達也の状態を回復させるべく晴香をはじめFAILYのスタッフはあらゆる手段を必死に模索したが、試合まで1か月を切った2月下旬になっても、達也の調子は一向に上向く気配を見せていなかった。最近になってようやく体重は下げ止まりの傾向が見られたものの、それでも昨年の大晦日の時と比べると15kg近くも落ちてしまっていた。人間の体というものは十分な栄養が補給されないと、自身の筋肉を分解して栄養を造り出す。つまり達也の体重減少分は、すなわち筋肉の減少分に他ならなかった。そんな状態だからトレーニングの様子も散々で、ミットを打つパンチは力無く、スパーリングでは無気力な戦いを繰り返していた。
達也の気持ちは、もはや試合に向かっていなかった。実際、この時の達也の脳内は後悔と自責の念で埋め尽くされていた。どうしてこんな事になってしまったんだろう…どうしてここまで充希に嫌われてしまったんだろう…やっぱりひかりちゃんを部屋に連れ込んだのが一発アウトだったのか…どうしてあんなバカな事をしてしまったんだ…と。
残り1か月を切った試合の方に頭を巡らせても、今回ばかりはさすがに負けるだろうな…としか思えなかった。でも、自分が惨敗する姿を想像しても、やっぱり戦う気力は全く湧いてこなかった。充希というかけがえのない存在を失った今、戦う意味を見出す事はどうしてもできなかった。
そんな心身共にボロボロの達也に何とか救いの手を差し伸べたいというのは、晴香のみならずFAILYのメンバー全ての思いであって…
「達也さん、ちょっといいですか」
ある日のトレーニング中、その日も全く元気が無い達也に香菜が声をかけた。
一昨年の大晦日に1ラウンド勝利で鮮烈なREALデビューを飾った香菜はその後も着実に力を伸ばし連勝を重ねていたのだが、彼女の成長に大きく貢献したのが何を隠そう達也の存在だった。というのも柔道出身の香菜は打撃に苦手意識を持っていたのだが、寝技を教わったお返しにと達也が打撃を指導するようになり、それをきっかけに打撃スキルは見違える程に向上。元々持っていた寝技スキルに加えて達也直伝の打撃がミックスされては鬼に金棒で、今では国内の軽~中量級女子総合格闘家の中でも指折りの実力者と目される程になっていた。
そんな香菜はこの週末に、自身が主戦場とする『Queen Jewels』のフライ級タイトルマッチに挑戦者として臨む事が決まっていた。香菜にとっては待ち望んでいた初めてのタイトル戦で、何が何でも勝ってベルトを手にするんだと死に物狂いでトレーニングに励んでいる所だった。
だから達也も、香菜に声をかけられた時には「打撃を指導して欲しい」というお願いなのかなと思ったのは当然だった。
ところが…
香菜の言葉は、達也の予期していたものとは全く違って。
「達也さん、何があったか知らないですけど、やる気が無いなら帰ってくれませんか?」
「っ…」
思いもしていなかったキツい一言に、達也は何も言えなかった。驚いたのは他のメンバーも同じで、皆練習していた手を止めて2人の方へと視線をやる。
そんな中、香菜が続ける。
「みんな真剣に頑張ってるんです。なのに達也さんみたいにやる気の無い人がいたら士気が下がるし、何よりそんな所でぼーっと座られてたら邪魔なんです」
「……」
何も言い返せない達也。だが、実際に香菜の言う通りだった。今や達也の存在がジム全体の空気を重くし、メンバーの士気を押し下げているのは紛れもない事実だった。
「帰らないっていうんなら真面目に練習してください。何なら私がスパーリングの相手になりましょうか?言っときますけど私だって大事な試合の前だから手加減はしません。本気で締め落としてあげますよ」
「いや、うん…」
やっぱり何も言い返せず、黙って俯いてしまう達也。誰も一言も発さない、張り詰めた空気がジムを覆う。
でも、ようやくゆっくりと立ち上がって。
「ごめん…みんなの邪魔をするつもりは無かったんだ…ホントに申し訳ない」
か細い声で絞り出すようにそう言って、深く頭を下げて。
「悪かった…香菜ちゃん、タイトル戦頑張ってくれよな」
後はもう、とぼとぼとジムを後にするしかなかった。
………………………………………
3月1日、日曜日。香菜が自身初のタイトルに挑戦する日である。
本来なら、もちろん達也も会場入りする予定だった。それどころか、香菜のセコンドに付こうかという話まであった。だが言うまでもなくそんな話は立ち消えとなり、達也は香菜のセコンドどころか試合会場にすら足を運ぶ事ができず、まるで地蔵のように朝から部屋でじっとしたまま動けなかった。
こんな事してちゃいけないとは思う。無理してでも動き出さなければどんどん悪くなる一方だという事ぐらいは分かっている。試合まで1か月を切ってしまっている事も、このまま試合の日を迎えると大観衆の前で惨めな姿を晒してしまう事も重々分かっている。でも、分かってはいるけど、どうしても体が動いてくれなかった。
(そろそろ試合かな…)
達也がちらりと時計を見る。香菜のタイトル戦の開始予定時刻が間もなくに迫っていた。
(さすがに見るぐらいはしなきゃダメだよな…)
団体の公式ユーチューブチャンネルで中継されている試合映像を視聴するべく、達也は重い腰を上げてパソコンを起動させる。すると程無くして、画面には試合会場の様子が映し出された。まさにこれから挑戦者の香菜がリングに上がろうとしている所である。
(お客さん結構入ってるなあ…)
