FAILYのオーナーを務めているのは斎藤晴香という女性である。かつて女子総合格闘技の世界で活躍し、10年ほど前に現役を退いてジムを設立した。
世界で戦える選手を育成したいと意欲を燃やしていた晴香だったが、現実はそう甘くはなかった。新興の小規模ジムでは自力で興行を打つ事も難しく、育成どころか選手集めにも苦労する始末。現在所属しているのは男女合わせてもわずか10人弱、しかも目立った実績を残している選手はおらず、経営はかなり苦しいというのがジムの実情だった。
「選手の人数こそ少ないけど、みんな真剣に練習に取り組んでるのよ」
晴香が達也にジムの様子や練習環境などを紹介する。オーナー自ら達也の『接客』を買って出る事自体が、FAILYの状況を端的に表していると言えた。ふらっと入ってきた若者すら逃したくないというのが本音なのである。
「FAILYは総合格闘技を中心にやってる選手が多いの。達也くんも総合格闘技に興味があって来てくれたの?」
「いえ、特にそういう訳でもないんですけど…」
晴香の熱は、早くも達也に伝わっていた。何気なく覗いてみただけなんです…なんてとても言えないような雰囲気である。
「達也くんって、見るからに強そうだよね。何か格闘技やってたでしょ?」
晴香が食い気味に聞いた。
「強そうかどうかは分からないですけど、一応空手を」
「やっぱり。何年ぐらいやってたの?」
「いや、ホントにちょっとだけなんで」
「何色の帯までいったの?」
「まあ、一応黒帯まで…」
「そうなの?凄い!めちゃくちゃ強いじゃない!」
こう見えてインターハイ連覇したんですよ、なんて言うと面倒な事になりそうな気がしたから、達也は実績を隠しながら答える。
「さっきFAILYには総合格闘技を中心に戦ってる選手が多いっていったけど、キックボクシングの選手もちゃんといるのよ。だから安心して、もし達也くんがFAILYの選手になってくれたとしても、総合格闘技を無理強いするつもりは全く無いから」
「いや、まあ、はい」
「もちろん達也くんが総合格闘技をやってみたいと言うなら一から丁寧に指導するから心配しないでね」
「はは…」
何と答えていいか分からず苦笑いしながら、達也は練習風景を眺める。
ジム内では選手たちがトレーニングに精を出していた。試合が近い選手も少なくないらしく、練習の様子からは確かな熱気が感じられる。ちょうど目の前で行われている立ち技形式のスパーリングなども、まるで本番の試合さながらだ。
だがそれを見ていて、達也はある思いを抱かずにはいられなかった。
…何か、あまり大したことないな、と。
スパーリングを行っているのは総合格闘技の選手という事だった。打撃専門の選手でないのだから、立ち技が得意でないのは致し方ない。だがそれを踏まえても、フットワークやパンチのキレなどは、達也の目には正直言って物足りなく映った。
これがプロ…?これなら俺の方が普通に強くね…?そんな思いが自ずとと込み上げてくる。少なくとも立ち技なら全く負ける気がしないよな、と。
するとその時、晴香が言った。
「ねえ、達也くんの黒帯の実力、ぜひ見せてくれないかな?」
「はい?」
「軽いスパーリング、ちょっとだけやってみましょうよ」
「ええっ…?」
………………………………………
20分後、リングの上にはグローブとヘッドギアを着けた達也の姿があった。
最初、達也はスパーリングの誘いを断った。だが断っても断っても晴香は達也の実力を見てみたいと繰り返し、しまいには「1ラウンドだけでいいから!」と深く頭を下げるものだから、年上の女性にそんな態度に出られて無下に断る訳にもいかず、ついにスパーリングをOKしてしまったのだった。
とはいえ、ふらっと見学に来ただけの達也とプロの格闘家がガチンコでスパーリングをする訳にもいかない。なので今回は達也の安全を最大限に考慮し、攻撃していいのは達也だけ、つまり相手選手は達也の攻撃をガードするか避けるかだけという、およそスパーリングとは言えないスパーリングが行われる事になった。
時間は3分1ラウンドで、キックは禁止。そして達也の相手は、FAILYの中でも最も若い選手が務める事になった。偶然にも達也と同い年だったが、既に総合格闘技の試合で3戦を戦っている正真正銘のプロ選手である。
「はあ、ボクシングのグローブってこんな感じなんですね」
力が入れづらいな…それがボクシンググローブを始めて装着した達也が抱いた率直な感想だった。実際、ボクシンググローブというものは装着すると拳をしっかりと握る事ができないような作りになっており、慣れるまでは違和感を感じるものなのだ。
