着任後、司令官は頑として月面基地へ帰ろうとしなかった。
ハルタを大切に扱っていることは許容できるのだが、問題なのは、母親面のつもりなのかハルタの全ての世話を自らがしようとしていることだった。
「私はハルタのママになったんだ。上から下まで世話をするのは当然だろう?」
実のところ、何を言っているんだ、とさも当然の如く発言する司令官を恐ろしいと思ったのは一人や二人ではない。
常にハルタを抱きしめ、時には抱きかかえ、片時も傍を離れようとしない司令官はこれまでのレジスタンスキャンプの生活においては明らかな異物だ。本人の言によれば、一緒に食事を取ったり眠ったりするのみならず、風呂やトイレにまで一緒に入っているらしい。
ハルタの態度は今まで通りだった。
ただしそれはみんなの前に居る間だけだ。
司令官と二人になると、たくさん甘えなさい、と言われたことがそうさせるのか、これでもかと甘えているのである。それはまるで赤ん坊のように、意図的になのか幼児退行しているのか、どちらかわからないほどに。
基本的には他人の目に触れないようにしているのは、ハルタの気遣いだったのだろう。
ある日のこと、部屋に入った2Bは見てしまった。
ソファに座る司令官が、膝の上にハルタを座らせて、自身の胸に顔を埋めるように抱きしめると穏やかな顔で頭を撫でていたのである。
「フフフ、ハルタ……ママのおっぱいおいしい?」
「んく、んくっ。おいしいよママ」
「そうかそうか。ミルクが出るように改造したんだ。ハルタが満足するまで飲んでいいんだぞ」
どちらの表情も緩んでおり、ハルタは司令官の乳首に吸い付き、喉を潤しているらしい。
比喩ではなく授乳をしているようだ。
行動の意味を悟ることは難しいが、現状を把握することだけは可能。偶然目撃してしまった2Bは司令官がハルタにミルクを飲ませているのだと理解する。
「おわっ⁉ トゥ、2B! 来てたんなら声かけてくれればいいのに……」
「ハルタ、もうおっぱいはいいのか? もっとちゅーちゅーしてもいいんだぞ」
「あ、ありがとう、えっと……ママ。でも今はもう大丈夫だから」
「どうしてだ。まだちょっとしか飲んでいないだろう。ママはハルタが飲んでくれないと寂しい」
はて、司令官は前からこうだっただろうか。
2Bは考える。司令官が前と比べて何かが違っている気がして、それは彼女を知る誰の目にも明らかだったのだが、上手く説明できないでいるのも確か。
少なくともハルタがそこに居るからだということだけははっきりしていた。
「司令官。ここに居ていいのですか?」
「うん? ああ、バンカーのことか。問題ない。ここに滞在するために諸々の変更や指揮系統の整備は対処してあるさ。といっても一時的なものだが……流石にこのままではまずい。いずれ、一度戻らなければならないだろうな」
司令官は2Bに返事をする時だけは以前の態度に戻る。冷静で聡明、優しさを感じさせ、力強く頼り甲斐がある一方でどこか儚さを感じさせるような。
その直後、ハルタの頬にちゅっとキスを落とす頃にはすでに別の顔になっている。まるでハルタしか見えていないかのような緩んだ表情に、2Bは静かに押し黙った。
「しかしハルタを置いていくなんて私にはとてもできそうにない。あぁ、司令官という立場すら今では恨めしい。ハルタもママが居なくなると寂しいだろう?」
「う、うん。でも大丈夫だよ。みんな優しくしてくれるし、何も困ったことなんてないし」
「うぅ、悲しいことを言うな。ママはもうハルタから1分1秒0.1秒さえ離れたくないよ」
「大袈裟だなぁ。僕はどこにも行かないからいつだって会えるじゃない」
「いつでも会えるじゃ足りないんだ。いつでも一緒に居たいんだ」
司令官はハルタの唇にキスをして、初めは触れるだけだったがやがて舌を差し出した。
はて、母と息子はあんなキスをするのだろうか。
何も言わなかったとはいえ、2Bはその光景に何も思わないわけではなかった。
「ん、ちゅっ……ハルタ、おちんちんの方はどうだ? ぴゅっぴゅしたくないか?」
「あ、いや、今は大丈夫。ありがとう」
「おっぱいは? もうミルクはいらないの?」
「えーっと、うん、またあとで」
「フフ、そうか、恥ずかしがってるんだな? かわいい子だ。気にしなくていいのに」
司令官はひどく嬉しそうだ。或いは幸せそうだとでも言うのだろうか。
そんな身体機能を用意していないものの、人間であれば頬を赤くしていたかもしれない。表情が緩んだ笑顔になり、愛おしそうにハルタを見つめている。
それは恋なのか愛なのか。二つに大きな違いはあるのか。その二つしかあり得ないのか。
なぜだか2Bはそんなことを考えていた。
「ハルタは、ママに甘えるのが好きなの? 私もママと呼ぶ?」
「えっ⁉ いや、そういうわけじゃ……」
「それはダメだ2B。ハルタのママは私なんだ。せめてお姉ちゃんにしておきなさい」
「そういうわけでもなくて……!」
「了解。お姉ちゃんと呼ぶ?」
「よば、ないかなぁ? 2Bのことは2Bって呼びたいんだ。その、愛着もあるしね」
「そう……わかった」
淡々としているが一応納得してくれたようだ。
どういう状況なのかは彼にもわからないとはいえ、ハルタはほっと安堵する。
いつしか、ハルタ自身もまたアンドロイドが求める“人間”であろうと考えるようになり、多くの判断は彼らを気遣った結果になっている。
