真夜中、開け放たれた寝室の窓から屋根の上に向けられたアスカの声が、山上に鳴り響く。
「こぉらぁ、逃げるな、シンジ!」
「も、もういいよ。もう終わらせて、普通に寝ようよ」
「
けっきょくその夜、アスカは自分の素直な欲望やら気恥ずかしさやらから、シンジをベッドで責め立てたが、シンジが遂に逃げ出した、全裸のまま、屋根の上に飛んで逃亡を図ったのだ。
理論上、ヒトの形を取るシトであるシンジたちは、S2機関搭載のエヴァと同じで無限のスタミナを持つ。一方、当然のことながら、性愛にはメンタル─とりわけ男性側のそれは重要だ。シンジは五回目の
「愛のない、身体だけの繋がりはイヤだ!」
「愛ならここにたっぷりあるわよ!なかんずく、それを示すのは回数よ!新しい体位やプレイへの果敢な挑戦の姿勢よ!」
「避妊具だってなくなったじゃないか!それにもう、アスカの前で恥をかきたくない!ベッドでのヘンな秘密を握られたくもない!」
「……ちっ、ヘタレのガキシンジめ」
アスカは、舌打ちをする。
「可愛がってやるって言ってるのに、男だからとか、妙な見栄ばかり張っちゃって……アタシの前で、今さらカッコつけてんじゃないわよ、ばか」
と小さな声で呟いた。
◆
アスカの声の大半は、子供たちの部屋にも届いていた。シトである彼らは睡眠を取ることはないから、夜は単にめいめいの部屋で静かにしているようにと躾られている時間に過ぎない。
寝床は全員に用意されているが、横になっている者は少ないし、ゴロゴロしている者も一名を除いて、まぶたを閉じていない。その一名はヒトのように寝る(振りをする)のが趣味だという変わり者なのだ。
だからアスカの声も誰の安眠妨害にもならないが、眉をしかめる者はなくもなかった。
「……またやってる。あのエロザル……」
と、こめかみに青筋を浮かべながら、机に向かうのは、アスカとシンジの四女に当たるナガナミという少女である。ひっつめ髪に、赤いフレームの眼鏡をかけた十七八の外見をした少女で、漫画の原稿のコマ割りの作業をしているらしかった。
「ナガナミちゃんのママンへの毒舌は段々辛辣になるねぇ」
と、同室の、とてもよく似た顔の、同じく十七八の外見をした、しかしこちらはギャル系の格好をした少女が苦笑した。ナガナミの双子の妹に当たる五女のタカナミだった。
「だってお父さんが可哀想だと思わないの、タカナミは。あんなのセクハラ……ううん、家庭内性暴力だよ」
「いやまぁ、ママンとパパンにとっては、あれもコミュニケーションの一つの形だと思うけど」
「タカナミはあの淫乱非常識女に甘すぎ。子供の名前もまともに覚えてないとか有り得ないッ……」
ギリギリと奥歯を噛みしめると、手に持つペンにまで思わず力がこもる。
「それでも、ウチらのママンじゃない。ウチはママンの事、好きだけどな」
「アタシはあんなのがお母さんだとは認めてない」
「でも、事実だからなぁ」
「
「……出たねー、ナガナミちゃんお得意のそげぶ。……まんまパクりだけど」
タカナミは、ナガナミほどの漫画やアニメ好きではないが、双子の姉に付き合いで見ているうちに詳しくなってしまっていた。ちなみにオタク的コンテンツの供給元は主に里からの奉納だが、ナガナミが自分で麓の町々に収集に行くことも多い。ナガナミには同人誌の売上げで、この一家には珍しく現金収入があったし、ヒトたちのオタク仲間のネットワークもあった。
「同人作家なんだから、パクり上等よ!現実なんかクソ食らえってーの!」
(その、向こう気の強さは、ママンそっくりだと思うんだけどなぁ)
タカナミは双子の姉の顔を眺めながら、心の中で密かにそう思うのだった。
◆
翌朝一番に、ナガナミは、両親の寝室を訪れた。
アスカにはゆうべの苦情の一つも言ってやり、可哀想な父に慰めの言葉の一つも掛けてやろうと思ったのだ。後ろから、タカナミがニコニコしながら付いて来る。悪い性格ではないが、どうもこの妹は物見高すぎる習性があった。トラブルを期待している節があるのだ。
「二人に話があるんだけど!」
ノックもせず、ナガナミがガラッと両親の部屋の引き戸を開けると、目の前に全裸のアスカが仁王立ちで立っていた。
中学生の少女の体つきではあるが、それなりに膨らむべき所は膨らみ、若草の翳りも生え揃っているのを、ナガナミは見るともなしに見てしまう。全裸であってもいやらしさよりも、透明感のある清楚さが印象的で、喩えるなら、それは白い妖精のようだった。
