ゴングが鳴って、試合が始まった。
まず達也は距離を取り、長いリーチを活かしたアウトボクシングに徹する構えを見せた。さらにジャブだけでなく、ローキックを多用し、清水の接近を許さない。
そのローキックが面白いように清水の足を捉え、その度にパシン!パシン!と高い音が響く。
清水にとっては、これまでに受けた事の無いような強烈なローキックだった。そして何より、これまでに経験した事の無いほどに遠い位置から放たれるローキックだった。自分の手足が届かないような距離からの攻撃に全く打開策を見出す事ができず、一方的にローキックを当てられ続けてしまう。
このローキック作戦こそが、今回達也が用意してきた戦術だった。というより、実は遠目からの蹴り技主体の戦いこそ、達也が空手家時代から最も得意としている戦術なのである。
達也は足が長い。股下は90cmをゆうに超える。そして達也は、自分自身の長い足が立ち技での格闘技においてどれだけ有利に働くかを十分に理解している。これまでの試合ではフィニッシュのハイキックを除いて蹴り技をあまり使ってこなかったが、それは相手との実力差があまりにも大き過ぎて得意技を出すまでもなかっただけ。自身の状態に不安を残す今回、封印してきた蹴り主体の戦いをついに解禁する事にしたのだ。
パシン!パシン!と小気味良い音が響く。遠い距離から繰り出されるローキックが、まるで鞭のように鋭くしなって的確に清水の足を打つ。たまらず清水が距離を詰めようとするとサッとかわして別れ際にジャブ、そしてまたローキック。清水の意識がローキックに取られたとみるや、今度は一転してミドルキック、さらには顔面へ長い左ストレート。遠方からの攻撃は面白いように清水の体を捉えた。
まるで達也だけが照準付きライフルを持って、遠い場所から清水を一方的に撃っているよう。そんな戦いに、清水の体力は徐々に削られてゆく。
そして1ラウンドも残り1分を切った頃、ついに達也が仕掛けた。これまでの距離を取った攻撃から一転、力強く踏み込んでワン・ツーを見舞う。
清水もここで勝負するしかないと応戦し、激しい打ち合いへと発展した。だが、既に体力をかなり削られた上に足も酷く痛めつけられ下半身の踏ん張りが効かない清水と、ノーダメージの達也では勢いの差は歴然で。
――ダンッ……ドンッッ!!!
顔面への右フック、そして左のリバーブローが続けざまに決まって、ついに清水はその場に崩れ落ちた。
観客が沸く中、カウントが始まる。清水のダメージは大きく、ここで試合が終わってもおかしくはなかった。だが彼にとってこの一戦は自らの進退を懸けて臨む大一番。不屈の精神で痛みを跳ねのけ、カウント9で何とか立ち上がりファイティングポーズを取ってみせる。
しかし、不屈の精神が必ずしも幸せな結果をもたらしてくれるとは限らない。立ち上がった清水が見たのは、余裕の表情で歩み来る達也の姿だった。ガードを下げ、不敵な笑みを浮かべながらゆっくりと近付いてくる。まるで死刑執行人が、往生際の悪い死刑囚に引導を渡しに来るかのように…
その瞬間、清水の体がゾクっと小さく震えた。人間としての生存本能が心の奥底から吹き上がるようにして、清水の理性に訴える。
――逃げろ。これ以上戦うと…殺される。
足がすくむ。迫り来る達也を迎え撃つか、それとも下がって距離を取るかしなければならないのに、清水はそのどちらもできずただその場に立ちすくんでいた。一応ファイトポーズは取るものの完全に構えだけ。ぶるぶると無意識に足が震える。
その間にも、ゆっくりと達也が近付く。自らに歯向かった哀れな男に、無慈悲にも死刑を執行するべく。
…が、その時。
――カァンッッ!!
1ラウンド終了のゴングが鳴った。と同時に、達也がくるりと引き返す。
「え…あ…」
清水は何が起きたのか全く分からなかった。分からないまま、去り行く達也の背中を呆然と見つめる。
(た…助かった…?)
まだ立ちすくんでいる清水を現実へと引き戻したのは、駆け寄ってきたセコンド陣だった。清水に声を掛け、その体をコーナーへと引き戻そうとする。
…しかし。
「あっ…あぐっ…!」
その時、強烈な痛みが清水の体を駆けた。一歩踏み出して体重のバランスが崩れた事により、痛めつけられた足が悲鳴を上げたのだ。
それでも何とか仲間の力を借りながら、コーナーへと戻る事はできたが…
「…酷いな」
清水の足を確認したトレーナーが絶句するように言う。達也に蹴られ続けた患部は青黒く変色し、酷い内出血を起こしてしまっていた。
テレビカメラもその状態を映し出す。だが実況のアナウンサーは清水の足の状態よりも、1ラウンドKOが成らなかった事を強調していた。そう、この試合は達也にとってプロ19戦目となるが、1ラウンド終了のゴングを聞いたのはこれが初めてなのである。ダウンを奪われながらも立ち上がり、達也の連続1ラウンドKO勝利記録をストップさせた清水の闘志に、アナウンサーは賛辞を送っていた。
だが、試合はこの後、唐突に終わりを迎える事になる。
なぜなら、清水の心はもう完全に折れてしまっていたから。
セコンドアウトが宣告され第2ラウンドが始まろうとしたその時、青コーナー陣営からタオルが投げ入れられた。その瞬間、試合は終わった。
観客も一瞬、何が起こったのか分からなかった。だが達也の右手がレフェリーによって高々と掲げられ、また歓声と拍手が沸き起こる。
公式記録、1ラウンド3分0秒。清水陣営のタオル投入により、達也のKO勝利。
連続1ラウンドKO記録は、やっぱり途切れなかった。