8月16日(日)
REALにとって、毎年8月に開催される大会は大晦日に次ぐ規模のイベントである。格闘技界の真夏の祭典には、今年も豪華な顔ぶれが揃った。
ただしその中に、昨年行われたREAL無差別級グランプリ準優勝者である金田悠希の名前は無かった。年初に敢行した道場破りで達也に惨敗した代償は大きく、特に精神的なダメージが甚大で半年以上が経過した今もまだトレーニングにすら復帰できていないような状態だった。日本格闘技界の先頭を走り続けた金田悠希がREALの8月大会に出場しないのは実に6年ぶりの事であり、時代の移り変わりを象徴していると言えた。ちなみに金田悠希は、この後まもなく復帰を断念し格闘家人生を終える事となる。
しかし、かつての看板選手を失ったREALだが正直言ってこれっぽっちも痛くなかった。人気選手とはいえ所詮は悪役でしかなかった金田悠希に代わって、今や完全無欠のスーパースターがリングを支えてくれているのだから。
新時代の絶対王者、小野達也。もちろんこの日もメインイベンターとして登場である。
今宵のルールは総合格闘技、そして対戦相手はゲーリー・トンプソンという黒人選手だった。『怪力王』の異名を持ち、剛腕をぶんぶん振り回すアグレッシブなファイトスタイルが特徴の選手だ。実績的には中の上といった所でトップ中のトップ選手とは言えないが、攻撃一辺倒で一発を持っている選手でもあり、事実これまでその剛腕でトップファイターを一撃KOしてしまった事も何度かある。やるかやられるかの戦いっぷりでファンからの人気も高く、達也としても決して侮れない相手だった。また、達也が総合格闘技ルールで外国人選手と戦うのは実はこの試合が初めてであり、そういった点に関しても注目を集めた。
そんな強敵との試合に臨むにあたって達也は…これ以上なく集中していた。絶対に勝つ…それもKOで勝つ…自分が心を入れ替えて必死に頑張ってきた姿を周囲のみんなに…特に充希に見てもらうんだ、と。実際に達也は、充希の説教を頂戴してからは心を入れ替え、例の公開スパーリングも中止してストイックにトレーニングに打ち込んできた。言うまでもなくひかりからの誘いも全て断り、種付けの回数も極力減らした。この試合そのものにはタイトルがかかっている訳でもないのだが、勝ちたいという気持ちはかつてのパク戦や金田戦に勝るとも劣らなかった。
加えて達也は、この試合に関しては勝ち方にも徹底的にこだわりたいと決めていた。
トンプソンは立ち技での打撃を得意とする選手だ。だが逆に、グラウンドでの寝技にはあまり自信を持たない選手でもあった。それはトンプソンの実績からも明らかで、REALのリングで何度も勝利を飾っているトンプソンだが、その中に寝技でタップを奪っての勝利は一つもなく、勝ちパターンは全て打撃でのKOか打撃で押し込んでの判定勝ちである。また、負ける時は決まってグラウンドに引きずり込まれての寝技決着だった。
だから達也としては、確実に勝ちを拾いに行くのであれば立ち技での攻防を避けて寝技に持ち込むのが最も有効な戦法であると言えた。今や達也の寝技技術はトップ選手に勝るとも劣らない。なのでグラウンドの攻防に持ち込みさえすれば、達也が圧倒的に有利だ。
だが、達也の考えは全く逆で。
安全に勝とうなんて思わない。トンプソンが打撃自慢か知らないが、俺だって本来は立ち技の選手。相手の得意ジャンルを正々堂々と迎え撃って、完膚なきまでに返り討ちにしてやるぜ…!そんな決意を胸に、達也はこの試合に臨んでいたのだ。
そして、試合開始のゴングが鳴る。
独特のステップでトンプソンが体を前後させる。達也は慎重に距離を保ちつつ、長い足を利したローキックを放つ。まずはお互いに様子を見るような、そんな静かな展開から試合は始まった。
と、その時だった。
「っ……!?」
トンプソンの深く鋭い踏み込みと共に、豪快な右フックが達也を襲った。ブン!という空気を切り裂く音と共に飛んできたその拳を、達也はとっさにスウェー(上半身だけを後ろに引く動作)でかわす。
だが完全にはかわしきれず、右フックが達也の左頬をかすめた。その瞬間、頬の皮膚がピッと切れる。
