達也が試合会場に現れたのは、試合開始予定時刻の30分前というギリギリもいい所の時間だった。
前代未聞の社長出勤に関係者は皆達也に何か言いたげだったが、とにもかくにも試合までに現れてくれた事に心底ホッとしていた。何せ最悪の事態を想定し観客の暴動に備えるべく警察に連絡していたというのだから、安堵の大きさが分かるというものだろう。
さて、紆余曲折もあったが、いよいよ達也の出番である。達也が姿を現すと、客席の到る所から若い女の子の黄色い声援が飛んだ。
この日は全試合がネットで無料配信されているのは既に書いたが、そのアクセス数に関しては中継開始後しばらくは残念ながら今一つだった。だが、達也の試合が近付くにつれてアクセス数は漸増、達也が画面に現れるようになると急増し、そして試合開始のゴングが鳴る頃には、視聴者数はなんと1000万PVを超えてしまった。一昔前なら回線がパンクしたに違いない、ちょっと信じられない数字である。
そして今回の試合は『knock out』主催の公式戦扱いなのだが、松岡がまだ未成年という事を考慮してハンデが設けられていた。具体的には松岡が通常通り10オンスのグローブを使用するのに対して達也は分厚い(相手へのダメージが軽減される)16オンスのグローブを使用、そして達也は首より上への蹴り技禁止という二重ハンデである。
ゴングが鳴り、試合が始まる。
開始直後、松岡がいきなり飛び出した。前日の会見で見せていた緊張はどこへやら、挑戦者らしく勢い良く攻撃を仕掛ける。
奇襲とも言える先制攻撃、だが達也は落ち着いてこれを対処した。軽いフットワークで体を前後左右させながら松岡の攻撃をかわし、的を絞らせない。
この時、達也は感心する思いで松岡の攻撃を受け流していた。彼がかなり緊張しているのは前日の様子からも明らかだった。だから本番でも緊張からほとんど手が出ないのではないかと予想していたのだ。ところがいざ試合が始まってみると、手が出ないどころか開始早々の猛攻。しかも繰り出してくる打撃そのものも、高校生とはとても思えないような威力とキレを感じさせるものだった。
さすがキックボクシング甲子園の優勝者、中々やるじゃないかと、達也は心の中で若き挑戦者に賛辞を送りを送りながら。
開始1分過ぎ。そろそろレッスンをしてやるかとギアを切り替えて。
――ドンッ!!
次の瞬間、達也が放ったカウンターの左が的確に松岡の顔面を捉えた。
達也がこの日放った最初のパンチ。だがその一発で、松岡の勢いは完全に失われてしまった。ぴたりと手が止まり、ヨロヨロとふらつくようにしながら後退する。
攻守交替、今度は達也が攻撃を繰り出す番となった。右、左、右…達也のパンチが的確に松岡の体を捉える。顔面にボディーにと、ガードが空いた場所だけを的確に教えるように。
そう、まさに達也は、松岡のガードが甘くなっている部分を狙い撃ちしていた。それは達也が文字通りこの若き挑戦者の体に叩き込む、ちょっと厳しめのレッスンだった。現に達也はパンチの軌道こそ的確だが、力自体は全力ではなく7割程度に抑えて打っていた。そもそも最初に松岡の猛攻を止めた一発目の左も、実はかなり緩めて打ったものだった。
達也の力を持ってすれば松岡をKOする事など容易だったが、本気を出そうという気は全く起きなかった。正確に言うと、『knock out』への出場が決まった時には豪快に1ラウンドKOで決めてやろうと思っていた。どんな技をフィニッシュに用いればファンが喜んでくれるか、そんな事を真剣に考えていたぐらいだ。
だが相手が高校生に決まって、しかも自分を尊敬していると知って、そして実際に対峙して彼の有望性を感じ取って、豪快にKOしてやろうというような考えは消え失せた。今回の機会を彼にとって意味のあるものにするべく、自分なりのレッスンを施してあげよう、そう思うに到ったのだ。
だから、的確にパンチは当てつつも、決定的な一撃は与えないように力を加減して。
「ほら、休んでないで打ってこい!」
時には攻撃の手を休め、松岡の反撃を促す。その様子は試合というよりも、まるで師匠と弟子のスパーリングのようで。
「くあぁぁっっ!」
達也の檄に応えるように、松岡がパンチを繰り出す。だがそれが大振りで、豪快な空振りに終わるだけではなくまたカウンターを当てられてしまう。手を出せばガラ空きになった顔面に、顔面をガードすればボディーに、達也のパンチが容赦なく食い込んだ。
「どうした?その程度か?悔しくねーのか!」
今度は達也が、ボディを打てと言わんばかりに自らの腹をポンポンと叩いた。それを見た松岡が、達也のボディ目掛けて左右を連打する。
「お、よし、いいぞっ!」
松岡の連打が5発、6発、7発と達也のボディを捉えた。だが達也は全く痛がる素振りも見せず、むしろ嬉しそうに連打を受け続ける。
そんな達也主導の応酬がしばらく、続いて、1ラウンドも残り30秒を切った頃。
「よし、じゃあいくぞ、耐えてみせろ!」
そう宣言して、達也が左ボディーを一発打ち込んだ。それが肝臓に刺さり、松岡の体が前のめりになる。
そこからは一方的。やはりガードが甘い部分に狙いを定めるように、左右の連打をお見舞いする。さっきまでとは違う『ほぼ全力』まで力を強めたパンチに、松岡は体を丸めるのが精一杯。
いや、実を言うとまだ反撃する力はかすかに残っていた。しかし先ほどまでのレッスンが、松岡に確かな恐怖心を植え付けていた。
成算のない中途半端な攻撃は逆効果。今手を出せば、今度こそ顔面に強烈な一撃を食らう…と。
結局反撃する事も叶わず、松岡は達也の重い打撃を浴び続けた。そして1ラウンドも残り5秒という所で、ついにレフェリーが間に入って試合を止めた。
残り5秒でのダウン無きレフェリーストップは、達也の連続1ラウンドKO記録を伸ばすための恣意的な判断だと見る向きもあった。とはいえ、レフェリーストップの判断を批判する声は皆無だった。実際、ストップ直前の試合内容は一方的だったし、何より達也がその気になればいつでもKOできた事は誰の目にも明らかだった。
達也はボディーを何発か受けたものの、実質的なダメージはゼロだった。一方、何十発ものパンチを受けた松岡はフラフラで、達也に施されたレッスンの厳しさを物語っていた。
試合が終わり、観客は勝者と同じように敗者にも惜しみない拍手を送った。達也のパンチを浴び続けながらも最後まで立ち続けた松岡の姿は、観客の心を確かに捉えたのだった。