―充希―
17時30分、定時終業時刻。でもこの時間に会社を出る社員はほとんどいない。事実上、定時なんて有って無いようなもの。
18時を過ぎて19時に近付くに連れて、ようやくオフィスから人が減り始める。
「ふう…」
パソコンから目を離して一息つく。この時間になってくるとさすがに疲れるけど、今日はまだ会社を出る訳にはいかなかった。今日中にどうしても処理しておきたい案件が残ってるから。
「あれ、充希ちゃんはまだ残るの?」
椅子に背をもたれかけて少しだけ休憩していると、同期の美桜(みお)が声を掛けてきた。明るくて可愛い、男子社員からも人気が高い女の子だ。
「明日から連休だから、今日中にメド付けておきたい仕事が残ってるの」
「ホント、充希ちゃんは頑張り屋さんだよねえ」
美桜が半分呆れたように言う。でも、実の所は私なんて大した頑張り屋じゃない。この会社には、私よりもずっと頑張っている社員なんていくらでもいる。
「私たち女子社員なんて所詮は男子社員のお嫁さん候補として採られてるんだから、あんまり頑張り過ぎても疲れるだけだよ」
これは美桜がよく口にするセリフ。まあ、これに関しては残念ながらあながち間違っていないような気がしないでもない。男子社員が言えば問題だろうけど、現実として総合商社は女子社員を男子社員のお嫁さん候補として採用しているという面はあると思う。実際に私の周りでも、「定年までバリバリ勤め上げたい!」なんて言ってる女子社員なんていない。
「充希ちゃんも仕事なんかにかまけてたら、すぐ手遅れになっちゃうよ。結婚ってのはいい男を取り合う椅子取りゲームみたいなものなんだから」
「…何それ」
今のは初めて聞いた。まあ、分からなくもない表現だけど…
「ところで話は変わるけど、この日曜日に達也くんの試合があるの知ってる?」
「あ、そうだっけ」
もちろん知ってるけど、何となく知らなかったふりをしてしまう。
達也と付き合ってるって事は誰にも言ってない。達也と知り合いだという事すら言ってない。そんな事は別に公言する必要も無いと思ってるから。
「明後日の日曜夜8時から、REAL無差別級グランプリって言って、日本で一番強い男を決める大会の1回戦なの。見逃し厳禁だよっ!」
「はいはい」
美桜は達也の大ファンだ。信者と言った方がいいかもしれない。彼氏がいるにもかかわらず達也だけは特別なんだそうで、こうして試合の度にちょっとした布教活動が行われる。
でも、美桜が布教活動をするまでもなく女子社員の中での達也の人気は絶大だ。達也が嫌いだという声を、私はいまだかつて誰からも聞いた事が無い。
「達也くんってあんなに強くてカッコいいのに、女性の噂が全く無いっていうのも凄いよね。本当に格闘技一筋、ストイックに頑張ってる証拠だよ」
「…ちょっと前にどっかの女子アナと噂になってなかった?」
「ああ、あれは酷いガセ。一枚も写真無かったし、達也くんは名誉棄損で訴えていいレベルだよ」
噂を一蹴する美桜。ちなみに私は美桜ほど簡単にガセだと一蹴できなかったから、この件に関しては達也をガン詰めした。そして一応、シロだと結論付けてあげた。一応だけど。
「とにかく達也くんは、絶対に変な女にだけは引っかからないで欲しいよね。女子アナみたいな自意識過剰のヨゴレは本当に近付かないで欲しいよ。少なくとも、達也くんをしっかりと支えてくれる人でないと」
「……」
何も言えず、口をつぐんでしまう。
達也を支えてる自覚、ゼロだから…
「私はT大王の鈴木ひかりちゃんとかがお似合いだと思うな。頭も見た目もすごく良くて人間的にも謙虚で、彼女なら達也くんをしっかりと支えてくれそうじゃない?」
「まあ…」
思わず、脳内で自分と鈴木ひかりちゃんを比べてしまう。もちろんテレビでしか見た事ないから人となりはよく分からないけど、確かに可愛くて優秀で、人間的にも素晴らしいイメージで…
…私が勝ってるとこなんて、無いな。
「というかそこまで好きなら、美桜も頑張ってアプローチしてみたらいいんじゃないの?」
「そんなのどうやってするっていうのよ?」
「分かんないけど…顔写真入りのファンレター送ってみるとか?」
「適当な事言わないでよ。そんなの無視されて終わりに決まってるじゃない」
と、美桜が言うのを聞いて、思う。
もし、私と達也が付き合ってるって彼女が知ると、果たしてどんな反応を見せるのだろうかと。
羨むのか、妬むのか、それとも何でアンタみたいな女が…と言われちゃうのだろうか。
少なくとも、好意的には受け取られないだろうな…
「とにかく、明後日は絶対に試合を見る事、分かったっ?」
「はいはい、見ます見ます」
…まあ、言われなくても見るけど。
REAL無差別級グランプリ。今最も実力と勢いがある8人の日本人選手がトーナメント戦を行い、日本一を決める大会。