だが達也は、シュッシュッと素振りのように軽く何回か腕を前後させただけで、早くもボクシンググローブを装着しての正しいパンチの打ち方を理解し始めていていた。拳を強く握るんじゃなく、握らずに力だけ入れる感じなんだな…と。
「よろしくお願いします」
達也とその相手が、リングの中央でグローブを合わせる。スパーリング開始である。
他の選手たちも各々の練習を止めて視線が一斉にリングへと注がれる中、晴香がスパーリング開始を告げるゴングを打ち鳴らした。
(さて、どうするかな…)
じわりと前進しながら、達也が考える。今回はスパーリングとは名ばかりで、相手は攻撃が禁止されている。つまり達也は打たれる心配がないのだから、何も恐れる事なくがむしゃらに攻めればいいだけである。
だが達也は、不細工にパンチを振り回すような事をするつもりは全く無かった。自分だけが攻撃できるという特殊過ぎるルールの中でどうやって自分の強さを表現するか、それだけでを考えていた。
それに、達也は分かっていた。
ヘタにラッシュなんかをかけてしまうと、それこそ相手をサンドバッグにしてしまいかねない、と。
(まあ…適度にやるか)
少しずつ距離を詰めながら、達也が左のジャブを数発繰り出す。相手にはうまくかわされて当たらなかったが、しかし達也は自分のパンチのキレに安心感を覚えた。40%の力でジャブを出したら、実際に40%の威力とキレのパンチを打てた、そんな感覚。それはつまり、己の感覚と体の動きにズレがないと分かった事への安心感だった。
空手をやめて約1年。ロードワークなんかの軽いトレーニングは継続しているとはいえ本格的な稽古からは遠ざかったままだから、体は相当なまってしまっている。でも感覚は当時のまま。ならば大丈夫、弱くなった自分というものを感覚が理解できてさえいれば、その自分に合わせた攻撃を繰り出せばいい…
――パンッ、パンッ、パシンッ!
また、達也がジャブを繰り出す。さっきより2段ほどギアを上げたジャブ、それが的確に相手の顔面を捉えた。驚いたように相手がガードを上げる。
(うん、そうだよな…)
さっきのジャブは、当たらないだろうなと思って打った。そして案の定当たらなかった。今度は当てようと思って打った。そして案の定当たった。これもやっぱり、感覚通り。
(じゃあ、次は…)
圧力をかけるように相手をコーナーへと追い詰め、パシン!とまた左。たまらず相手がコーナー際から脱しようと体を傾けた、その瞬間。
――ドンッッ!!
相手の動きを読み切ったような右フックが顔面に打ち込まれた。その瞬間、相手の足元がグラグラっとふらいて。
――タンッ!
続けざまに、今度は左フックが相手のボディを捉える。撫でるような軽い左ボディだったのだが、とどめを刺すには十分で。
「かはっ…」
相手がその場にうずくまる。
その10秒後、スパーリングは終了した。開始のゴングから、まだ1分も経っていなかった。
見ていた他の選手たちは、驚きのあまり誰一人として言葉を発さなかった。スパーリングが達也のみ攻撃できるという究極のハンデ戦だった事は確かだが、それを踏まえても達也の実力が桁違いなのは、格闘技をしている者にとっては一目で分かる事だった。事実上、右フック一発で相手をマットに沈めてしまったのだから。
晴香もまた、達也の圧倒的なパフォーマンスに驚きを隠せなかった。だが、それも当然だった。何せスパーリング開始前は、達也のパンチが一発も当たらないような展開すら予想していたのだから。
「ありがとうございました」
一礼して達也がリングを降りる。その表情は涼しげで、プロの選手をいとも簡単にKOしてみせたのはさも当然とでも言いたげな雰囲気だった。
「凄いわね…ちょっと信じられない気持ちだわ」
達也のグローブを外しながら、晴香が率直な思いを口にする。
「たまたまですよ。というか、さすがにルールがルールでしたから」
「達也くん…空手では凄い選手だったの…よね?」
「いやあ、全くそんな事はないですよ」
「もったいぶらないで教えて頂戴っ。というか、もし達也くんに大した実績が無いのにウチの選手があんなにアッサリとやられたっていうんなら、いくら何でも悔しすぎるわっ」
「あ、いや…」
そうだよな…と達也は思う。あまり謙遜するのもかえって悪いよな…と。
「まあ、実は高校の時にはインターハイを連覇しました」
「い、インターハイって、全国大会をっ?」
「あ、でも最後は負けたんですよ。1年と2年の時は優勝できたんですけど、3年の時は準優勝で」
という達也の言葉は、もはや晴香の耳には入っていなくて。
「達也くんっ!」
「はいっ…!?」
次の瞬間、女性特有の冷たい掌の感触が、グローブを取ったばかりの達也の手に伝わって。
「お願いっ、私と一緒に、世界を目指しましょうっ!」