リングの上では、達也が両手で腹部を押さえながら苦しそうに呻いている。
静まり返る客席。皆、悪夢を見ている気持ちだった。憎き韓国人を叩きのめすという使命を託した若き侍が無惨にも返り討ちに遭った現実を目の当たりにし、狼狽していた。瞬間、日本中が絶望に包まれたと言っても過言ではなかった。
しかし、たった1人だけ。
日本人と韓国人の決闘を公平な立場で裁くために招聘されたアメリカ人のレフェリーだけが、その瞬間に起こった真実を冷静に把握していた。
その証拠に、待てど暮らせどレフェリーはカウントを開始しようとしなかった。それどころかおもむろにジャッジ席の方へ歩み寄ったかと思うと、英語で何かの指示を出す。
すると少しして、会場に設置された巨大なスクリーンに、十数秒前の映像がスローモーションで映し出された。
達也のハイキックが空を切る。直後、パクの右フックが達也の顔面を捉える。疑いようのないクリーンヒットに達也の顔が大きくのけぞり、咄嗟に顔をガードする。
そして、パクが続けざまに左ボディを突き刺したシーンが流れた瞬間…会場に大きなどよめきが起こった。
パクの左が直撃していたのは達也のボディではなく、下腹部…股間。
そう、達也を悶絶させた一撃はボディへの有効打ではなく、明確なローブローだったのだ。
直後、場内はブーイングに変わった。ブーイングと言うより、怒号と言った方が正しいかもしれない。異様な空気がリングを包む。
パクは両手を広げて、わざとではないとアピールする。事実、パクの一撃が反則打となってしまったのは故意ではなく、達也の足の長さが原因だった。もし達也が通常の日本人のスタイルなら、パクの一撃はボディを深々と抉っていただろう。だが達也の足はモデル顔負けの長さを誇る。なのでパクが感覚的にボディの高さを狙って放った一撃は、達也のボディの遥か下…股間を直撃してしまったのだった。
しかし、ローブローの反則においては、故意であったかどうかなどさしたる問題ではない。パクの一撃が疑いようのない反則打である事は映像が証明していた。
レフェリーが規定通り、パクに減点1を与えた。それを見て、会場はまた大歓声に包まれる。
かくして、達也は日本人離れした自らの長い足に救われる形になった…いや、冷静に考えると、救われたと言えるかどうかは微妙な所だった。というのも、ダウンは免れたが体に残るダメージという意味では、ボディを食らっていた方がずっとマシだったからだ。
下腹部に受けたダメージの回復のために5分間のインターバルが設けられる旨がアナウンスされ、また会場がどよめいた。セコンドの晴香の肩を借りるようにして、よろよろと達也がコーナーへと戻る。
パクを反則負けにしろ、そんな怒声が客席から飛んだ。怒り狂った観客がリング上になだれ込んでくるのではと思わせるくらいに、場内は騒然としていた。
そんな中、コーナー際で長い足をだらりと伸ばして座りながら、股間に受けたダメージの回復を図る達也の心境はというと…
一言で言えば、めちゃくちゃ痛かった。21年弱の人生の中で、間違いなく一番の激痛だった。それも断トツで。
加えて、インターバルがたった5分という事も全く納得できていなかった。何で5分しかねーんだよ!それっぽっちで回復する訳ねーだろ!と。現に1分経っても、2分経っても、3分経っても、4分経っても痛みは全く引かなかった。
そして、あっという間に5分が経過してしまった。達也にとっては人生で最も短い5分間だった。言うまでもなく、股間は死にそうなほどに痛いままで。
レフェリーが試合続行可能かどうかを達也に確認する。達也の本音としては、首を横に振ってノーコンテストで試合を終えたかった。今すぐ病院に駆け込んで、優秀な女医さんに男性器の状態を診てもらいたかった。ちゃんと精子が濃いままかどうか確認してもらいたかった。
でも、しかしである。
激痛よりも何よりも、達也の中にはある感情が激しく渦巻いていた。
それは…怒り。ハッキリ言うと、心の中ではブチギレていた。
男の大事な部分を、それこそ命と同じくらい大事な部分を本気でぶん殴りやがったあのクソ韓国人を、マジでぶっ殺してやらなきゃ気が済まねえ!!!と。
だから、達也の答えは一つしかなくて。
「だ、大丈夫です…やれ…ます…」
ゆっくりと立ち上がる。体勢を変えた瞬間にまた違う種類の激痛が走ったけど、表情には極力出さないようにして。
「ほ、本当に大丈夫なの…?」
晴香が心配そうに尋ねる。達也は少しばかり顔を引きつらせながら。
「ぜ、全然問題無いっすよ…俺は股間もしっかり鍛えてますからっ…」
と、不意に出てしまった下ネタ発言には晴香も目を丸くするしかなかったが。
とにもかくにも、試合再開がアナウンスされて。
会場が、今日一番の大歓声に包まれる…!
