「えっ、私ですかっ!?」
晴香から話を聞かされた香菜が、戸惑った表情を見せる。
「達也くん直々のご指名なの。嫌だったかしら?」
「別に嫌ではないですけど…でも、どうして私が…?」
「それはやっぱり香菜ちゃんが達也くんのタイプなんじゃない?」
「へ、変な事言わないで下さいよっ…!」
「とにかく、今のFAILYは達也くんあってこそなの。香菜ちゃん、我がジムのエースのために力を貸してくれないかしら?」
「わ、分かりました。頑張りますっ…!」
と、達也に寝技を教える事になったこの人物の名前は森香菜。まだ17歳の女子高生ファイターである。柔道をバックボーンとし、中学時代には全国大会で優勝するなどの素晴らしい実績を残したが、高校入学後まもなくFAILYに入門しプロ格闘家へと転向。これまでグラップリングルール(打撃禁止、寝技と関節技のみの試合)と総合格闘技ルールでの試合を合わせて7戦し5勝1敗1分けと、FAILYの中でも今最も期待されている若手女子選手だった。
金田の実力をしっかりと認識した達也だったが、全く尻込みなどしていなかった。それどころかむしろ、絶対に金田をぶっ倒してやると気合いに燃えていた。そうなると寝技の練習を避けては通れない。幸いFAILYには総合格闘技をメインに戦っている選手が多く在籍している。金田との試合を受けるかどうかは保留しつつも、大晦日の決戦を見据えて寝技の訓練を開始する事にしたのだ。
ではなぜ達也が男子選手ではなく実力的に劣る女子選手の香菜に寝技のレッスンをお願いしたのか、それは端的に言うと…「達也くんのタイプなんじゃない?」という晴香のジョークがそこまで外れてもいなかったりする。まあ、タイプというのはちと言い過ぎだが、達也としては「男子選手と寝技の練習なんて耐えられない」というのが本音だった。当然ながら寝技の練習は相手と密着する事になる。濃厚接触を避けて通れないトレーニングを男子選手と…そう考えただけで達也は蕁麻疹が出そうな気分になるのだった。寝技の練習は女子選手としか有り得ない。ならばせっかくなら、可愛い後輩の香菜ちゃんにお願いしよう。それに香菜ちゃんなら基礎から手取り足取り優しく教えてくれるだろう、と。
最初は驚いた香菜だったが、ジムの先輩である達也からの申し出を断る訳もないのは当然だった。というか実際の所は、香菜に拒否権は無かった。何せ今や、達也はFAILYの大エースにして大黒柱。FAILYにもたらされるファイトマネーの大半は達也が稼ぎ出してくるものであり、ジムとしても達也の活躍を最優先に考えた『達也シフト』を敷いているのだから。
「よ、よろしくお願いしますっ」
練習を始めるにあたって、香菜はガッチガチに緊張していた。同じジムに属しているとはいえ男子キックボクシング選手の達也と女子総合格闘技選手の香菜ではトレーニングメニューも全く異なり、交流の機会はほとんどない。現に香菜が達也と面を向かって話すのは、これが初めてだった。
「よろしくお願いします。というか、何でそんなに緊張してるんですか?」
「そ、それは、達也さんはFAILYの大エースですから…って何で達也さんが敬語なんですかっ…!」
「そりゃ、今回は自分が教わる立場ですから。パシリでも何でもしますんで、ビシビシ教えて下さい!」
「ぱ、パシリなんてさせないですよぅ…」
この時、香菜は自分がコーチ役に指名された事を驚きつつも、内心ではめちゃくちゃ喜んでいた。というのも、達也の爽やかなルックスこそ実は香菜のドストライクだったのである。強くてカッコいい憧れの先輩、それが香菜にとっての達也だった。まさか私が達也さんに寝技を教える事になるなんて…これがきっかけで別の意味での寝技を教えてもらう事になったらどうしよう…そんな事も頭をよぎったとかよぎっていないとか…
………………………………………
「じゃあ、まずは柔道形式で寝技の実戦をやってみましょうか」
練習が始まる。まず香菜が指示したのは、柔道の寝技による実戦練習だった。お互いに背中を合わせて座った状態から始まり、相手の上になって背中を一定時間床に付ければ勝ちという形式だ。
達也の柔道経験は、中学生の時の体育の授業以来だ。当然、その時に教わった事などほとんど覚えていない。つまり寝技の経験も知識も全くのゼロだった。
しかし達也は、もしかしたら香菜を抑え込めてしまうかもしれないと密かに思っていた。というか普通に抑え込めるんじゃね?とすら思っていた。何かの間違いがあって抑え込まれても、楽に跳ね除けられるだろうとも思っていた。何せ達也と香菜では体重が全然違うし、パワーの差に到っては大人と子どもぐらい違うと言っても過言ではない。技術や知識が無くても、力づくで強引に押し倒せるだろう、ぐらいに思っていたのだ。
ところが実際やってみると……全くダメだった。
香菜のグラウンドでの素早い身のこなしに、達也は全くついていけなかった。そして一度上に乗られたら最後、首元を固定され体の重心となる部分を抑えられほとんど身動き不可能。香菜を跳ねのけたり体の位置を逆転させたりする事なんて夢のまた夢状態だった。
何度やっても香菜が達也の上になった。回数を重ねると達也が上になりそうなシーンもたまには訪れるのだが、香菜の巧みな動きに翻弄されるように結局は達也が下になる。パワーの差は歴然なのだが、テクニックの差はそれ以上に歴然だった。
そんな状態が続くうちに香菜も気持ち良くなってきて、最初は封印していた関節技や締め技も少しずつ見せるようになっていった。下になった状態から何とか脱出しようともがく達也の腕を取り、あるいは首がガラ空きになった所を狙って締め技を入れた。ヘタな抵抗は逆に致命的なピンチを招くだけという事を教える厳しいレッスンに、達也は香菜の体に力無くタップを繰り返すしかなかった。
完敗だった。自身の考えは甘かったという事を、達也は年下の女の子にみっちりと教えられたのだった。