「……な、な、なんで裸なのよ」
「裸で寝てたから」
突然の肌色襲来に目を白黒させて狼狽するナガナミに、アスカは全く動じていない。
「は、は、裸で寝る必要は、ないでしょ!」
「あるわよ。……お子ちゃまね」
はんと鼻で笑って、アスカは部屋に入ってきた少女を物珍しそうに見やる。少女の方がアスカより年嵩に見えるが、勿論、母親はアスカの方であった。裸で寝る必要はある、という言葉に少女は一瞬言葉を失い、それから慌てて
「と、と、とにかく服を着て!!」
と言った。
すぐに少女が真っ赤になって俯いたので、アスカは、怪訝な顔をしながらも、近くの椅子に掛けておいたプラグスーツを着る。ボタンを押すと、あっという間に身体の線にフィットする。今日のプラグスーツは、白のが洗濯中だったので、昔着ていた赤いプラグスーツだ。
「ほら着たわよ……えっと」
「……ナガナミ、四女の。どうせ名前、覚えてないんでしょ」
目を伏せながら不貞腐れた口調で答えるナガナミがゆっくりと視線を上げると、赤いプラグスーツ姿の母親の姿が目に入った。ナガナミの胸を不意の衝撃が走る。
「しょ、しょ、しょ……」
「しょ??」
「初期バージョンの……弐号機用プラグスーツ!」
「ま、そうだけど?」
「な、な、なぜこんなウルトラレアアイテムがっ!」
「ん?いつものプラグスーツをシンジが洗濯しちゃったから着てるだけよ。本当、アイツは時々考えなしね」
スーツに掴みかからんばかりの少女の熱い視線の意味を計りかねて、アスカは、腕を組み、少女の姿を値踏みする。
「んで、ナガナミ。アタシとシンジに何か用なの?」
アスカは、今から名前を記憶に叩き込むように頭を整理しながら、娘に問い掛ける。
「そ、そうだった。……お父さんはどこなの?」
今はプラグスーツよりも、父シンジの事だ、とナガナミは思い直す。しかし、部屋のどこにもシンジの姿は見えない。彼の学生服やシャツ、白いブリーフが床に几帳面に畳んで置いてあった。
(ぶ、ブリーフなの!?まさか、
しかし、それは今はどうでもいい。服だけがあって父は居ない。一体、どういうことなのか。不吉な予感が脳裏をよぎる。
「だから、何の用なのよ。今いないから、代わりに聞いてあげるわよ」
「アタシは、どこに居るのと聞いてるの。別にアナタに用事を言う必要はないでしょ」
アスカは、その攻撃的な答えに憮然として、無言で人差し指を天井に向ける。
「屋根?」
「そうよ。勝手に探せばいい」
「まさか夜中からずっと上にいるの?」
アスカは黙って頷く。
「どうして降りてこないのよ?まさかお父さんに何かしたんじゃ……」
「服や下着が寝室にあるまま夜が明けたから、単にスッポンポンなのを恥ずかしがって降りてこないだけよ。また暗くなったら降りてくるでしょ」
「……どぉぉして、そういう事をするのよ!」
ナガナミの眦がみるみる吊り上がる。
「シンジが勝手に逃げ出したのよ。アタシは知らないわよ」
「アナタがお父さんを毎晩イジメるから、逃げ出すんでしょ!」
「別にアタシがシンジをどうしようと勝手でしょ。あんたたちに関係ない」
とりわけ両親の寝室の中での事に、子供があれこれ口を差し挟むのは間違っている、というのがアスカの信念だった。
「なんでお父さんは、こんな
「色魔?」
聞き捨てならない台詞に、アスカの眉もピクリと動く。
「そうよ。アナタは、お父さんの身体と優しさを、腕力や誘惑で、いいように搾取している。いかれた色情狂じゃないのッ」
「……ちょっと、自分の母親になんて事を言うのよ」
ナガナミという少女のあからさまな敵意が理解できず、アスカは、いささか持て余し気味だった。
「はっ、母親らしいことなんか何もしてくれたことないくせに。毎日毎日、お父さんに纏わりついて、甘えたり、セックスをねだったりしてるだけじゃない!うちには年頃の娘がたくさんいるのにいい加減、恥ずかしいとは思わないのっ」
「年頃ですって?アンタ、今いったい何歳なのよ」
「に……211歳……だけど……」
「立派な、ババァじゃん」
アスカは、小馬鹿にするような顔で娘を見る。
「し、信じられない!母親が娘を捕まえてババァ呼ばわり!?だったら、お母さんは大お婆ちゃんでしょ!」
と頑なまでにアスカを母親と認めないでいたナガナミの口から、お母さんという言葉が突いて出る。
