してからは美少女と呼ばれる事に慣れていったアスカだが、子供の頃は鏡の中の自分の顔が、その目尻の下がり方から、どこかタヌキのように見えて嫌だった。
「本当はたれ目のアスカは、いつも強気だけど、どこか気弱なんだよね。それに心が優しいから、自分以外の事をつい心配してしまう」
「そんなの関係ない……あたしは冷静に、最悪のパターンを考えてるだけ」
うつむくアスカの手に、シンジはそっと自分の手を添えた。
「アスカがお母さんらしいことをしようとしてくれてるの、嬉しいよ。でも、あんな風に子供の関係に干渉するのは違うと思うんだ。お母さんはじっと遠くから見守っていて、子供が失敗したときに慰めてあげればいいと思う。僕はそう思うんだけど、どうかな、アスカ」
アスカは、横を向いた。シンジの言っていることが正しいかは分からない。でも、自分とシンジの関係を単なるヒトとしての未練だと結論してしまった自分の考えよりも、今はすがりたい考え方に思えた。どこで自分は間違えたのだろう?
「……余計なことして悪かったわね」
「違うよ。ぜんぜん余計な事なんかじゃない。アスカは張り切って、少しだけ頑張り過ぎちゃっただけだよ。子供の為に頑張ってくれてありがとう」
頭を下げて礼を言う夫の姿をその中に映したアスカの青い瞳がいつの間にか潤んでいる。明後日の方向の頑張りでも、シンジはちゃんと彼女の気持ちを理解してくれていた。思えば、シンジほど、報われない頑張りを繰り返した少年は居なかった筈だ。そしてそんなシンジが、頑張りの後に、他人の時折の優しさに救われ、あるいはどんなにか他人の優しさに救われたかったか。アスカは、それを想った。
「シンジ……」
「うん?」
「抱っこして……シンジ」
「いいよ」
シンジの両手がそっとアスカの背中に回る。新陳代謝がほぼ皆無のシトに、体温は殆ど無いはずだが、シト同士で抱き合えば、日常的領域の感覚には鈍くとも宇宙的領域の温度には鋭敏な五官故か、ヒトだった頃と少しも変わらないお互いの温もりや心音が感じられる。それは初めて知ったとき以来、いつも安堵させてくれる嬉しい誤算だ。
十四で成長の止まったアスカとシンジの背格好はいつまでたっても男女差がほとんどなく同じだ。二人の背丈も目線の高さも永遠に変わらない。ずっと中学生のように同じ大きさ同士で抱き合っていられる。
「今日のアスカは甘えんぼさんだね」
「うん……。あのね……このまま、シンジとエッチしたい……」
優しいシンジが欲しくてたまらなくなった。それは単なる性欲ではなく、大好きな人と一つになりたいという願いだ。
今すぐ、シンジに甘えたかった。シンジに優しくされたかった。シンジに可愛がられたかった。シンジに気持ちよくされたかった。シンジに愛されたかった。シンジを愛してあげたかった。シンジと一つになりたかった。
だが、まだ太陽は高い。二人の時間は無限にある。永遠を生きる二人にとって、刹那はどこまでも刹那だ。
「それはまた、今晩ね」
「ううう゛~……」
お預けを食らってアスカはむずがるが、シンジはアスカの金髪を優しく梳くように撫でてやった。そっと髪の毛にキスをして、そっと妻に向かって囁いた。
「ミチツキにも優しくしてやってね、アスカ」
◆
「お疲れサン」
夕刻、いつもの白いプラグスーツ姿の母が腕を組んで、村の入り口からすぐには見えない奥まった場所で待っていた。
「母さん……」
「お母さん、でしょ?」
少年の暗い表情を見れば村での顛末は分かる。少女の家を訪れたが、和解は上手く行かなかったのだろう。だから、あの子は居ないんだから、ちゃんとうちでの呼び方で呼びなさいとアスカは、言外の意味を込めるが、少年を再び傷付ける形では、少女の話題はすまいと内心決意する。
「……迎えに来てくれたの?」
「そうよ、優しいお母さんでしょ。さっ、おうちに帰ろ?」