とはいえ、状況的には大ピンチだった。怒りに任せて試合を再開させてしまったが股間はいまだ激痛、まともにフットワークを使えないどころか、立っているだけでも脂汗が噴き出てくるのだから。
しかし、そんな達也の事情などパクには関係なし。紳士的な選手なら反則でダメージを与えてしまった直後は攻撃を控えがちになるものだが、この韓国人がそんな美徳を持っている訳もない。ここがチャンスとばかり、パクは一気に勝負に出た。
「くっ…」
再開直後の猛攻をバックステップで避けようとする達也…が、まともに足を動かせず全くかわしきれない。押し込まれるように、あっという間にコーナーへと詰められる。
達也の背中に、コーナーポストの冷たい感触が伝わる。試合再開から10秒も経っていないのに、早くも背水の陣だ。
この時点で、達也に取りうる選択肢は2つだった。すなわちクリンチに逃げるか、肚を決めて打ち合うか。
おそらくは、クリンチに逃げるのが最善の選択だっただろう。コーナーやロープ際に詰められた際の常套手段、そもそも股間に激痛を抱えながらまともに戦うという事自体が自殺行為だ。ダメージの回復を図りつつ勝負を先延ばしして、でもやっぱり回復しないなら試合を諦めてノーコンテストに逃げるという選択肢もある。セコンドの晴香も大声でクリンチを指示していた。
だが達也は、本能的にクリンチを拒否した。その理由は、いかにも達也らしくて。
このムカつく野郎に抱き着くようなみっともない行為だけは絶対にしたくない…と。
ならば…ここはもう勝負しかない…!
――ドンッ!ドンッ!ダンッ!!
コーナーを背にしたまま、達也はパクを迎え撃った。堰を切ったように、激しい打ち合いが展開される。
客席の歓声はさらに沸き立った。もちろんその全てが、達也を後押しする声援だ。だが達也にしてみれば、一歩間違えれば即奈落の底へ落ちかねない危険な賭けだった。パクの攻撃は大振りだがその分一発一発が重く、まともに顔面を捉えられればその瞬間に試合が決してもおかしくなかった。
だが、そんな極限の状況にあっても。やっぱり達也は達也で。
パクのパンチをかわし、あるいはガードしながら、自らのパンチは的確に当てる。意識ではなく本能で相手の攻撃をかわし、隙を見つけ出してパンチを打ち込む。超接近戦の中で技術よりも勘を頼りに打ち合いを優位に進めるその姿は、まさに打撃の天才・小野達也の真骨頂だった。
すると、最初はパクの方が多かった筈の手数が、徐々に逆転していく。打ち合いが30秒も続いた頃には、打ち疲れたパクを押し返すようにしてついに達也はコーナー際を脱した。
そして、リングのほぼ中央までパクを押し返した時…
――ドンッ!!
達也のショートフックがパクの顔面を捉え、たまらずパクの顔が下がった。それを狙ったように今度は達也のショートアッパーが顔面に決まり、ついにパクが片膝をついた。
逆転のダウンに観客のボルテージが頂点に達する。もはやレフェリーのカウントすら全く聞こえない。最高潮の熱狂だ。
パクがゆっくりと立ち上がる。しかしその刹那、頭の位置がわずかに揺れた。明らかにダメージが残っている証拠だった。
それを見て取った達也は、試合が再開するや否やラッシュを仕掛けた。1ラウンド終了までまだ1分近く残っている。股間の激痛が治まりそうにないこの状況で訪れたチャンスを逃す訳にはいかないと言わんばかりに、痛みを怒りのパワーに変えて、一気に勝負に出る。
勢いを増した達也の圧力に押されるように、パクがズルズルと後退する。そしてあっという間にコーナーポストを背にした。
つい数十秒前とは真逆の体勢で、達也の猛攻が始まった。右、左、右、左、右…容赦のない連打がパクの顔面に、ボディに突き刺さる。
だがパクにも金メダリストの意地がある。絶体絶命の状況に追い込まれながらも、致命傷となる一撃を避けるべく顔面をガードしながら、クリンチに逃れようと必死に密着を試みる。
もちろん達也としてはクリンチを許している暇などない。体を預けようとするパクを強引にコーナーへと突き返し、またパンチの雨を見舞う。
(抱き着いてくんなってんだよっ…!)
文字通り、猛攻だった。パクは必死に防御を試みるが達也の攻撃を全て受け止めきれる筈もなく、ガードの隙間にボディにと重いパンチが刺さり続ける。その姿は、まるでコーナー際に置かれたサンドバッグだった。
普段の達也なら、この辺りで攻撃を緩めたかもしれない。だがこの時の達也は、完全にプッツンしていた。大事な大事なムスコに強烈な一撃を食らわされた怒りは、この程度の反撃では収まらなかった。やられたらやり返す、100倍返し…いや1000倍返しだ!とでも言うように、我を忘れたような猛打をパクの体に見舞い続ける。
そうして殴り続けるうちに、ついにパクのガードが下がり始めて…
――グシャッッッッ!!!!!
鈍い音が響く。それは達也の右ストレートがパクの顔面を捉えた衝撃音だった。パクの後頭部がドスンとコーナーポストに打ち付けられる。
その瞬間、パクは意識を失った。口が開き、瞳がぐるんと上を向いて白目になる。
だが達也の怒りは、それでもなお収まらなかった。コーナーポストに打ち付けられて跳ね返ってきた顔面、その喉元を左手で捕まえて。
(おらっ、これで楽にしてやるぜっ…!!)
顔面のど真ん中を狙って渾身の右ストレートを叩き込む…!
「ストーーーップッッッッ!!!!」
その瞬間、レフェリーが達也に体当たりするようにしながら試合の終了を告げた。お見舞いするつもりだった全力の右ストレートが、わずかに逸れて空を切る。
パクの体が、ドサリとリングに崩れ落ちる。そしてそのまま、ぴくりとも動かなくなった。
試合時間、2分52秒。会場は興奮のるつぼに包まれた。