「アタシは14歳だっつーの」
「うそつき!大体お父さんに再会した時点で28歳のババァだったでしょ!14も年下の男の子を手込めにした、サイテーの色魔でしょ!」
その言葉に、さすがにアスカも思わず手が出た。シトのATフィールドがシトのATフィールドを中和し、鈍い音と共に少女の頬に赤い手形を形づくる。
「な、殴ったわね……」
ショックを受けたのか、その頬にナガナミの透明の涙が伝う。
「いくらなんでも、言い過ぎでしょ。シンジを手込めになんかしてないわよ、アタシだけでなくお父さんへの侮辱でしょ。取り消しなさいよ」
「取り消すもんか……今だって、お父さんに、毎晩無理やり変なことをしてる。大嫌いよ。アナタなんか敷浪アスカ様じゃない。ニセモノだ!」
「しきなみあすか?……いや、それアタシだし。一体全体、何を言ってるのよ」
ナガナミはきっとアスカを睨むと、涙を振り絞りながら、家の外へと駆け出して行った。
「ふぅ。ナガナミちゃんも、ママンも、相変わらずだねぇ」
「あんたは確か……五女のタカナミだっけ?」
タカナミはギャル風の外見だが、気さくな明るい少女で気兼ねなく母親のアスカに話しかけてくるので、名前と顔は何となく覚えていた。
「そそ。ナガナミちゃんの双子の妹。その節は生んでくださって、どーもどーも。母上さま」
と、こちらは至って軽いノリである。
「あのナガナミの剣幕はどういうこと?いい年して、シンちゃん好き好き系のファザコンなの?」
「シンちゃん好き好き系って……」
アスカの碇シンジに関する語彙は時々、一般的センスを超越する。
「何よ、文句でもあるの。シンちゃんはシンちゃんでしょ」
「まあ……ウチら娘たちは概ねそのシンちゃん好き好き系だとは思うけど、それに一番当てはまるのはどうみてもママンの普段の行動では……それに、ナガナミちゃんは、ファザコンというよりも、むしろ……」
と、タカナミは、アスカを指さす。
「ん?……アタシ?」
「そうそう。ナガナミちゃんは一応、ママン大好きっ子なんすよ。ま、ちょっと説明が難しいんだけど」
「そういえば、アタシに様づけしてたわね」
「あ、それはちょっと違うんだな。敷浪・アスカ・ラングレー様……ママンをモデルにしたキャラクターなの」
と、タカナミは、表紙に赤いプラグスーツ姿の少女のイラストを描いた単行本を差し出す。
「マンガ?……《旧世紀エヴァンゲリオン》、ナニコレ?」
アスカは、表紙のタイトルを読み上げる。確かにタカナミが言ったように、表紙には自分をモデルにしたような笑顔の美少女のイラストが描いてある。
「ママンがヒロインの大人気SF漫画だよ。あの子が大ファンなの」
「……なんでそんなものが存在するのよ」
「いや、だって……旧世界たる惑星地球での人類滅亡の危機から、新天地ヴンダーでの再生の物語。血湧き肉踊るSFアクション感動巨編。映画でも小説でもマンガでも人類に一番人気のジャンルに決まってるっしょ」
「………驚いたわね。全く知らなかった」
自分がいつの間にか、映画や漫画のヒロインになっている経験など、そうそうあることではない。
「で、あの子はママンをモデルにしたその作品のヒロインが大好きなのよね。もちろん、パパンをモデルにした伊狩シンジ君もね。あの子はその二人のカップリングが好きなのよ。まあ、ファン用語だとLASって言うんだけどね」
「えるえーえす?」
「ラスとも読むけどね。Lovelove Asuka Shinjiの略なんだって」
「うう゛……何そのこっぱずかしいコトバは……アタシとシンジがラブラブ……そりゃ確かにラブラブだけど……」
アスカは耳まで熱くなるのを感じた。世の中には自分とシンジのラブシーンに注目するファンがいるのだと自覚すると、まるで衆人環視の中、シンジとデートやエッチをしているような気分になってしまう。
「こっぱずかしいって……シンちゃん好き好き系とか言ってる人がそれを言いますか」
とタカナミは笑う。
「……てか、なんで勝手にアタシとシンジをモデルにして、カップリングとか言ってるのよ。完全な肖像権の侵害じゃないのっ!」
アスカが照れを隠すように、ひとしきり声を張り上げると、タカナミは肩をすくめた。
「シトに人権はないらしいよぉ。もちろん印税収入も……」
「ハァ……」
