大きな樹の下に佇む女性を見た。
当然、人間ではない。人間にしか見えなくてもアンドロイドなのだろう。この世界では人間が居ないことが常識として扱われている。
ボロボロの外見で、無造作に乱れた白銀の髪が背まで届く、美しい女性だった。どこか2Bに似ているとも感じるがなんとなく目つきが違う気がする。
アンドロイドであるからには外見が似ていても不思議ではないかもしれない。同型機か後継機なのかもしれない。それともただの印象の違いだろうか。
不思議に思いながらも歩み寄ったハルタは不安と期待が入り混じった顔をしている。
その姿を見て、A2は言葉を失っていた。
「人間だよ。本物のな」
ハルタの隣に立つアネモネが呟く。
約束を取り付け、案内した張本人である彼女は真剣な顔をしていて、A2から目を離さずにじっと見つめている。アンドロイドとはいえ彼女は近頃、感情表現が豊かになりつつある。以前のように軍人然とした態度ではなく、ハルタから見れば頼れるお姉さんといった雰囲気になっていた。
A2に見せる表情も以前とは違い、彼女を動揺させる大きなきっかけとなったようだ。
突然の事態にA2は混乱している様子だった。
彼女は、脱走兵である。すでにアンドロイドとの繋がりはない。
かつての仲間であるアネモネは唯一残った繋がりだ。それでも以前の連絡が何年も前で、頻繁に無事を確認し合う仲ではない。
「どういう、つもりだ」
「さあ、どういうつもりだろうな……近頃は私も自分がよくわからなくなっている。これが合理的な判断だとは思わない。お前に対して特別な情を感じていたわけでもない、と思う」
A2は視線を逸らしていた。直視できない。そんな態度にも見える。
決してハルタを見ないようにと顔を背けているのだが、問答無用でその場から立ち去ろうという行動も取らなくて、意識は如実に彼を気にしているようだった。
戸惑いがちに語るアネモネは、そんな彼女のぐちゃぐちゃの心境を理解できる気がしていた。
「だがお前に会わせたかったという気持ちは嘘ではない。なぜかはわからないがそうしようと、そうした方がいいと思った」
「余計なお世話だ。私に会って何になる」
「協力してくれないか。有事の際に備えて」
アネモネの発言を聞いてA2は口を閉ざした。
馬鹿馬鹿しい。考えるまでもなく心の中で呟く。
すでに答えは出ているのに、いつものようにそれを即座に伝えることはできなくて、長年整備していないとはいえ自身に起きた重大なエラーを、彼女は自覚していなかった。
そうとは気付かないままアネモネは説明を続ける。
「これから先、ハルタがここに居ることで何が起こるかわからない。月面上のバンカーに連れていかれるかもしれない。機械生命体が何か行動を起こすかもしれない。或いは彼にとってそうした方がいい状況もあるかもしれないが、私たちはまだ、彼と離れたくないと思っているよ」
「それがどうした。私には関係ない」
「お前ももうわかったはずだ。たった一度会っただけで、彼のために動きたいと思う。これは私たちの本能だ。たとえあらかじめプログラムされた感情だったとしても、抗いようがないほど人間のために尽くしたいと考えてしまう」
「私は違う。もうお前たちの仲間じゃない」
「本当にそう思っているか? 万が一の場合に備えたいだけだ。お前の行動を縛ろうなんていうつもりはない。もしもの時に力を貸してもらいたい。ハルタのために」
A2がぐっと唇を噛んだ。横顔を見てハルタがその仕草に気付く。
「どうでもいい。そいつがどうなろうと、どうせ知らない奴だ。私には関係ない」
「そう思い込もうとしているだけではないのか? このまま誰とも関わらずに生きていくのか。そうすることに意義を見出しているのか?」
「やめろ」
「ハルタの存在は何もかもを狂わせる。だからといって脱走した件が許されるとは言わないが、それでもお前の生きる理由には――」
「やめろっ!!」
はっきりとした拒絶の意思でA2が声を大きくした。
アネモネは口を閉ざし、A2は完全に背を向けてしまう。
驚きはしたものの気圧されることなく、ハルタは悲しげな顔でその背をじっと見ていた。
「私には必要ないものだ。どっか行って、このまま忘れてくれ」
アネモネが目を伏せる。もしかしたらと思ったのだが、彼女には心の傷があるだろう。機械の体とはいえこれまで生きてきた経験がある。簡単に変えられないものだってそこに含まれている。
その時アネモネはそっと足を引いてその場を立ち去ろうとした。
彼女を止めたのは他ならぬハルタだった。A2に目を向けて意見を求める。
