よし、と決めてからは迷いなどなかった。
現時点で思いつく方法がいくつかあるのだが、実現させられるものと不可能なもの、現実的に考えると取れる方法は限られてくる。
首を吊るか、高いところから飛び降りるか、部屋にガスを充満させるか、手首を切るか。思いつくのはその程度だった。
家に帰って、リビングで母と妹が倒れているのを見た時、驚くよりも先に、ああ、そうだろうなと納得したのが正直なところだった。
悲しみがなかったわけではない。実の母と妹が息絶えているのである。何も思わないというのは嘘だが、いずれそうなるだろうと以前から思っていた。
父が別の女性と一緒に家を出て行った際、何かが壊れたのだと感じていた。
以前は優しく、笑顔が印象的だった母親が笑わなくなり、事あるごとに叫ぶようになると我が子に怒りをぶつけるようになった。いつしか怒っている顔ばかりが記憶に残るようになっていた。
暴力を振るわれるのも珍しくなくなり、家にいる間は常に怖がっている日々に変わる。父親がいた頃とは何もかもが一変してしまった。母親の料理を食べることも減ってしまって、家事を放棄した彼女はベッドで寝ているか子供を相手に怒りを発散するかのどちらかになったのである。
こんな生活が一生続くはずがない。その終わりを想像することもあって、今まさにその光景が目の前で現実となっていて、だからこそ驚かずに受け止められたのだろう。予想していたおかげで衝撃は皆無だったと言っていい。まさにそうなるだろうと想像していた。
よしと決めたのは、常に心構えがあったからだ。
もしもの時、自らの意思で決着をつけようと考えていた。心積もりがあったおかげで思考はクリアで淀みがない。
深呼吸をして、血の匂いを感じて顔をしかめながらも動き出す。
倒れる二人の傍らに正座をして手を合わせる。
何もしてやれないが、せめて祈る程度はしてやりたい。
後を追うことを決めている以上、警察に連絡するつもりはなかった。時間がかかるし、きっと止められる。追いかけるならば誰の目もない今動くしかない。
目を開いて再び室内の状況を確認した少年は、ため息をついてしばし動かず、思考する。
かつては幸せな家庭だったのだと思う。両親がいて、妹がいて、特別裕福だったわけではないが貧しい思いをした思い出もなくて、幼い頃は昼時になると仕事中の父を除いて三人でおやつを食べる時間が楽しみで、休みの日には家族みんなで遊びに行くことも多かった。
いつから変わってしまったのだろう。もう戻れないと覚悟していたが、決定的な出来事により二度と父には会えない。家を出て行った日を境に恨みもしたし、母の暴力に耐えながら憎く思ったものだが、最後だと思えば不思議と思い出してしまうものだ。
のろのろした動きで立ち上がって、さて、何から始めようかと考える。
服を着替えることさえ意味がないように思う。必要はなさそうだ。
倒れている二人を仰向けにして、最低限の身なりを整えてやり、腹の上で手を組ませる。
触れてみて、体は冷たく、本当に生きていないのだと今更ながらに強く感じた。
少年は母と妹の顔を見つめ、絞り出すように声を出した。
「今まで……ありがとう」
言いたいことや言わなければならないことはもっとあるのではないか。そう思いながらも口は上手く動かない。それが精いっぱいの別れだった。
いつまでも視界にあると動けなくなる。彼は逃げるように浴室へ向かった。
結果的に彼は手首を切ることを決めた。
首吊りは苦しそうだし部屋を汚す。部屋にガスを充満させるのは時間がかかる。何より手首を切るのが一番躊躇わずにやり切れそうだ。
水を溜めて、手首を切り、血が固まらなければ死ねるかもしれない。
浴槽に水を溜めながら、カッターナイフを握りしめる。
やり残したことは多いように思えてならない。しかしもうどうすることもできないだろう。もはや選択の余地は残されていない。
少なくとも彼自身はそう思っていて、迷いはなかった。
制服を着たまま浴槽の中に入り、左手を掲げて、手首にカッターナイフを押し当てる。
恐怖は、ある。やはり一瞬躊躇してしまった。
それでも息を吸い込み、深く吐き出すと、あっという間に意を決する。
刃が肌を切り裂き、血が流れた。
一度や二度では心配であったため、深々と突き刺して何度か傷をつける。
終える頃には腕が震えていた。傷つけた左も、カッターナイフを握る右も、自身が制御できないほどぶるぶる動き続けている。
痛い。後悔するほどの激痛が残った。だからこそ、ここまですれば失敗はないはず。
もはや力も入らない。重くなった腕を下ろして水の中に浸け、脱力して天井を仰ぎ見る。
十七年と少し。短い人生だった。
妹はそれよりも短かった。それだけが心残りだ。こんなことなら彼女を連れて逃げていれば。今更になってそんな後悔を覚える。
今となってはもう遅い。自分が愚かだったのだ。
次に生まれる時は、自分ではない誰かに必要とされる人生を。
できることなら妹だけでも生まれ変わって幸せになってほしいものだが、叶うだろうか。
そう願い、少年はゆっくりと目を閉じた。