アスカは、少年に手を差し出す。少年は少しだけ逡巡したが、素直に母と手を繋いだ。
「実は……同い年の男の子と手を繋いだのは、あなたのお父さん以外では初めてよ」
「……同い年……ですか」
「身体が成長しなければ、もう精神は老成しないのよ。だからアタシは永遠に十四歳。アンタと丁度同い年♪」
アスカはそう言って、繋いだ手を嬉しそうに、ぶんぶん振り回す。
「お母さんはいつもバカみたいに前向きですね」
「バカというのがちょっと気になるわね。その呼び方は
アスカは、昔の流行歌か何かを鼻歌でハミングしている。私を月に連れてって、という曲よと母は説明する。少年から見ても、母の機嫌は良さそうだった。
「月ではない、父さんに連れて行かれた先で、叱られたりしなかったの?」
「ん?そんなの、全然よ。……シンジには抱っこしてもらった」
「はぁ?抱っこ……ですか?」
少年の怪訝そうな、いかがわしいものを見る視線に気付いて、アスカは慌てて補足する。
「だ、抱っこって、別にいやらしい事はしてないわよ。清く正しい中学生交際」
だって、アタシとシンジは永遠の中学生だから、とアスカは機嫌良さげに、うそぶく。
「どうせ、エッチなことをねだったけど、父さんに拒否されたんでしょ……」
「……ち、違うわよ」
アスカは図星を突かれて瞬間どもるが、すぐに真面目な顔になって言った。
「お母さん、
「え?」
「シトだから孤独でいいとは思えなくなった、ってこと」
「……」
「シンジの抱っこが温かくて嬉しかったんだ。ずっとそうしてたいと思ったぐらい。だからアンタもお母さんの言うとおりにはもうしなくていい。あの子でも、あの子でなくても、いい相手を探してもいい」
と、先ほどとは正反対の事を言う。
「でも母さんのいうとおり、僕らはシトで、あの子たちはヒトだ。違う生き物なんだ」
「……それはそうね」
先刻のアスカの言葉は、彼に少なからぬ打撃を与えていたらしい。
「……どうして、母さんと父さんはヒトのまま、結ばれてくれなかったの。そうしたら、僕もこんな思いをしなくて済んだんだ。こんなの単なる愚痴で、甘えだって分かってるけど……」
少年はいつの間にか地面に涙を落としていた。汗は出ないのに、涙はヒトと同じように出る。お前の眷属は未だ中途半端に人間なのだと残酷に、アスカたちに告げているようだ。
「別に甘えていいわよ、だってアタシはアンタのお母さんなんだからね」
そう言って、アスカは、道の脇に少年を引き込む。少年はされるがままだった。自分と同じ背丈の少年を胸に引き寄せ、背中に両手を回してやる。
「アタシがシンジにしてもらったように、アタシも
アンタを抱っこしてあげるね」
「お母さん……」
そこで初めて、少年の二人称がお母さんに戻った。アスカの首元を我が子の涙が濡らす。
「お母さん、お母さん……」
滂沱の涙が、溢れ出すと、もう簡単には止まらなかった。だから、アスカは、静かに語りながら、少年の髪を撫でてやる。
「アタシとシンジがヒトのまま結ばれる結末か……あの時は、色々遅すぎて……そんな結末があり得たとは思えないけど、もしアタシたちがヒトのままだったら、あんたは十一男なんだから、絶対生まれてないわよ。生まれたの、二十何番目でしょ。ヒトの女は一人でそんなに子供は産めないの」
「……お母さん」
「シトになって良かったなって思うときがたまにあるけど、アンタが生まれてきたのもその一つよ。これは本当」
「……名前も覚えてなかったくせに」
「名前はシンジが覚えてくれてる。アタシたちは永遠に一緒なんだから、いつでも傍にいるアイツに聞けばいいのよ」
「ずるいよお母さん……。そんなの独りだけ幸せ過ぎるじゃないか」
「独りだけじゃなく、二人だけよ。でも……ごめん」
それから二人はずっと抱き合って、少年の涙が止まるのを静かに待った。
「そろそろ、帰ろっか」