達也は優勝候補筆頭に目されていた。本当に凄い事だと思う。多くのファンが日本一強い男は達也なんじゃないかと考えてるっていうんだから。実際に優勝できるかどうかは分からないけど、もうこの時点で、達也は私なんかと釣り合うレベルの人物じゃないように思えてしまう。美桜の言う通り、確かに達也にはT大王の鈴木ひかりちゃんがお似合いなのかもしれない…なんて思えてしまって。
そして、そんな達也の最大のライバルと目されているのが、金田悠希。1年半前の大晦日、達也が狙いすました膝蹴りで撃退した相手。
金田悠希はあの試合以降、一度も負けていないらしい。今回は絶対に達也にリベンジするんだと、それこそ顔面が変形するぐらい殴りまくってやるんだと意気込んでいる…VTRではそう紹介されていた。何とも、何ともおぞましいVTRだ。
達也を応援する身としては、できれば戦うのは避けて欲しい相手だ…そんな事を思いながら試合を眺める。何試合かの前座試合の後、ついにREAL無差別級グランプリが開幕した。1回戦の第1試合と第2試合が行われ、それぞれ私の知らない選手が勝ち上がる。
そして第3試合…の前に、グランプリに関係の無い試合が1試合だけ行われた。
その試合に登場したのは金田陽希。金田悠希の弟だ。解説者の話によると、この陽希も最近メキメキと力を付けていてグランプリに出場するだけの力は十分にあるけれど、勝ち上がると兄の悠希と対戦してしまう可能性があるから今回は出場を避ける事になったのだという。
そんな金田陽希は…確かに強かった。
試合は序盤から金田陽希が圧倒し、あっさりとKO勝利を飾った。相手があまり大した事ない選手だったのかもしれないけど、金田陽希のパンチはキレがあり、身のこなしも軽やかだった。試合そのものも金田の名に似つかわしくないほどにスマートで、兄とは違う綺麗なファイトスタイルだった。
試合がグランプリに戻る。1回戦第3試合、金田悠希が登場。
金田悠希は…やっぱり強かった。
荒々しいファイトスタイルでペースを握り、優勢を維持したまま1ラウンドが終了。2ラウンド開始早々に相手に馬乗りになってパンチを連打、試合終了のゴングが打ち鳴らされた時には相手の顔面は血まみれになっていた。本当に野蛮というか、見るのも不快になる試合だった。
そしてついに本日のメイン、1回戦第4試合…の前に、テレビは一旦CMへ。
すると、まだ試合前だというのに、達也が画面に現れた。
スポーツドリンクのCM。達也が人気若手女優の高橋ひかりちゃんと共演している。ひかりちゃんが達也に憧れる後輩を演じているというような設定だ。
こういうCMを見ると、芝居だと分かっていてもちょっと複雑な気持ちになる。だってひかりちゃんは私なんかよりもずっと可愛くてキラキラしてるから。
ひかりちゃん…そうか、彼女もひかり…か
もし鈴木ひかりちゃんや高橋ひかりちゃんが本当に達也を好きで、達也に本気でアプローチしたら…
私なんか、どっちのひかりちゃんと比べても、全く話にもならないな…
CMが明けて、いよいよ達也の試合が始まる。他の試合とは歓声のケタが違う。
相手の選手は、体格が達也より一回り小さかった。何でも今大会を開催するにあたって70kg以下の選手を対象とした予選を行い、そこで優勝して出場権を得た選手なのだという。解説者が言うには中量級日本一の実力と言って差し支えない選手で、寝技に持ち込みさえすれば体重差はあまり関係が無くなるから達也としても決して侮れる相手ではない、という事だった。
でも、試合はそんな解説をよそに、開始直後からずっと達也のペースで進む事になる。
達也の動きはこの日も抜群だった。正確かつ素早い攻撃で相手を寄せ付けない。そもそもリーチが全然違うから相手は寝技に持ち込むどころか達也に近付く事すらままならない。
そして1ラウンド3分過ぎ、試合を決めたのは、やっぱり達也の足だった。
時に卑怯とすら言われる、達也の長い足。完全に相手の間合いの外からの筈だったのに、硬い足の甲の硬い部分が、脇腹の柔らかい部分を深々と抉(えぐ)って。
苦しそうな表情で相手がその場にうずくまる。達也は一瞬だけ追撃する素振りを見せたけど、でもすぐに思いとどまってぴたりを動きを止め、もう攻撃を加えようとしなかった。
うずくまる選手の元へとレフェリーが駆け寄り、試合続行の意思を確認する。でも確認するまでもなく、試合続行は誰がどう見ても不可能だった。
一滴の流血もない、完成されたアートのような試合だった。最後、顔面じゃなくて脇腹を狙い打ったのは、不必要に相手を痛めつけないでおこうとしたからじゃないだろうか…相手の体重を考慮して、手加減してハイキックを封印してあげたんじゃないか…そんな事まで思わせるような、余裕たっぷりの勝利だった。野蛮な金田悠希なんかとは全く違う、達也の圧倒的な人気の理由が凝縮されたような試合だった。
これで一歩、達也は日本最強の男という称号に近付いて。
同時にまた一歩、私から遠い所へと行っちゃったような、そんな気がした。