―充希―
「…キックボクシング?」
「そう、キックボクシング」
達也が言う。キックボクシングを始めてみた、と。まるで何かの動画のタイトルみたいな言い方で。
「何でキックボクシング?空手じゃなくて?」
「空手は辞めたって言ったじゃん。まあ新しいチャレンジかな」
「新しいチャレンジって、空手もキックボクシングも似たようなものじゃない」
「分かってねーな、全然違うぞ。野球とソフトボールぐらい違う」
その真意は、キックボクシングはプロ(=お金を稼げる)けど、空手はアマチュア(=お金を稼げない)って事らしい。まあ、ファイトマネーはお小遣い程度の微々たるものみたいけど。
何にしても、達也とキックボクシングの取り合わせが私には全くピンと来なかった。違和感しかないというか…達也を近くで見続けてきた私にとっては、空手は達也の季語のようなものなのだ。
「でも、何で今になってキックボクシングなんて始めようと思った訳?」
「それが、最近プロの格闘家の人とスパーリングする機会があってさあ」
「何でそんな機会があるのよ?」
「ま、それは大したきっかけじゃなかったんだけど」
と、曖昧にぼやかして。
「充希もよく知ってる通り、俺って最強じゃん?スパーリングでプロの選手を瞬殺しちゃったんだよなこれが」
「…は?」
「大事な所だからもう一回言うぞ。プロの選手を瞬殺しちゃったんだよ」
「はいはい、私相手に見栄を張らなくていいから」
「結構手加減してあげたんだけど、それでも楽勝でさ。充希にもぜひ見て欲しかったなあ」
達也が自慢げに言う。でも、おそらく嘘じゃないんだろうなというのは想像できた。達也はそんな下らない嘘をつくような人間じゃないから。
「それで、これなら結構やれるんじゃないかと思ったから、ちょっとやってみる事にしたってとこかな」
「何か軽いね」
「面白くなけりゃすぐに辞めるし。空手の時だって何気なく始めた訳だからな」
そう。達也が空手を始めたきっかけは『強くなって女の子にモテたい』という、何ともふざけた理由なのだ。まあ、何かに打ち込む動機が異性にモテたいからっていうのは、男の子としては有りがちな事なのかもしれないけど…何にしても、実際に強くなって女の子にモテるという目標をしっかりと達成してしまったんだから呆れるしかない訳で。
「それで、試合はいつなの?」
「まだ始めたばっかだから全然決まってないから、もうちょい先になると思う」
「ふーん。決まったら絶対に教えてよね」
「言われなくても教えるって」
達也とキックボクシング…やっぱりどう考えても似合わない取り合わせに思えてならなかった。道着を脱いで戦う達也の姿が想像できない。
でも、達也がもう一度格闘技の世界に身を投じると聞いて、少し嬉しく思ったのは確かだった。
負けたままで辞めちゃうなんて、悔しすぎるから。
それに何より、達也は戦ってる姿が絶対に一番カッコいいから…
………………………………………
達也のデビュー戦は9月の終わりの日曜日、いくつかの格闘技団体が共同で開催している『knock out』というキックボクシングイベントがその舞台だった。
ネットで検索してみると、すぐに『knock out』の公式ホームページを見付ける事ができた。もちろん私は全く聞いた事が無かったけど格闘技の世界ではかなりの歴史を持つ大会だそうで、キックボクシング限定のイベントとしては国内有数のレベルを誇るとファンからは認知されているようだった。
ホームページ内では9月末の大会で行われる試合の全対戦カードが発表されていて、その第一試合に達也の名前があった。ただ、掲載されているのは達也の名前や生年月日といった簡単なプロフィールだけで、空手家時代の実績等は全く紹介されていなかった。
一方、相手選手は簡単なプロフィールの他に、プロとしての戦績が紹介されていた。それによると20歳の日本人選手で、キックボクサーとしての戦績は3勝1敗。試合のプレビューには『新進気鋭の若手同士による注目の一戦』と記されていた。
キックボクシング界の慣例とかは分からないけど、私としては達也に不利な試合なんじゃないかと思えてならなかった。だって達也はこれがデビュー戦なのに、相手はプロのリングでもう4戦もしているのだから。しかも3勝1敗と2つの勝ち越し、きっとかなりの有力選手だ。どうしてデビュー戦からこんな強そうな相手と試合をしなきゃいけないのか。こっちがデビュー戦なんだから相手もデビュー戦の選手であるべきだし、そうでなければせめて勝率5割以下の相手を当ててくれないと…そう思えてならなかった。
しかも、試合会場は東京だった。仕方がないとはいえ、達也にとってはアウェー戦だ。やっぱり何から何まで達也にとって不利な試合だった。
そして、私にとって何より重要なのは、どうやってこの試合を観戦するのかという事だった。
達也の再起戦…というより新たなデビュー戦なのだから、試合を見ないなんて選択肢は有り得ない。とはいえ、どんな雰囲気かも分からない格闘技のイベントを一人で東京まで見に行く勇気はさすがに出なかった。達也がいてくれたら強引にでも誘うのに…そんな意味の分からない事を思いながら、私はチケットの購入を躊躇し続けた。
ところがよくよく調べてみると、『knock out』は某動画配信サイトと業務提携していて、試合の様子はそちらで生配信してくれるという事が分かった。配信を見るためには月額980円という利用料金を払わなければならなかったけど、観戦チケットに比べればずっと安い。それに、他のドラマやアニメも見放題になるらしいから、まあ許せるだろう。早速有料会員登録して、試合の日を待った。
そして、試合の日はあっという間にやって来た。