金田悠希は、対戦相手を深く研究して緻密に作戦を練るタイプではない。試合前はあくまで相手のイメージを大まかに頭に入れておくだけ。打撃系の選手なのか、寝技が得意なのか、構えはどっちの足が前なのか、グラウンドではどの技を自然にかけてくるのか…それらを何となく確認する程度である。
だが今回の試合にあたっては、達也の試合を何度も何度も見返した。もちろん、REALの舞台で唯一の敗北を喫した2年前の試合も含めて。金田の格闘家人生で、一人の相手をここまで深く研究したのは初めてだった。それだけ彼にとって、小野達也は絶対に倒さなければならない相手だったのだ。この試合に懸ける意気込みという点においては、あるいは達也よりも金田の方が強かったと言うべきかもしれない。
達也の試合を何度も繰り返し確認する中で、金田はある結論に達した。
それは、小野達也は紛れもなく強い選手である、という事だ。
達也の世間からの人気は圧倒的だ。だがそれは格闘家としての純粋な実力に支えられたものというよりも、パクや金田といった大悪役を倒して国民の期待に応えたという経歴や、爽やかなルックスや明るく謙虚な人間性による所が大きい。事実、ファンに達也の魅力を問うと、格闘家としての実力よりも顔や人間性を挙げる声の方が多い。スーパーヒーローに昇華して以降、比較的楽な試合が組まれているのも事実である。だから金田も、小野達也など人気先行型の選手に過ぎないと思い込んでいた。
だが、映像をじっくりと見れば見るほど、達也は強かった。打撃は文句なしに一級品、しかも手足が長く懐が深いために、相手はタックルに行こうにも組み付く事さえ難しい。特に柔道王の秋本翔一を退けたグランプリの準決勝は、達也の強さが凝縮された試合だった。秋本のタックルはことごとく切られ、逆に鋭い打撃を浴び続けた。グラウンドに持ち込む能力という点においては、秋本は日本で1、2を争うだろう。その秋本が寝技に引き込めなかったという事はすなわち、達也を相手にタックルを成功させる事は極めて至難のミッションであるという事に他ならなかった。
そして、不用意なタックルには膝蹴りが待っている。あの膝蹴りは偶然だったという声は今もって多い。金田自身もそう思っていた。とんでもない不運に見舞われてしまった、と。
だが何度も映像を見返した今、金田はもう、認めざるを得なかった。あの膝蹴りは決して偶然などではなく最初から狙っていたもの、達也が撒いた餌に自分自身がまんまと食いついてしまったのだと。
だから、もう舐めない。小野達也という選手の強さを認めた上で、きっちりをリベンジを果たす。
そのために金田が持ってきた作戦は、端的に言うと、自分から攻めないという事だった。
自分からのタックルは危険。達也の懐は深く、膝蹴りなどの反撃を喰らう危険性も高い。だから無理には攻めず、焦らずカウンターを狙う。達也が攻撃を仕掛けてきた時…特に不用意な蹴り技を見せた瞬間に、その足を取ってグラウンドへと持ち込む。そのためには何発か浅いローキックをもらう事は覚悟しよう。しかしどこかで一度捕まえてしまえば、もう勝負はこっちのもの…それが、金田が準備してきた作戦だった。
そんな金田の作戦もあって、試合は静かな展開が続いた。どんな相手を前にしても怯まず前進して荒々しい攻撃を繰り出す金田にしては、信じられないほどに慎重な戦い方だった。そんな金田の姿に、興奮気味だった観客の歓声も徐々に小さくなってゆく。この試合は特別なのだ、日本格闘技界2大スターの因縁の決着戦にして、日本最強の男を決める戦いなのだ。リング上の緊張感はいつしか会場全体を包み、さらにはテレビを通じて日本中をも包み込んだ。常に勇猛果敢、自ら突進するように前に出る金田悠希がじっくりと達也の隙を窺いカウンターを狙う姿は、あまりにも不気味だった。
もちろん達也は、そんな金田の不気味さを誰よりも感じ取っていた。
だが、達也はあくまで冷静だった。なぜなら達也は、金田がこのような戦術を…つまりはタックルを封印してカウンターを狙う戦術を立ててくる可能性は高いと考えていたのだ。
金田に2年前の膝蹴りの残像が強く残っている事は容易に想像できる。そして何より、金田はこの試合にとてつもない意気込みで臨んでいる。それこそ…殺してやるというくらいの意気込みで。人間というものは、勝ちたい気持ちが強ければ強いほど逆に慎重になる。そんな心理を達也はしっかりと分かっていた。
だから、不気味さは感じつつも、怖さはない。冷静に、クールに、準備してきたプランを実行するだけ。
それはやはり、距離を取りながらのローキックだ。だがこのローキックは、決して金田にダメージを与える事を目的として打っている訳ではない。言わば見せ技。足を取られない事を最優先にした、スピード重視の試し打ち。
そんなローキックが何発かは当たり、何発かは空を切った。さらに達也は、数発に一発はハイキックを織り交ぜる。だがこれも、クリーンヒットを狙ったものではなく言わば牽制球。あくまで金田の意識を上にも向けさせるための見せ技である。
