―充希―
大歓声の中、両者の距離がゆっくりと詰まっていく。でも、接近はお互いの手がギリギリ届かないくらいの所までだった。
達也が左のジャブを出す。長い左が相手の顔に当たった…ように見えた。続けざまに2発、3発…確かに当たっている。その証拠に、金田選手がジャブを嫌がるように上半身を前後させる。
達也は遠い位置からジャブを繰り返し放つ。慎重に距離を取りながら、決して深入りしないぞという姿勢で。
いつもより慎重だな…でもそれでいいよ…素人ながらにそんな事を思った…
…その瞬間。
「っ…!?」
金田選手が達也目掛けて猛然とタックルを仕掛けてきて、ドキッと心臓が跳ね上がった。
組み付かれたら達也が圧倒的に不利っていう事くらいは分かってる。だって達也は、今までそういう試合を全くしてこなかったから。パンチとキックだけで戦ってきたから選手だから。
でも、大丈夫だった。達也は素早く身を引いて、足を掴まれそうになったのをうまくかわした。そしてまた十分な距離を取る。
また達也が左を伸ばすのを見て、思わずホッとする。よし、最初の状態に戻った。それでいいよ…慎重に距離を取って…
そう安心しかけた、矢先だった。
「あっ…」
金田選手が、また物凄い勢いでタックルを仕掛けてきて。
今度はガシッと、達也の下半身に組み付いたのだった。
「だ、ダメっ…!」
思わず叫んでしまった。でもそんな叫びも虚しく、達也の体はいとも簡単に倒されて。
あっという間に、寝そべって上に乗られる格好になってしまった。
「そんなっ…」
無意識に、画面の隅に表示されている試合時間に目が行ってしまう。そして、また絶望する。
試合が始まって、まだ30秒ちょっと。1ラウンド終了までは4分30秒も残っていた。
絶望感。あんな強くて恐ろしい相手に上に乗られて、4分半も耐えられる訳がない。きっと上からいいように殴られて、顔面がひん曲がるぐらいにボコボコにされるんだ…そんな悲惨な結末が自然と頭に浮かんだ。
目を逸らしたくなるような現実。テレビを消してしまいたい衝動。
でも私は、全てを見届けなきゃいけない…達也の苦しみを共有できるのは、私だけだから…
泣きたくなるのを堪えて、ぐっと歯を食いしばって…
ところが、その直後。
奇跡が………起きた。
次の瞬間、絶望感に圧し潰されそうになったままの私の視界に飛び込んできたのは、達也が殴られる光景ではなくて。
慌てて試合を止める、レフェリーの姿だった。
「え…?」
何が起こったのか分からないまま画面に釘付けになるしかない私。少しして、レフェリーが試合を止めた理由がハッキリと映し出される。
それは、金田選手の顔面。
達也をタックルで倒した筈の金田選手のまぶたから、大量の血が流れていた。
物凄い出血だった。すぐにドクターが治療するけど、出血は止まらない。それどころか、むしろどんどん酷くなってるようにも見えて。
そして、信じられないほどに呆気なく。
試合終了のゴングが打ち鳴らされた。
金田選手は試合終了の決定が不満なのか、到底納得できないといった表情でレフェリーに抗議していた。確かに、私の目から見ても出血こそ酷いけどダメージはほとんど無さそうで、体力的にはまだまだ戦えそうに見える。
観客も何が起こったのか理解できていないようで、会場は騒然とした雰囲気に包まれている。
そんな混乱の中、別の審判がマイクを握りながらリングに上がって。
「――金田選手の出血が酷く、これ以上試合を続けるのは危険であるというリングドクターの判断により、試合終了とします。なお、出血に到った傷は小野選手の有効な攻撃によるものと認められるため、試合の結果は小野選手TKO勝利となります――」
…え?
…達也の攻撃で負傷?
…というか、達也が勝ったの?