好きなだけ甘えてくれ、と言われたら好きなだけ甘えて。
体を重ねてくれ、と甘えられれば拒まずに受け入れて。
ママと呼んでくれ、と頼まれたらママと呼ぶ。
ハルタはアンドロイドが望む、アンドロイドにとって好ましい人間であろうとしていた。
2Bは他のアンドロイドに比べて表情の変化が乏しく、自己主張が少ない。
以前に比べれば、時折部屋を訪れてセックスする間柄とはいえ、深夜の二人きりの密会、それを除けば常に護衛としての立場を守ろうとしているかのように見えた。
その一方、ハルタと他のアンドロイドの関係を気にしているようにも見える。
無言で見つめてくる2Bが居るため、ハルタはいつものように甘えてこない。
それでも司令官はにこやかに微笑み、満足そうに彼の頭を撫でていた。
そうした雰囲気の中へ、9Sが入ってくる。
「失礼します。司令官、少しよろしいでしょうか」
「ああ。構わない」
ハルタに対して友達のように話しかけるのではなく、自らの立場を弁え、一人の兵士として司令官へ話しかける。
9Sの態度を見ると何かあったのかもしれないと思った。
その一方、司令官は答える声こそ普段と変わらず凛としているものの、片手は楽しそうにハルタの顎を撫でているところだった。
「実は、こういうことを言うのは心苦しいのですが」
「構わない。任務はハルタの安全を第一に考えている。気になることはなんでも言ってくれ」
「では……司令官がこちらに来られてからというもの、レジスタンスキャンプから不満の声が出てきていまして」
「ほう」
「司令官がハルタを独占し過ぎではないかと」
きりりとした顔で9Sを見ていた司令官は、その報告を聞いても顔色を変えなかった。
真剣な表情のまま、ハルタの頬を撫でながら答える。
「私はハルタのママだからいいんだ」
「司令官……! ハルタは人間ですし、血縁関係はありません。あなたが疑似的な母親になることを否定はしませんが、だからといってキャンプ全体から不満が上がるほど独占するのは」
「考えてみれば私は、この時のために司令官になったのかもしれない」
「いえ、絶対違うと思います」
はて、司令官はこんな性格だっただろうか。
発言のアホさが気になって、2Bだけでなく9Sもそう思う。
ハッキリと不満を伝えられても司令官はハルタを離すつもりがなく、ぎゅっと抱きしめながら不満そうに9Sを見つめていた。おそらく、離さないぞ、とでも言いたいのだろう。
「それにバンカーからの連絡も止まりません。いい加減戻ってきてください、と」
「今私が戻ったらハルタが悲しむ」
「大丈夫です。悲しませないように僕らが傍に居ますから。さあ、早く」
見るからに表情が変わっている。困り眉になり、嫌そうな表情で、まるで現実逃避をするかのようにハルタの首筋へちゅううと吸い付いた。
見たくはなかった姿だ。司令官が壊れたとさえ思ってしまう。
「バグか何かに侵されていますか?」
「いや、これはハルタへの愛だ。彼の愛おしさが私を狂わせる」
「……そうですか。その愛は否定しませんが、あなたは我々ヨルハ部隊のトップなんです。あなたが居ないとバンカーのみんなが困るんですよ」
「むぅ……どうしてもか?」
「どうしてもです。それにここ最近は僕もハルタと一緒に遊べていません」
「まったく、先に出会っているだけでもずるいというのに……ふう。仕方ないな」
ようやく観念した様子で、それでもハルタの顔にキスの雨を降らせてからだが、やっと司令官がハルタから離れた。
明らかに納得していない、というより名残惜しそうにしているものの、ひとまず自分の役目を果たしてくれるようだ。
離れ際に彼と手を繋ぎ、穏やかな微笑を湛えて優しく声をかける。
「一時の別れだ、ハルタ。私はお前たちを守らなければならない。仕事をする必要がある。次にここへ来た時、また一緒に暮らせるように万事を済ませてくるよ」
「うん。待ってるよママ」
「あぁ~戻りたくない。ここに居たい。ハルタをぺろぺろして生きたい」
「司令官」
「わかっている。ちゃんと戻るさ」
「じゃあ見送りに行くよ。せめてそこまで」
ハルタが言った途端に司令官が彼をぎゅうっと抱きしめた。
愛おしいと思ったからであり、やっぱり離れるのが嫌だと思ったからでもある。
2Bと9Sは無言でその光景を見守っていたが、敢えて多くを言わないだけで、呆れているのは間違いなかった。
「すごいですね、ハルタは。あの司令官をここまで狂わせてしまうなんて」
9Sが苦笑して呟くものの、2Bは無言を貫いて返事をしない。
「ハルタは僕たちアンドロイドが存在する理由でもありますけど、こうして見ていると、こんなこと言うのは不謹慎ですが、僕らアンドロイドの天敵とも言えるかもしれませんね」
「天敵……そうね」
そこにハルタが居るだけでアンドロイドたちはいとも容易く変化していく。
9Sは以前にも増して明るくなり、彼と過ごす時間を楽しんでいた。
デボルポポルは笑顔を見せることが増え、暇さえあればハルタを構う。
凛としていたアネモネですら、彼の前に立つと嘘のように緩んだ笑顔になってしまう。
そして2Bは、そうした変化を見ていたからこそ、自分にはないものだと認識していた。
自分は今まで通り任務に従事するのみ。
少なくとも彼女自身はそう強く思っていた。