―充希―
あの時は、正直に言うとちょっと残念に思った。誰と戦うか教えてくれないんだ…って。
契約上言っちゃいけない…それはそうなのかもしれないけど…って。
でも、今なら分かる。
あの時達也が試合の事を詳しく教えてくれようとしなかったのは、おそらくは契約上どうこうっていう理由じゃなくて。
相手の名前を知ったら私が不安になるって、達也は分かっていたから。
だから、私に余計な心配をかけまいとしてくれたんだって。
金田悠希。
その名前は私でも知っている。顔と名前も、もちろん一致する。
相手の歯を全部折ったとか、腕をへし折ったとか…とにかく恐ろしい選手。
そんな奴と、達也が戦う…それを少しでも思うだけで、不安と恐怖心が全身を包む。
3年前の夏の記憶が、まるで昨日の事のように思い出される。またあの悪夢が繰り返されるんじゃないか、と。
いや、今思えば、あの時の負けなんて大して注目もされていなかった。テレビ中継なんてある筈もなかった。
今回は日本中が注目する一戦。今日負けたら達也は、それこそ何千万人っていう人たちの前で、歯を全部折られて、腕をへし折られるかもしれない。
嫌だ…絶対に嫌だ。そんな光景は絶対に見たくない。
でも、私にできる事は、ただ祈る事くらい。
達也の勝利を願って、存在するかしないかも分からない神様に、思いが届くよう必死に念じる事くらい。
勝てなくてもいい…負けてもいいから…
どうか達也を、何事もない無事な姿で、リングから下ろしてあげてください…と。
放送が、始まった。
試合会場は超満員の物凄い盛り上がりだった。その全員が、達也が手酷く負けて無惨な姿を晒すのを楽しみにしているように思えてならなかった。もちろんそんな訳はないって少し考えれば分かるんだけど、とにかく正常な判断能力を失わせてしまう程の、異常な盛り上がりだった。
試合が次々と消化されてゆき、会場のテンションはさらに高まっていく。
その間私はずっと、何か大きなアクシデントでも起きて試合が中止になってくれればいいのにと思っていた。例えば大規模な停電とか、会場でボヤ騒ぎとか…
でも、そんなアクシデントが都合よく起こってくれる筈もなくて。
午後9時前。ついに達也の試合の番になった。なってしまった。
本当は見たくなかった。怖くて仕方なかった。チャンネルを変えようと何度も思った。
でも、リモコンに手を伸ばそうとした所で思い留まる。
逃げちゃダメだ。どんな結末が待っていようとも、しっかりこの目で確認しなきゃいけないんだ。
だって私は、達也の彼女なんだから。
達也の事を世界で一番応援してるのは、私なんだから。
まず先に入場したのは金田選手の方だった。恐ろしい顔。こんな人が前から歩いてきたら怖くてすぐに道を譲るだろう。絶対に知り合いになりたくない顔。
すると、パッと画面が切り替わり、客席に座る綺麗な女性がアップで映された。誰だかは知らないけど、タレントさんなんだろうなというのは何となく分かった。一般のファンとは全然違う、独特のオーラを発していた。
その時、実況のアナウンサーが言う。
「ご覧の通り、金田悠希と交際しているグラビアアイドルの長沢愛佳も、彼氏の雄姿を見つめています!」
この女が金田悠希の彼女…そう知った途端に不快な気分を覚えた。不安なんて1ミリも無いような自信満々の表情を見せられていると、無性に腹が立った。
こんなセクシー女優予備軍みたいな奴に負けたくない…言葉は悪いけど、自然とそんな思いが湧き上がってくる。私とこの女が戦う訳じゃないけど…私も達也の彼女として、絶対にこんな奴には負けたくない、と。
今に見てろよ…その自信満々の表情を、すぐに後悔させてやるんだから、と。
そして、次は達也が入場する番。
達也の名前がコールされる。その瞬間、会場が湧いた。
金田選手の時とは比べ物にならない、物凄い歓声。それを聞いただけで、もう感動的な気持ちになってしまう。
みんな達也を応援してくれている、達也が負ける光景なんて誰も望んじゃいない。それが間違いなく分かる、暖かい声援。
リングの中央で、達也と金田選手が向かい合う。まるで顔がくっつくんじゃないかというような至近距離で、金田選手が達也を睨みつけている。
恐ろしい…でも。
達也は…いつもと同じだった。何万人という観客のど真ん中で、テレビも含めて何千万という視線を注がれながら、しかもあんな恐ろしい相手に目の前で睨みつけられながら、でもやっぱり普段通りの、自信満々の達也だった。
それを見て、心から達也を尊敬した。私なら、きっと足が震えて立っていられない。あれだけの視線と歓声を一身に浴びて何事も無いように堂々としていられる達也を、本当にカッコいいと思った。これ以上カッコいい男なんていない…そう思えるほどに。
両者がコーナーに分かれる。達也のセコンドについている女性のトレーナーらしき人物が、何かアドバイスを送っている。それを聞いているのか聞いていないのか、達也は相手の方だけを見ながら無造作に頷いて。
12月31日、午後8時59分。
ついに、運命のゴングが…鳴った。