その日の練習終わり、達也と香菜はとあるファミレスに来ていた。
思いがけない食事の誘いに香菜は内心ドキドキしながらOKしたが、達也は単にこの日の特訓についてまだまだ聞き足りない事があっただけだった。まあ、下心があるなら誘うにしてもファミレスは選ばないだろう。達也に下心が全く無い事が徐々に分かって香菜は内心ガッカリだったが、とはいえ改めて達也に尊敬の念を抱いたのも事実だった。今日教えたばかりの事を深く掘り下げて聞いてくる達也の姿に、やっぱり強くなる人は違うんだなあ…と。
「いや、ありがとう。ホントに勉強になったよ」
疑問点を一通り聞き終えて、達也が改めてお礼を言う。そして「はあ…」と小さく息をついた。
その様子を見て香菜は、ちょっと調子に乗ってシゴき過ぎちゃったかな…と小さな罪悪感を抱きつつ。
「その、今日はすみません。達也さんは寝技初めてなのに、ちょっと厳しくしすぎたかもしれません」
「いや、こっちからお願いした事だから」
そう口にする達也の表情からは、ハッキリと自信が失われているように見えた。無理もない、まだ未成年の女の子にいいように痛めつけられタップを繰り返したのだから。
「で、でも、達也さんはセンスありますよ。寝技未経験とは全く思えなかったです」
「いや、フォローしてくれなくてもいいよ。今日は俺、ホントに身の程を知った」
「そ、そんな事ないですって。私はずっと柔道とかグラップリングとかやってきましたから…単に経験の差ですよ」
香菜の言葉は半分は達也へのフォローなのだが、半分は本心だった。実際、達也の寝技センスはかなりのもので、とても未経験者とは思えなかった。だからこそ香菜もつい本気になって必要以上に達也をいじめてしまった、という面は多分にあったのである。
「それにしても、こんなにボロボロにされたのは生まれて初めてだな…」
達也が言う。実際この日の達也は、一生分のタップをしたと言っても過言ではなかった。その相手が年下の女の子というのが達也の敗北感を大きく増幅させていた事は言うまでもなくて。
「そう落ち込まないで下さいよぉ。達也さんは今日が初めての寝技だったんですから、仕方ないですって」
「もし俺と香菜ちゃんが総合格闘技ルールで戦ったら、どっちが勝つかな…?」
「そ、そんなの達也さんに決まってるじゃないですかっ。達也さん、ホント深刻になり過ぎですってっ…」
「いや、俺は香菜ちゃんに勝てる気しないな…」
嘘ではなく本気でそう思うくらい、達也はヘコんでいた。香菜ちゃんにここまでいいようにやられるのに、金田悠希になんて勝てる訳ないじゃないか…と。
「寝技は今日が初めてですから、すぐ上達しますって。それに達也さんには、必殺の打撃があるじゃないですかっ」
「でも、少なくとも香菜ちゃんがいつも戦ってるグラップリングルールなら、正直俺なんて楽勝だろ?」
「そ、それは…」
一瞬口ごもる香菜の姿は、明確にこう告げていた。
はい、楽勝ですっ!と…
「ていうかグラップリングルールで香菜ちゃんがその気になれば、俺を殺す事だって余裕なんじゃないの…?」
「こ、殺すなんて…っていうか何言ってるんですかっ…!」
このまま試合を受けたら、マジで金田に殺される…まあ殺されはしないとしても、冗談抜きで半殺しにされるだろうな…達也の悲観は深かった。
………………………………………
翌日から、達也はある明確な方針を持って寝技の練習に取り組む事にした。
「こうやって足を相手の胴体に巻き付けるんです」
今、達也が香菜から重点的に教わっているのは、グラウンドの攻防で下になった時に相手の体を自らの足で挟み込む体勢、いわゆるガードポジションという体勢だ。
実はこのガードポジションこそが、グラウンドでの攻防を制するにあたって大きなポイントとなる体勢なのである。総合格闘技におけるグラウンドでの攻防は、相手の上に乗っていれば有利というような単純なものではない。仮に相手の下になってしまったとしても、ガードポジションさえ維持できていれば一方的に攻められる事はほとんど無い。それどころか寝技を得意とする選手などは、相手を引き込んで自ら下になる場合もあるほどだ。ガードポジションを維持できている限り、上下の位置関係における優劣は無いとさえ言えるのである。
ガードポジションの重要性は、総合格闘家なら誰もが基本中の基本として理解している。だが達也は、そんな基本すら全く知らなかった。しかし香菜に教わったようにガードポジションを実践してみたところ、上に乗られながらも香菜の体をある程度コントロールできているような感覚を覚えた。
このガードポジションの習得をはじめとして、達也は寝技での防御法を身に付ける事にトレーニングの全てを費やす事にした。相手のタックルを切る訓練、寝技に持ち込まれ相手に上になられた際に素早くガードポジションに入る訓練、そして関節技や締め技を回避する訓練などである。本職の総合格闘家を相手に寝技勝負を挑まれては万に一つも勝ち目はないという事を素直に認め、守備重視の戦術に活路を見出す事にしたのである。
達也の格闘センスは凄まじく、守備能力はみるみるうちに向上していった。特にグラウンドに持ち込まれた際にガードポジションに入る技術に関しては、あっという間に本職の総合格闘家にもヒケを取らないレベルにまで上達した。達也の人一倍長い足も、相手の体を挟み込むには有利に作用した。
ただ、寝技そのものを避けるという根本的な課題に関しては、行き詰まりを感じていた。狭いリング内で相手のタックルをかわし続けるのは難しく、一度組みつかれると振りほどくのは難しい。足に絡みつかれたら相手が香菜であっても振りほどくのは容易ではない…というよりほぼ不可能だった。
そして寝技の攻防でガードポジションを失ってしまえば、その時点で事実上のゲームオーバー。この日も達也は香菜に幾度となく関節を取られ、その度にタップを繰り返した。