油断していた訳ではないが、正直言って想像できていなかった右フックだった。というのも、達也はトンプソンとの距離を十分に取っており、とてもパンチが届くような間合いではなかった筈なのだ。想像の外から飛んできた右フックだった、と表現すれば良いだろうか。
恐るべきスピードと、空気を切り裂く音が聞こえるようなパンチの威力に、達也は思わず小さく息をつく。ほんの僅か顔を引くのが遅ければ、その瞬間に意識を失っていてもおかしくなかった…本気でそう思った。同時に、白馬龍と戦った時の自分ならモロに食らってKO負けしてたかもしれないな…とも。
でも、この日の達也は違う。今日の達也は、極限まで集中力を高めた最強の達也なのだ。
トンプソンが2発、3発とパンチを繰り出す。さすが何人ものトップ選手を葬ってきた実績は伊達ではない、即KOに繋がりかねない豪快なパンチが次々と繰り出される。
だが達也には、全て見えていた。もっと正確に言うなら、最初の1発でトンプソンが繰り出す打撃のスピードや軌道を、もう完全に見切ってしまっていた。なので頬をかすめたのは最初の1発目だけ、2発目以降はその全てが虚しく空を切り続ける。
トンプソンがその太い腕をどれだけ振り回しても、達也には全く当たらない。当たる気配すらない。豪快な空振りを続けるトンプソンと、それを華麗にかわし続ける達也。リング上で繰り広げられるあまりにもエキサイティングな光景に、客席から自ずと大歓声が巻き起こる。
しかし達也には、大歓声は全く聞こえていなかった。かわりに、物凄いスピードを誇る筈のトンプソンの拳が、徐々にスローな動きへと変わっていくような感覚を覚え始めていた。極度に集中力が高まった状態を『ゾーンに入った』と形容する事がある。達也はこの時、まさにゾーンに入っていた。元より高まっていた集中力が、一発当たれば即終了というトンプソンの恐るべきパンチの連打によってさらに研ぎ澄まされた結果、究極の集中状態を作り上げていたのだ。
達也から見えるトンプソンの動きは、もう完全にスローモーションだった。当たる気がしない。トンプソンのパンチが作り出す空気の流れる音が聞こえ、それに乗るようにしてトンプソンの呼吸の音まで聞こえるような感覚。
そして、その呼吸のリズムを掴んで、トンプソンが息を吸った瞬間を計って――!
―――ゴンッッッッッ!!!!!
達也の右フックが、トンプソンの顎を捉えた。狙いから前後上下左右1ミリのズレもない、完璧すぎる一撃。
その直後、トンプソンの全身から力が抜け、瞳はぐるりと上を向いた。
そして、ドサリとその場に崩れ落ちる。
鮮やかな失神KO劇だった。しかもトンプソンを失神へと導いた一撃は達也がその日初めて繰り出したパンチだった。
本当の意味での一撃KO。あまりにも衝撃的なフィニッシュだった。
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試合の直後には、いつも達也のスマホには知り合いから大量の祝福メールが届く。もちろんこの日もそうだった。
だが控室に戻ってスマホを手にした達也は、そんな大量の祝福メールはとりあえずスルーして、真っ先にある人物へとメールを送った。
その相手はもはや言うまでもないだろう。愛する彼女である。
「見てくれた?今日勝てたのは充希のおかげだよ。
いつも応援してくれてホントにありがとうな!」
試合後に達也が充希へメールを送るのは、実はこの日が初めてだった。普段はこういうメールは恥ずかしくて送れなかったのだけど、この日ばかりは充希の反応を確かめたかったのである。
いや、反応を確かめたかったのではなく、純粋に感謝の気持ちを充希に伝えたかったと言うべきかもしれない。あの時叱ってくれてありがとう…おかげで俺、心を入れ替えて頑張る事ができたよ…とはさすがに言えなかったけど。
すると少しして、充希からの返信が。
「カッコ良かったよ。おめでとう!」
充希らしいシンプルなメールだった。
でも達也にとっては、大量に送られてくる絵文字たっぷりの祝福メールよりもこのシンプルなメールの方が圧倒的に嬉しかった事は言うまでもなかった。
タイトルを「全集中の呼吸」にしようか迷いました。