―達也―
窓の外を眺めると、暮れかかる街並みが静かに流れている。
向かっているのは、都会の中心部にある某高級タワーマンション。いよいよ初めての種付けの日だ。
ちなみに今日の日付は7月29日。当初は種付けデビューは8月の予定だったけど、相手女性の排卵予測日の関係でこの日に前倒しとなった。種付けの日取りは女性の排卵予測日によって前後する、それをしょっぱなから見せ付けられた形だ。
「本日これから達也さまが種付けする女性のお名前は村岡亜美さん。年齢は32歳、独身の方です」
隣の運転席でハンドルを握る未華子ちゃんが、種付け相手のプロフィール等を教えてくれる。亜美さんは現在交際相手がおらず、もちろん結婚の予定も無い。でも子どもが欲しいという夢をどうしても叶えたいと、今回思い切ってHFPに相談を依頼、玲奈さんとの話し合いを重ねた末に、種付けを受ける事を決意するに到った、と。
「つまりはシングルマザーをご希望されている女性です」
未華子ちゃんが続ける。最初からシングルマザーとして、パートナーを持たないという選択肢を希望する女性がこの所とても増加している、と。
多様性、という言葉がよく言われる時代だ。どんな人生を選ぼうが個人の自由だとは思う。
でも、それでもやっぱりこう思わずにはいられなくて。
「32歳ってまだまだ若いから、そんな大きな決断をするには早い気もするんだけどなあ」
「そうとも言えません」
未華子ちゃんは俺の言葉を軽く否定して。
「仮に亜美さんが決断をあと3年遅らせたとすると、種付けから出産までスムーズに進んだとしてもお子さんが大学を卒業して自立する頃には、亜美さんの年齢はもう60歳手前です。シングルマザーで収入も安定しない中、還暦手前まで女性一人の力で子どもを育てるのは並大抵の事ではありません」
「なるほど」
確かにそうだよな、と思う。子育てにはお金がかかるし、国の子育て支援も十分とは言い難い。厳しい現実だ。
「それにもし何も手を打たなければ、未婚で交際相手のいない32歳の女性が死ぬまでに1人以上の子どもを授かれる可能性はわずか3割強です」
「そんなに低いの?」
「女性の妊娠能力は20歳頃をピークとして徐々に低下していき、そのペースは30代の中頃から顕著になります。32歳という年齢は、出産を考えた場合には決して早すぎる事はありません」
「はあ…そうなんだ…」
「というか、先日お渡しした種付けマニュアルにも詳しく書いてあったと思いますが」
「うん、そこはまだ読んでなかったな」
そう言うと未華子ちゃんは小さくため息をついて。
「達也さまが種無しだったら良かったのにとずっと思ってます」
「良くない」
…ったく、無理やりスカウトして精液検査まで強制しときながら何を縁起でもない事言ってやがるんだ。
「でも、達也さまのような男性の方が種付けには向いてるかもしれません」
「どういう意味だよ?」
そう聞くと、未華子ちゃんは間髪置かずに。
「人間的に軽い感じ」
「おい!」
俺のような重厚で落ち着いた男に何と失礼な。
「良く言うと物怖じしないというか、堂々としているのは種付け向きだと思います。現に今も、初めての種付けを目前に控えて緊張してる様子は全く無いみたいですし」
「ま、緊張しても仕方ないからな」
なるようになる、というかなるようにしかならない、それは俺の哲学みたいなものだ。もっと言えば、物事の結果はその前段階、つまり準備の段階で全て決まってるぐらいに思っている。
まあ、精液検査の結果見る時はめちゃくちゃ緊張したけどさ…
「その点、達也様の前任者なんて本当に最低でしたから」
「そういえば、前任者ってどんな奴だったんだ?」
気になったから聞いてみると。
「前任者は達也さまと違って、成績優秀なエリート学生でしたよ。IQは150台でした」
「あっそ」
ちょっと気分が悪くなった。やっぱ聞くんじゃなかったぜ…
「ところが彼は女性に全く免疫が無い、言わば真性の童貞だったんです。単純に女性経験が無いだけでなく、女性を目の前にしただけで緊張して声も出なくなるという、救いようのない精神的インポ野郎でした」
「な、なるほど…」
「風俗にも通わせて色々と手ほどきしたんですけど結局ダメで、本番では女性にとんでもない粗相をしやがりました。今思い出しても本当に腹が立ってきます」
「そ、そうなんだ…」
…前からちょっと思ってたけど。
未華子ちゃんって、可愛い顔して所々口が悪いんだよな…
未華子ちゃんの口から放たれる前任者への愚痴は、それからしばらく止まらなかった。
………………………………………
「ふう…」
心を落ち着けるべく、ひとつ深呼吸をしてみる。ゆっくりと酸素を取り込んで、同じようにゆっくりと吐き出す。
もうすぐこの部屋に、亜美さんという女性がやって来る。俺に、種を付けてもらうために。
亜美さんのプロフィールは未華子ちゃんからしっかりと教えてもらった。幼い頃から道を踏み外すことなく、有名な大学を卒業し、今もきちんとした会社に勤めているという。何の傷もない綺麗なプロフィールだなと思った。堅実な人生を歩んでこられたんだろうなと思った。顔写真を見せてもらって、その思いはより確信めいたものになった。真面目さが滲み出たような、いかにも実直そうな人だという印象だった。
でも、思う。そんな堅実な人生を歩んでこられた人が、なぜ種付けを受けるという決断を下さなければならなかったのだろうか、と。
いくら多様性が叫ばれる時代とはいえ、見ず知らずの赤の他人から種付けを受けるなんて決して『正常』な道ではない…とやっぱり思う。亜美さんだってきっと本意じゃないだろう。本心ではもっと別の道を望んでいたに違いない。
一体亜美さんは、どこで道を間違えたんだろう。それとも、正しい道を歩み続けた結果として今日があるのだろうか…
玲奈さんは言う。これからは家族の形は多様化していくと。シングルマザーは増え、種付けは特別なものではなくなっていくと。
分からない。俺にはそれが正しい事なのかどうかなんて分からない。正しいか正しくないかという基準で捉えるべきなのかすら分からない。
だから俺がやるべき事は、自分に託された役割をしっかりとこなすだけ。倫理的にどうとか道徳的にどうとか、そういう難しい事は玲奈さんのような賢い人に考えてもらうとして。
もっと端的に言うと、前任者のように女性を前にしてモノが勃たないようなみっともない姿だけは晒さないよう、心を整えるだけ…
そして、ついに。
――コン、コン
ドアがノックされる音が、静かな部屋に小さく響いた。
注:未華子ちゃんが言った「未婚で交際相手のいない32歳の女性が死ぬまでに1人以上の子どもを授かれる可能性は3割強」というのは正確な数字ではなく、あくまで物語の中の設定です。