アスカは、ため息をつく。この調子だと、自分をモデルにした美少女フィギュアなどが平然と売られていても、不思議ではない。まあ、シンジとの仲を公開羞恥に晒されている状況に比べれば、最早どうでもいい事だが。
「しかし、ナガナミがアタシをモデルにしたキャラのファンなら、何でまたあんなにアタシへの当たりが強いのよ。色魔とか散々な言われようじゃない」
「だって、マンガ版の敷浪アスカ様─あ、名前の漢字とかが変えてあるんだけどね─は、賢くて、美しくて、清楚で、未来の夫となる運命の少年、伊狩シンジに一途な理想的ヒロインなんだもの。ママンとはちょっと違うかな」
ついでに言うと気高いドイツ貴族の出身で、それでいちいち、様と付けるのがファンの慣例らしい。謎の設定が生えているようだ。
「はぁ?アタシも、賢くて、美しくて、清楚で、シンジに一途でしょ?」
「敷浪アスカ様は、ママンみたいに日常的にエロい事しないのよ。シンジ君にセクハラもしない。いじめたり、からかったりもしない」
「……そいつ、何のためにシンジにつるんでるの?楽しみの半分以上を捨ててるじゃん」
「……やっぱりママンだねぇ。あ、ウチはママンのそういう所が好きだよ」
そういって、タカナミは、漫画の途中のページを開いて、母に見せる。
「ほら、ここなんか、ママンとパパンのラブシーンだよ」
『戻ったら、大人のキスをしよう、アスカ』
『うん……シンジクン。私、ずっと待ってる』
そういって、目をキラキラさせながら、見つめ合う二人が紙面には描かれている。往年の少女漫画系の作品のようだ。
「こんな歯の浮いたような台詞、シンジが自分から言うわけないじゃん。てか、その場でしなさいよ、キスぐらい。待ってて死んだらどうする」
漫画のページをパラパラとめくって、その先も読みながらアスカは、文句を付けて眉を顰めているが、ページを繰る手はなかなか止まらなかった。読みながら、頬が上気していくのをアスカは感じた。なんと言っても、自分とシンジのラブシーンが満載の漫画である。
「と、とりあえずこれは没収するわ。子供が読んでるものにいかがわしいものがないか、母親としてチェックが必要だから」
コホンと咳払いをして、アスカは、漫画を自分の本棚にしまう。
「どうぞどうぞ、お納めください、お代官様。ナガナミちゃんによると布教用の予備らしいからね」
没収についての見え見えのアスカの言い訳に口許を緩め、タカナミは悪乗りする。それから少し真剣な表情になって言った。
「ま、そんなこんなで、あの子は、漫画の中の理想の清楚でお淑やかでお貴族様なママンと、現実の奔放でパパンとエッチしまくりのママンとのギャップに苦しんでいるこじらせ系オタクちゃんなのよ」
「こじらせ系オタク……ねぇ」
「でもママンのキャラクターにはファンとしてすごく拘りがあるから、さっきのオールヌードとか、そのプラグスーツとか、ナガナミちゃんには刺激強くて、たまらなかったんだと思うわ」
先ほどのナガナミの反応に、それである程度納得が行ったが、アスカの心境も複雑だ。
「って、本人ガン無視で、身体や服装だけ好かれてもね……」
「まあ、それがオタクのオタクたる所以というか……あ、ママンはオタクとかダメだった?バカにしちゃう?」
「別に、何を好きだろうとそいつの勝手でしょ。てか、自分の子供をそんな事でバカにする親がいる訳ないでしょ」
「そうだよねぇ。ナガナミちゃんもこういうママンの台詞を聞けば、少しは気持ちが動くと思うんだけどなぁ。ま、ママンも少しはナガナミちゃんのこと、気にかけてあげて」
アスカはずっと、子供たちと距離を置いてきた。それは、シトとヒトの親子関係が余りにも異なるから、というのもあったが、両親のいないアスカにとって、正直、子供たちとの距離感を測りかねたというのも大きかった。
「嫌われてるのなら、別にそれでいい」
「ママンは別に嫌われてる訳じゃないよ?ナガナミちゃんにも、他の子たちにも」
「……自分が子供たちに好かれるような事を何もしてないのはよく分かってるわよ」
(うーん、みんな、ママンにもっと甘えたくて、寂しがってるだけなんだけどな……)
タカナミは、首を捻って、自分より数歳幼く見える我が母親にそっと視線を落とした。
「そうだ、ママン。ナガナミちゃんの描いてる同人誌、ぜひ読んで見てよ。多分、ナガナミちゃんがどんな風にママンとパパンの事を思ってるのか、分かるはずだよ」
そして、その思い付きの素晴らしさに満面の笑みを浮かべるのだった。