「うん……」
いつの間にか日は完全に没し、手を繋ぎながら無言で歩みを進めると、程なくして灯りの点る家に着いた。二人は山道でも夜道でもペースが落ちないから、ヒトから見たら、異常な健脚に見えただろう。
「なんなら、今夜はお母さんが一緒に寝てあげようか?」
アスカは自分なりに、息子の傷心を慰めてやりたい気分だった。背中を優しく叩いてやれば、孤独な夜でもよく寝付くのではないか。どこかにしまい込んだままの子育て書でも急いで探してみるか。
だが、少年は首を横に振った。
「お父さんに嫉妬されるのはごめんだよ」
「それなら、三人で川の字とか。シンジは部屋の隅に追いやって、抱っこして寝てあげる」
「シトだから嫌われるならともかく、マザコンで嫌われるのはイヤだよ」
アスカは目ざとく、その言葉の含意に気付いた。
「ほほぅ。じゃあまだあの子のこと、諦めてないんだ。ちょっと見直した。さすがはアタシとシンジの子供だわ」
「うん。簡単には引き下がらないよ。また里に行ってみるつもり……それじゃあ、お休み、お母さん」
少年はしっかりとした足取りで、子供たちの寝室がある離れに向かって去っていった。
アスカは、晴れ晴れとした気持ちになる。
(うん、好きだという気持ちは、未練なんかじゃないよね)
そして、アスカはシンジの事を想った。
(でも、今日はまだ一つ、闘いが残っている……)
和風の引き戸をガラガラと引いて、アスカは、家に入る。
「お帰り、アスカ。……ミチツキと一緒だった?」
「……」
玄関でつっかけを脱いでいると、エプロン姿のシンジが出迎える。
アスカは、シンジを一瞬だけ見て目を伏せ、無言で上がり
「ん……なんか怒ってる?」
「怒ってないわよ」
「でも、ただいまも言わないし」
「昼間のこと」
と、初めてシンジを見て、睨みつける。
「え?……ああ、アスカ、すごく可愛かったね。女の子って感じで。いつもああだといいのに……」
「ああっ、やっぱり、コイツ忘れてないっ……」
「忘れるわけないでしょ、今日の昼間の話を」
「アタシも三回も反芻した。……で、その都度、『抱っこして』とか、乙女みたいな自分に、あの中学生みたいなやり取りに、恥ずかしくて死にそうになった」
アスカの目の縁に少し涙の粒が浮かんでいる。
「……恥ずかしい……?」
シンジにはアスカの言うことがよくわからないようだった。
「あの場面で、しおらしくエッチをねだって、しかもあっさり拒否られてて、死にそうに恥ずかしいっ……ああ、それならいっそ、あのまま、シンジを押し倒しておけばよかった」
耳まで赤くしてアスカは廊下に這いつくばって悶絶している。
「そんな……里のあんな人目に付くところでそんな事したら、それこそ伝説か神話になるよ。僕もそんな情けない被害者役として神話に残りたくない……」
「それでも、あの場で、おあずけされるよりはマシよっ。しかもそれを記憶してるのが……」
「そうだよ、アスカと僕だけなんだから安心して……」
「ううっ……その世界で唯一アタシが好きな相手に記憶されてるのがイヤなのよぉ……」
とアスカは泣き崩れる。シンジは妻の反応に戸惑うばかりだ。
「あの、僕は一体どうすれば……」
「そう、それよ……アンタが今すぐ記憶を喪うか、それが無理なら、アンタにも同じくらい恥ずかしい秘密が出来ればいいのよ」
「はっ」
勘よく察して逃げようとしたシンジの襟首を一瞬早く掴んで、頬を上気させたアスカは寝室へと向かっていく。
「は、離してよっ。まだ
「ふんっ。久しぶりの朝までコース、行くわよ。シンジの分際で生意気にも、このアスカ様におあずけを食らわせるなんて……。傷付けられたプライドは十倍にして返してやるわ。二人だけの、アンタの恥ずかしい秘密も沢山作ってね。覚悟しなさい」
「ちょ、ちょっと……だ、誰か助けて……」
シンジの受難は続く……。