「あの、少しだけ、話せませんか?」
「ハルタ、だが……」
「少しだけ。嫌なら無理には言いませんけど……」
心配するアネモネを視線で制して、ハルタはA2に時間を求める。
話せばわかってもらえる、などとは思っていない。ただ辛そうに見える彼女をこのまま見送るのはできないと思って、せめて気が済むまで話せればと思っただけだ。
求められていないことはわかっている。その意見を変えてほしいとも思っていない。だが見るからに曇ったその表情を見過ごせなかった。
意図を察したアネモネは口を挟まず、自発的に二人から離れていく。
一対一となった状況で、A2は恐る恐るという様子でちらりと彼の姿を確認した。
「何を話すんだ。私はお前の思う通りになんて動かないぞ」
「それでいいです。なんとなく、A2さんの話が聞きたいって思っただけで」
「……そうか」
「いいですか?」
「別に……少しだけならな」
「ありがとうございます」
そんなことをして何になる。
何もかもを諦めるかのように心の内ではそう思っていた。だが自らが出した答えは明らかに心情とは違うものであり、自分自身の対応に困惑してしまう。
どうやらボディに重大なエラーが発生している。このポンコツめ、と自らの体を恨んだ。
座って話そうと促され、A2は自らが望んでいないのに、木の根元にハルタと二人並んで座った。
「A2さんのことは、アネモネから少しだけ聞きました。昔の仲間なんですよね」
「フン。今は敵だけどな」
「ええっと、脱走したんでしたっけ?」
「まあな。月の連中は信用できない。お前も気をつけた方がいいぞ」
言ってから不意に、何を言っているんだ、と自分の発言を不審に思った。
気をつけろだなんて、彼の安否を心配しているみたいではないか。
そんなはずはない。そもそも興味がないのだから。A2は不機嫌そうな表情を崩さなかった。
「アネモネが会うのは久しぶりだって言ってましたけど、A2さんは何をしてたんですか?」
「何もしてない。歩いて、景色見て、たまに機械ぶっ壊して、その繰り返し。他には何もしてないしするつもりもない」
「それは、楽しいんですかね?」
「楽しくないよ。なんとも思わない。でも他にすることなんてないんだ」
すらすらと口から出ていく言葉に戸惑いを隠しきれない。
何を平然と喋っているのだ。関係ないと自分で言ったのに。
苛立ちを覚えるA2だが語気を強めることもできずに淡々と答えてしまう。きっとハルタは気付いてさえいないのだろう。呑気な顔で話していた。
「じゃあ、たまにでいいんで、話しませんか?」
「……お前と? 何を話すんだよ」
「なんでもいいです。時間があるなら、何か話しましょうよ。万が一とかもしもの時とかは一旦置いといて、他のみんなみたいに」
「私はっ。脱走してるんだよ……他の奴みたいに傍にはいられない」
感情的になりかけたA2が声を落ち着かせて呟く。
ハルタはその様子を見て、ふっと笑った。
「じゃあ俺から会いに行きます。アネモネは認めてくれるだろうし、みんなが何か言っても説得しますから。それなら問題ないでしょ?」
朗らかな笑みで語りかけてくる。あまりにも眩しい。A2の表情は見るからに歪んだ。
「お前バカだろ」
「あぁ、えっと、俺も何か役に立ちたいなって思って。助けてもらってばっかりだし、人間で体は弱いらしいから、できることってほとんどなくて。でも話すだけでもみんな喜んでくれるからそれも役に立ててるのかなって」
「話す、か……」
長らく忘れていた。話す必要なんてなくて、ずっと一人で行動していた。話したところで、などと思うようにもなっている。
本当なら無下に断ったってよかったはずだ。それでもA2は思案し、気付いた時には答えを彼に伝えていた。自分の行動に後から驚いてしまう。
「だったらその喋り方なんとかしろ」
「え? 変、ですか?」
「変に決まってるだろ。他の奴は呼び捨てで私だけさん付けか?」
「あ……それじゃあ、A2」
「フン。さっきより少しはマシかな」
心底嬉しい、という顔ではない。けれどA2は初めて笑みを見せた。
ハルタもようやく安堵した顔になり、次からはもう少し気楽に話せるだろう、彼女の態度にそんな予感を感じていた。
物陰に隠れていた9Sと2Bは顔を出そうとはしなかった。
廃虚の残骸に背を預けて、物言わぬ森を眺めてふとした拍子に口を開く。
「報告はしますか?」
「……最優先の任務はハルタの護衛に設定されている」
「わかりました。危害が加わる様子がないなら、ハルタの意思が優先ですね」
9Sが笑みを浮かべる一方、2Bは表情に何も表していなかった。