金田が足を取ろうとするシーンも何度かあったが、その度に達也は体を引いて組み付きを許さない。まるで手押し相撲のような駆け引きが延々と続いた。一瞬の隙も許されない、どちらかの精神が少しでも弛緩すればその瞬間に試合が終わってしまうような緊張感。
そんな張り詰めた空気の中、あっという間に10分が経過し、1ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされた。
ゴングの音を聞いて、観客だけでなく日本中のファンがふうっ、と息をついた。ひと時だけでも緊張感から解放されたという安心感に、皆少しばかり身を委ねる。見ているだけで心拍数が上がるような緊迫した試合に、自然と酸素が不足しそうになるのを感じながら。
そしてこのゴングの瞬間をもって、達也のデビュー以来の連続1ラウンドKO記録は28で途絶えた。完全数、28。このまま連勝記録も28で途絶えてしまうのではないかと、充希の不安はまた増幅する。
ただ、ここで一つ言えるのは、連続1ラウンドKO記録が途切れた事を達也は全く何とも思っていなかったが、逆に金田は残念に思っているという事だった。
というのも、金田は勝負所があるとすれば1ラウンドの終盤だと考えていたのだ。達也の連続1ラウンドKO記録は日本中が知る大記録だ。達也本人は全く意識していないとよく口にしているが、本心では意識していない訳がない。なので1ラウンド終盤になれば、KOを狙って強引な攻撃を繰り出してくるだろう…そう考えていたのだ。
だからこそ青コーナーに戻った金田は、1ラウンド終盤になっても全く戦い方を変えなかった達也に驚いていた。代名詞とも言える1ラウンドKOの誘惑を一顧だにせず断ち切って勝負に徹する達也に、改めて勝負師としての強さを感じずにはいられなかった。この男は本物だ…だからこそ、逆に俺が焦ってはいけない。俺はあくまで、奴の隙を窺うんだ…と。
一方の赤コーナー、セコンドに陣取るのは晴香と、この日の第1試合で華々しいREALデビューを飾った香菜である。
コーナー際に用意された椅子に腰掛ける達也。その体をタオルで拭きながら、晴香が聞いた。
「どうだった達也くん?金田悠希と2年ぶりに拳を交えてみて」
「うん、そうですね」
しかし、その質問に達也は答えずに。
「ところで晴香さん、もしここで試合終了だとしたら、判定はどっちに上がりますかね?」
「えっ…」
唐突な逆質問に一瞬戸惑った晴香だったが、すぐに冷静になって。
「絶対にどっちか決めろと言われれば達也くんだと思うけど、恐らくエキストララウンド(延長戦)になるんじゃないかな」
香菜もそれに同意した。ここまで達也も金田も全くと言っていいほどダメージは無かったが、第1ラウンドを公平に見た時、達也のローキックは浅いとはいえ何発か当たっていたが金田の有効打は皆無だった。また、金田が足を取ろうとするのも軽やかにかわし続けた姿からも、試合をコントロールしているのはどちらかと言えば達也の方と見るのは妥当だった。
とはいえ、その差はほんの僅かだ。これがボクシングのようにどんなに接戦のラウンドでも優劣をつける事が原則とされている試合なら、達也の判定勝ちになる可能性は高いだろう。だがREALでは、明確な差が無い場合は優劣をつけない。ましてやこの試合は日本一強い男を決める決戦、数発の浅いローキックの差で勝敗が決まるような結末は誰も望んでいない。なので第2ラウンドもこのままの展開なら、判定では決着がつかず延長戦となる可能性は極めて高かった。
だが達也は、そんな2人の意見を聞いても焦りは全く無かった。現時点で自分が少しでも劣勢なら、それは当初から思い描いていたプランの修正を余儀なくされる事態だった。大きな優勢を築く必要はない。51対49でもいいから、シーソーの傾きがほんの少しでも自分側に来ていればいい、そう考えていた。
「晴香さん、さっき聞いてましたよね。2年ぶりの金田はどうだったって」
「え、ええ」
「さすが日本を代表する選手ですよ。前よりも威圧感は増してますね」
「そ、そう…」
金田を警戒するような言葉に、一瞬だけセコンドに緊張が走る。
しかし達也は、自信満々の表情で。
「でもね、この2年間で強くなったのは…むしろ俺の方です」
ところでこのインターバルの2分間、日本全国の水道使用量は信じられないほど大幅に増加した。このタイミングを逃すまいと、全国の視聴者が一斉にトイレに駆け込んだのだ。
人々がトイレからテレビの前に戻り、セコンドアウトの声が響き渡る。
達也のハイキックが決まるのか、金田が寝技に持ち込んで関節技を極めるのか、それとも膠着した展開のまま判定へともつれ込み、延長戦へと進むのか…
日本中が固唾を飲んで見守る中、第2ラウンド開始のゴングが鳴り響いた。