―12月某日:FAILY―
「やあやあ晴香ちゃん、久しぶりやなぁ」
「丸木さんこそお元気そうで何よりです。本日はワザワザ遠い所まで来てくださって本当にありがとうございます」
「遠い事あるかいな。30分もかからんがな」
と、気さくな口調で話すこの人物の名は丸木信雄。大阪市の西に隣接する尼崎の街でボクシングジムを経営している男である。
「へえ、君が小野くんかいな。試合はよう見せてもうとるでえ。まだ2ラウンドに行った事ないんやてな?」
「いや、はは…」
あまりにフレンドリーな口調に、達也は挨拶を口にするタイミングを失って苦笑いしていると。
「ほいでやな、こいつが今から君とスパーさせてもらう池田や」
「…ヨロシクお願いします」
パン、と丸木に背中を叩かれた池田が、低い声で挨拶する。達也もそれに呼応するようにペコリと頭を下げる。
「イカツい顔やけどな、一応ウチのエースや。これでもミドル級の日本ランキング2位やさかいな。来年には日本か東洋のベルトに挑戦させたいと思うとるんや」
と丸木が紹介するように、池田は日本ミドル級ランキング2位のプロボクサーである。現状、日本のボクシング界はミドル級より上のランキングが選手不足でほぼ空位状態である事を踏まえると、池田は日本国内で屈指の実力を有するプロボクサーであると言えた。また、達也が大晦日で対戦する石山が主戦としているスーパーウェルター級は、ミドル級の一つ下の階級。つまり池田と石山はほぼ同じ体格の選手であり、スパーリング相手としてはこれ以上うってつけの選手はいなかった。
「小野くんの実力はテレビでも見てよう知っとるけど、この池田も『尼崎の粗大ゴミ』っちゅう異名を持っとるからな。油断しとったら痛い目に遭うかもしれへんでぇ」
「はい、今日は池田さんのような実力者とスパーリングできる機会を頂けて本当に感謝してます」
「ほおぉ、テレビで見る通りほんまにええ性格した子なんやなぁ。ほいでスパーは池田のグローブが12オンス、小野くんが16オンスっちゅう事ででええんかな?」
「はい、ぜひともそれでお願いします」
達也の身長は高校卒業時から2cm伸びて187cm、体重も筋肉の増量に成功した現在は90kg前後だ。これはボクシングで言うと、ほぼヘビー級に相当する体格である。対して池田のこの日の体重は75kg前後と、体重差は約15kgにもなる。スパーリングにあたってグローブの厚さにハンデを付けるのは必須だ。
「じゃあ早速グローブを持ってくるから、達也くんも準備して」
晴香がジムの奥へと消える。それを見て達也も、準備運動しようと軽く体を動かし始める。
と、その時。
それまでほとんど黙っていた池田が、すっと達也の元へと歩み寄ってきた。
「池田さん、今日はよろしくお願いします」
近付いてきた池田に達也は改めて挨拶する…が。
「おい」
池田は達也の挨拶を無視するように、ギラリと鋭い視線をぶつけながら、殺気満々の声で。
「言うとくけど、俺はお前なんか全く認めてへんからな。覚悟しとけよ」
………………………
………………
………
スパーリングは3分3ラウンドのボクシングルールで行われた。
そして今、予定の9分間をちょうど終えた所…なのだが。
「ふう…ありがとうございました」
涼しい顔でヘッドギアを外す達也。ほんの少し汗をかいてはいるが、ダメージはおろか疲れたような様子は全くない。
だが、一方…
「はあ…はあ…はあっ…」
コーナー際に用意された椅子に腰かけてぜえぜえと肩で息をする池田。もし第4ラウンドがあったとしても立ち上がるのはちょっと難しそうだった。
その証拠に…
「あちゃー…こらアカンわ…」
池田の状態を確認した丸木が呆れたような表情で言う。達也の猛打を浴びた体は到る所が赤く変色し、腫れ上がってしまっている箇所も少なくなかった。
スパーリングは、第1ラウンドの前半こそは引き締まった展開だった。池田の鋭いパンチが達也の顔面を捉えるシーンも何度かあった。だが、均衡していたのは最初の1分半だけだった。第1ラウンド後半からは徐々に達也がペースを掴んで攻勢を強めた。第2ラウンドになると達也が池田をロープ際へと押し込むシーンが目立ち、後半には池田は「ほぼ」サンドバッグ状態。なのでラウンド終了時に晴香がスパーリングの打ち切りをやんわりと提案したのだが、池田サイドの希望により続行。しかし反撃には到らず、第3ラウンドも達也が一方的にパンチを浴びせ続けたままスパーリングは終了したのだった。
ダウンこそ無かったものの、達也の完勝だった。しかも第3ラウンドには達也が攻撃をだいぶ緩めていたのは誰の目にも明らかだった。達也は不慣れなボクシングルールで、日本最強クラスのプロボクサーを圧倒してしまったのである。
「いや…これは本物やわ…」
丸木が唸るように言う。愛弟子がほとんどいい所なく完敗を喫したというのに、不思議と悔しさはあまり湧いていなかった。むしろ、とんでもないものを見てしまったというような驚きの方が大きかった。
他方、晴香はどこか鼻高々といった表情だった。どう、ウチの達也の実力が分かったかしら?とでも言いたげな表情である。
「池田、大丈夫か?立てるか?」
