話は、また2年前に遡る。
それは完全な出会い頭だった。圧倒的劣勢に追い込まれた男が捨て身で放った、全く成算の無い攻撃に過ぎなかった。
だが、それが達也の急所を捉えた。しかも達也が息を吸う瞬間に合わせるように最高のタイミングで、鳩尾(みぞおち)のど真ん中に。
達也の体が一瞬だけ硬直する。その直後、渾身のハイキックが顎に突き刺さり、そこで達也の意識は途切れた。
気が付くと、そこはもう医務室のベッドの上だった。手術室を思わせるような白く明るい天井を眺めながら、達也は自分が負けたという事を悟った。
試合で負けたのは、およそ10年ぶり。失神KO負けなどという屈辱は、生涯初めて。
悔しかった。だから何度も何度も試合の映像を見返した。その度に映像の中の自分はハイキックをまともに受け、何度も畳に顔面を打ち付けた。
試合を終えて帰ってきた達也に、充希は声を掛けなかった。掛けられなかったと言った方が正しいかもしれない。掛けるべき言葉を見つける事ができなかった。
だから、決めていた返事も、言えないままになって…
「達也は、卒業したらどうするの?」
秋も深まったある日、充希が達也にぽつりと聞いた。
「大学に進学しようかなと思ってるけど」
空手で抜群の成績を収めた達也には、多くの大学から推薦入学の話が届いていた。ただ、達也には空手を続けるつもりはサラサラ無かったのだが。
「俺って最強の男じゃん?だから学費免除でいいからぜひ来てくれっていう話を沢山貰ってるんだよね」
「そうなんだ…」
「いや、そこは『最後に負けたくせにどこが最強だよ!』ってイジる所だろ?」
「そんな事思わないよ。達也が強いってのはよく知ってるから」
「そ、そう…」
あの日の敗戦を、充希は決して茶化そうとしなかった。それどころか触れようともしなかった。まるで記憶の底の一部分にだけ、重い蓋をしてしまったように。
「まあでも、スポーツ推薦で西都大学に行けるんじゃないかって話なんだよな」
「西都大学?」
「もしかしたら来年の春には憧れの西都大生だぜ?凄くね?」
「そっか、達也は西都大学に行くんだ…」
「まだ決まった訳じゃないけどな。ていうか充希はやっぱり東都大学か?」
「…そんなの分かんないよ」
充希は模試でも常に全国上位の成績を収め、東都大学の合格は確実視されていた。ついに我が校から初めての東都大合格者が出ると、教師たちの期待も一身に受けていた。東都大学以外には有り得ない…周囲からはそんな視線が注がれていた。
「でも俺はやっぱり、充希は東都大に行くべきだと思うぞ」
「何でよ?」
瞬間、ぴくっと充希の右眉が下がった。それが不機嫌の兆候を示すサインだという事を達也はよーく知っているから。
「あの…俺、何かマズい事言った?」
「何で私は東都大に行くべきなのよ?」
「そ、そりゃ日本一の大学だし、行けるんだったら行くべきじゃないのかなって…」
「東都大が日本一だって、何で達也みたいなバカが判断できるってのよ?」
「…今、俺をディスる必要あった?」
でも、バカと言われて達也はどこかホッとしていた。あの敗戦以来、充希が必要以上に気を使ってくれているのを痛いほどに感じていたから。
「とにかく、私の進路は私が決めるんだから。達也の指図なんて受けないっ」
「指図した覚えなんて全く無いんですけど…」
結局、教師たちが期待した桜水台学園初の東都大生誕生とはならなかった。大学入学共通テストでは東都大学の合格ボーダーラインを悠々と超えた充希だったが、地元を離れて進学するのを嫌ったのだった。
その代わり、西都大学に2人の合格者を輩出する事になった。うち1人が推薦入学とはいえ、同じ年に2人の卒業生が同時に西都大学に進学するのもまた、同校史上初の快挙だった。
………………………………………
空手で推薦入学したにもかかわらず、達也は空手部には入部しなかった。そんな事が普通に許される辺りはさすが学生の自主性を尊重する西都大学といった所だが、何にせよ達也にとっては気楽で平和な学生生活だった。
周囲からは、達也が完全に空手から足を洗ってしまった事を残念がる声もちらほら聞かれたけど、当の本人は全く気にしていなかった。最後負けて終わった事に悔しさが無いと言えば嘘になったけど、毎日朝から晩まで稽古に明け暮れる日々はまっぴら御免だった。
…と、思っていた筈なのに。
1回生の前期日程を終え夏休みに入った8月の初め、達也はとある格闘技ジムを訪れていた。
そのジムの名はFAILY。総合格闘技やキックボクシングなど、いわゆるプロ格闘技選手の育成を専門に行っているジムだった。
達也としては、格闘技の世界に復帰しようと思った訳では決してなかった。そのジムが毎日の登下校で通る道沿いにあったから、普段から少しだけ気にはなっていた。夏休みになって暇になったし、どんな練習してるのかちょっとだけ覗いてみようかな…本当にその程度の軽い気持ちだった。
しかし、この何気ない気まぐれがきっかけで。
達也の人生は、大きく大きく変わってゆく事になる。