何が何だか分からない…そんな中、画面が試合のVTRに切り替わる。
スローモーション。距離を取ろうとする達也に金田選手が物凄い勢いでタックルを仕掛けて。
達也の下半身をしっかりと捕まえた、その瞬間。
「あっ…」
それを見て、思わず声が出た。
達也の膝蹴りが、急接近してきた金田選手の顔面に、確かに直撃している…
その映像が場内のビジョンにも映されたようで、会場からどよめきが上がる。歓声ではなく、どよめき。壮大なマジックの種明かしを見せられているような、そんな雰囲気。
金田選手は、まだ納得していないというように両手を広げてアピールしていた。でも、それは会場にいる誰の心にも刺さっていなくて。
達也にマイクが向けられ、勝利者インタビューが始まる。
笑顔で質問に答える達也は、試合前と全く変わらない普段通りの表情で。
…でも、なぜだろう。普段の通りなのに。いつもと全く変わらないのに。
つい数分前に、こんなにカッコいい男はいないと思ったばかりなのに。
テレビに映る達也は、さっきの達也よりも、さらにカッコよく見えた。
4章終了です。いかがだったでしょうか。
ところで本章の5話目「金田悠希という男」の中で金田が朝ノ富士の顔面を蹴り上げて前歯が全て飛び散るという描写がありますが、実はこれにはモデルとなった試合があります。その試合とは1993年に行われたUFC.1の第1試合として行われたジェラルド・ゴルドーvsテイラ・トゥリ戦。即ち、今や世界最大の総合格闘技団体となったUFCの記念すべき最初の試合です。
テイラ・トゥリはかつて高見州という四股名で活躍した力士でした。怪我のため力士生活は2年と決して長くはありませんでしたが、200kg近い巨体を武器に初土俵から14連勝、デビュー1年で幕下優勝も飾るなど将来を嘱望された力士でした。対するジェラルド・ゴルドーは90年代には日本の総合格闘技やプロレスのリングにも度々上がった選手で、当時から格闘技を見ている方は「ああ、そういえば名前聞いた事あるなあ…」と思うかもしれません。ただし、当時からラフファイターとして悪評の高い選手で、現在テレビ解説なども務めている格闘家の中井祐樹氏は1995年に行われたのヴァーリトゥード・ジャパンという大会でジェラルド・ゴルドーから悪質なサミング(目つぶし)を再三受け、右目を失明しました。しかし中井選手はそんな右目を失いながらも執念のファイトで一本勝ちし、同大会の決勝戦でヒクソン・グレイシーと死闘を演じたのは有名です。
話を戻して、ジェラルド・ゴルドーvsテイラ・トゥリの一戦はまさしく作品内で触れたような、前歯が全て飛び散ってのKO決着という凄惨な結果になりました。当時のUFCのキャッチコピーは「2人の男が金網に入り、1人だけが歩いて出てくる」という何とも凄まじいもので、オープンフィンガーグローブすら無く選手はほとんど素手、後頭部への攻撃も首締めもOK。しかもラウンド無制限で判定もレフェリーストップも無しという今考えると本当にえげつないものでした。さすがに残酷すぎるという事で大物政治家も含めて全米各地から反対運動が巻き起こり、UFCはラウンド制や階級制を導入、さらには攻撃にも制限を加えるなどルールを整備し、リアルファイトを競技化して現在に到ります。最近の試合はレフェリーが止めるのが早すぎるといった声や「ギブアップしない美学」のようなものをよく耳にしますが、このように総合格闘技が競技化されていった歴史を踏まえると、やはりリング上で行われるものは「試合=試し合い」であるべきで、「決闘」や「殺し合い」であってはいけないと私なんかは思ってしまうんですがどうでしょうか…
ところで、このジェラルド・ゴルドーvsテイラ・トゥリ戦は今でも日本の動画サイトなどで見る事ができます。興味があるという方は、一度検索してみてはいかがでしょうか。