「は、はい…すんません…」
丸木に促され、ヨロヨロと立ち上がる池田。だが気を抜くとすぐにその場にヘタり込んでしまいそうなほどに、足元はおぼつかなかった。
「いや小野くん、恐れ入ったわ。すまんな、池田じゃ君のお役には立てんかったみたいや」
「いえいえ、そんな事はないです。学ぶ所はとても多かったですし、本当にいい経験になりました」
「ホンマ君は、顔だけやのぉて性格もイケメンやなぁ…」
大した子やで…と丸木はかぶりを振って。
「ほな、今日はおおきにやで。池田にとってもええ勉強になったと思うわ」
「こちらこそ、本当にありがとうございました」
ペコリと頭を下げる達也。その謙虚な態度に丸木は感心しきりで。
「ほら、池田も挨拶せえ」
まだ顔面の腫れは残っているものの、体力的には何とか回復した池田が小さく頭を下げる。
そして、達也に向かって。
「悪かったの、さっきはつまらん事言うてもうて」
「いえ、別に…」
「悔しいけど、今日は俺の完敗や。ええ勉強になったわ。ありがとうな」
「いえ、こちらこそ勉強になりました」
「自分やったら誰にでも勝てると思うわ。大晦日も頑張ってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
………………………………………
―達也―
「ああ、うん、お休み。体冷やすなよ」
プツッ、と電子音が切れる。その瞬間、何とも言えない寂寥感に捉われる
この所、充希との電話は毎晩の日課みたいになっている。それはつまり、充希とほとんど会えてない事を意味する訳で。
(もうすぐ大学も卒業か…)
ふと、そんな事を思う。来年の春には、俺も充希も大学を卒業して社会人になる。まあ、社会人ったって、俺の方は今と大して変わらないのかもしれないけど。
充希と付き合えたはいいけど、付き合う前より後の方がむしろあまり会えてないのは何とも皮肉だった。加えて、来春から充希は東京で勤務する事になるという。そうなると、今以上に会えなくなる事は間違いなかった。
自分も東京に引っ越そうかな、なんて最近はよく考える。ただ、そのためにはジムを移籍する必要がある訳で…
「ま、来年の事は来年になってから考えるか」
今考えても仕方ないよな、と思い直す。充希にしても、東京での新人研修が終われば大阪勤務になるかもしれないし。
(そんな事より、まずは大晦日の試合、だよな…)
今日のスパーリングを改めて振り返る。
池田選手はさすがミドル級日本ランキング2位のボクサーというだけあって、素晴らしい選手だった。パンチのキレも流石だったし、ガードのテクニックも見事だった。
でも…ハッキリ言って、俺の相手にはならなかった。その理由は、ひとえに体重と体格の差だ。
ボクシングという上半身へのパンチだけというシンプルなルールの競技において、体重ほど重要なものはない。実際に今日のスパーリングは、それを証明するには十分過ぎるものだった。
俺は単に、体格差と体重差を押し出して強引に前に出ただけ。なのに池田選手は、俺の単純なパワープレーに全く成す術がなかった。体重差と体格差の前に、池田選手のテクニックは全くの無力だった。
試しに池田選手のパンチを敢えて何発か貰ってもみた。もちろん痛かった。でも、痛さはあってもダメージはほとんど無かった。ヘッドギアの効果を差し引いても、所詮は下の階級の選手のパンチに過ぎなかった。
大晦日に対戦する石山選手は、池田選手よりも更に1階級下の選手だ。もちろん当日は体を作ってくるだろうけど、短い期間しかない中で本当の意味で俺と同じ体格を作り上げてくるのはまず不可能だ。
それに本番はボクシングではなく、キックボクシングルールで行われる訳で…
(やっぱ、つまらない試合にするべきなんだよなぁ…)
テクニック勝負なら、元世界チャンピオンの石山選手に分があるかもしれない。だから俺の戦い方としては、パワーで押し込むというのが間違いなく最適解なんだけど。
それはとことん『つまらない』試合になりそうだからなあ…
………………………………………
一方、その頃。
「ううっ…うっ…うううううっ…」
大阪は東通り商店街にある居酒屋で、池田は泣いていた。達也を目の前にしていた時こそ気丈にふるまっていたが、ジムを後にして少しすると、溢れる悔しさはもう止められなかった。
それを丸木が、慰めるように。
「悔しいよな。悔しい時は泣いたらええ」
「うっ…ううっ…おやっさん…あいつのパンチ…マジ半端ないんすよぉ…あんな速くて強烈なん…絶対避けられへんって…うううっ…」
「分かっとる。でもお前もよう頑張ったやないか。エエのも何発か入っとったぞ。それに階級差もあったやないか」
「でも…マジで悔しいっすよ…普段ボクシングやってない奴に…ええようにボコられて…しかも手加減までされて…うううっ…」
「小野は怪物や。ええ勉強になった思て、また頑張ろうや。な?」
「ううっ…うっ、ううううーーーっ……!」
悔しさに耐えられず号泣する愛弟子を眺めながら、丸木はグラスを口にして。
「小野達也…か」
ぽつりと、小さく呟いた。
「石山がなんぼ世界チャンピオンや言うても、あんな化けモンの相手にしたったらアカンで…」