ふとそんな事を思う達也。REAL初出場で見事な勝利を飾った一昨年の大晦日以降、香菜の人気はその可愛らしいルックスもあってじわじわと上昇し、今ではツイッターのフォロワー数も5万人を超え、スポーツ系のメディアに取り上げられる機会も増えてきていた。今日の試合に勝ってタイトル獲得となれば、またREALのような大舞台に出場するチャンスが巡ってくる事もあるだろう。まさに香菜の今後を左右する大一番である。
(もし負けたら、香菜ちゃんには土下座して謝るしかないよな…)
試合前は誰でもナーバスになる。大きな試合の直前ともなれば尚更だ。そんな大事な時期に香菜のメンタルを削ぐような行いをしてしまっていた自分自身の不甲斐なさを恥じながら、達也はじっと画面を見やる。
香菜に続いて、タイトルを保持するチャンピオンの選手が入場する。香菜ほどではないにしても若い選手だ。女性は男性に比べて肉体の成熟が早く、加えてそのピークが短いために、必然的に若い選手が多くなる。これは格闘技だけでなく、ほとんど全てのスポーツに共通する傾向だ。
試合が始まる。まずは両選手が立ち技での打撃を交わす。
達也が見た所、立ち技の技量は両者ほぼ互角といった所だった。香菜の打撃技術は達也の指導の成果もあって格段に上達したが、とはいえ香菜は柔道をバックボーンに持つ選手であり、得意としているのはあくまで寝技である事は変わらない。つまり香菜にとっての立ち技での打撃は、言わば相手をグラウンドに引き摺り込むための引き出しに過ぎない。
だからこの試合も、香菜ちゃんとしては寝技に持ち込みたい所だよなあ…そんな風に思いながら達也はぼんやりと試合を眺めていた。
だが…
試合は、達也の予想したような展開には全く進まなかった。
香菜は徹底して打撃での勝負を挑んだ。途中、組み付いてテイクダウンを狙えそうな瞬間もあったが、香菜は頑としてグラウンド勝負に持ち込もうとせず、スタンド(立ち技)での打撃にこだわり続けた。まるで、達也から教わった打撃でチャンピオンベルトを獲るんだと最初から決めていたかのように。
そんな香菜の気迫に負けじと、相手も拳を振り回して応戦する。見た所彼女も、決して打撃に難のある選手ではない。必然的に激しい打撃の応酬が繰り広げられる。
そもそも女子の試合では、打撃でのKOはほとんど見られない。パワーに劣る女子選手が打撃だけで相手をKOする事は難しく、寝技決着か判定勝負になる事がほとんどだ。だがこの試合に関しては、両選手共に寝技勝負など全く眼中に無いようだった。香菜が打撃勝負を挑み、王者がそれを受けて立った。殴り倒してベルトを奪う…返り討ちにしてベルトを守る…そんなファイターとしての意地がぶつかるように。
「………」
いつの間にか、達也は試合に見入っていた。開始直後こそ「香菜ちゃん頑張れー」とか「俺だったら今のはこうするかなあ…」とか適当な事を考えながらぼんやりと眺めていただけだったが、いつしかそんなそんな軽い気持ちはどこかに消え去って…誤解を恐れずに言うならば香菜を応援する事すら忘れて…2人の女の意地とプライドを懸けた殴り合いに見入っていた。
忘れかけていた感情が、達也の中で少しずつ首をもたげ始める。
そうだ、これは戦いなんだ…
戦いとは…勝利を得るための打算的な戦略を披露する場なんかじゃなくて…
自分の生き様を…自分自身そのものを全力でぶつける舞台なんだ…
試合は5分3ラウンド、その第2ラウンドまでが終わった。激しい打撃の応酬に終始したここまでの10分間の形勢はほぼ互角だった。
そして、決着の最終ラウンド。やはりここもお互いに寝技など頭の端にも無いというように、壮絶な打撃戦が繰り広げられる。
そんな死闘の終止符は、唐突だった。
第3ラウンド開始2分過ぎ、香菜の右フックがチャンピオンの顎をクリーンに捉えた。たまらずチャンピオンがその場に崩れ落ちる。
そこに香菜がのしかかる様にして、2発、3発と打撃を加えた。その瞬間、レフェリーが2人の間に割って入り、ゴングが打ちなされた。
試合終了。『Queen Jewels』フライ級、新チャンピオン誕生。
試合が終わっても、香菜は嬉しそうな素振りを全く見せなかった。というより、まだ興奮の中にいるようだった。
だが、それも束の間。すぐに笑顔が込み上げ、そして嬉し涙へと変わる。努力に努力を積み重ねたものだけが流せる、尊い涙が香菜の頬を伝う。
直後の勝利者インタビューでは、光り輝くベルトを腰に巻いた香菜が、顔を紅潮させながら喜びの言葉を述べて。
その、最後の一言。
「ファンの皆さん、本日は応援本当にありがとうございました!今月末には私たちFAILYのエースが皆さんに素晴らしい試合をお見せしますので、そちらの方も応援よろしくお願いします!!」
FAILYのエース…それが誰を意味するのかを分からない者などいない。観客にとっても…達也にとっても。
「……」
達也がパソコンの電源を落として、立ち上がる。何故だか分からないけど、全速力で息が切れるまで走りたい…そんな衝動に駆られていた。
どうなるかは分からない…もう手遅れかもしれない…でも。
手遅れとか手遅れじゃないとか、勝てるとか勝てないとかはもう関係なくて。
後輩の女の子にあんな熱い試合を見せられて、自分も生き様を見せない訳にはいかない…それは理性や感情を超えた、ファイターとしての…男としての本能だった。
最後数行の描写は作者的にはあまり納得できていないんですが…どう書けばいいか分かりませんでした。
私の文章を超えて、達也の微妙な心情を読み取ってもらえればと思います…