第9ラウンド後半にリング上で繰り広げられた光景は、達也の勝利を願う全ての人々にとって、悪夢以外の何物でもなかった。
――ガスッッ!ゴスッッ!ドスッッ!!ゴスッッ!!
馬乗りになった金田が、達也の顔面にパンチを落とし続ける。重い打撃が嵐のように達也の顔面に降り注ぎ、その度に鮮血が散る。
総合格闘技において究極的に有利な体勢、それがマウントポジション(馬乗り状態)だ。上に乗った者が好き放題に何でもできる体勢と言ってもいい。好きなだけパンチを落とせるし、関節技や締め技を狙う事も容易だ。逆に下になってしまった者は、基本的には為す術はない。下からのパンチは上に乗る者の顔面には届かず、そもそも下からパンチを打とうとすれば自身の顔面がガラ空きになって重いパンチを落とされる。タイミング良く腰を跳ね上げて相手と体勢を入れ替えるという脱出法も一応無い事はないのだが、グラウンドでのポジショニングが確立された現代ではまず決まる事はない。
つまりは、打つ手なし。達也に残された道は、両手で顔面を覆うか、顔を左右に逸らして振り落とされるパンチのダメージを少しでも軽減するぐらいで…
「あがっ…がっ…はっ…!」
両手で顔面を覆って必死に防御を試みるが、金田は達也の防御の穴を縫うようにして、重いパンチを落とし続ける。あるいは顔面を覆い隠そうとする手を払いのけ、また拳を落とす。
「くっ…はっ…あぐっ…くはっ……!」
たまらず達也が顔を横に逸らす。だが、それも全く意味のない行為だ。顔を横に逸らせば今度は横から、つまりは新たに顔の正面となった方向からアッパーのようなパンチが飛んでくる。
金田が装着する青いオープンフィンガーグローブは、いつしか達也の血で赤く染まった。あるいはこの時、金田がその気になれば達也の腕関節を取る事は難しくなかったかもしれない。だが金田は、関節技は狙わずにあくまでパンチを落とし続けた。関節技に移行するという事は、同時にマウントポジションを解くという事も意味する。もし失敗して関節を取れなければ、せっかく得た最高のポジションを失ってしまいかねない。それだけは絶対に避けなければならないと、金田は無慈悲に達也を殴り続ける。
ひとかけらの救いも無い、あまりにも凄惨な光景だった。もうやめてくれ、もういいじゃないか、勝利は金田のものでいい、それ以上やると達也が死んでしまう…悲鳴が会場を包み、何人かの女性ファンはその場で気を失った。試合を中継するテレビの視聴率も、この時間帯に大きく低下した。多くの視聴者が、達也の悲惨な姿に耐えられずチャンネルを変えたのだ。
これが通常の試合なら、とっくにレフェリーが試合を止めていただろう。だが悲しい事に、この試合にレフェリーストップは無い。レフェリーはもうこれ以上試合が続けられるべきではないと感じながら、しかしただ黙って、達也が殴られ続ける様を見守しかなかった。無論、達也が気を失ったと判断したその瞬間には試合を止めるべく準備しつつ。
金田が延々と拳を落とし続ける。顔面の中心へ、頬へ、顎へ。達也が両手で顔面を覆うと、今度は鳩尾(みぞおち)や横腹にまで重いパンチを落とした。特に鳩尾へと落とされるパンチは強力で、落とされる度に達也の目が見開き口から赤い唾が飛んだ。
殴る者と、殴られる者。残酷過ぎるコントラストは、達也が金田悠希の道場破りを返り討ちにした際に繰り広げられた光景にそっくりだった。奇しくも弟の陽希が、兄の敵討ちとばかりに金田家の宿敵に痛烈な打撃を浴びせ続ける。
だが、あの時の光景とは根本的に異なる所もいくつかあって…
「小野さん、ギブアップして下さい」
金田が達也にだけ聞こえるように小声で呟く。無慈悲に拳を落とし続ける金田だが、関節技や締め技に移行しないのはあくまで自身の勝率を0.1%でも低下させるような事をしたくないだけであり、決して達也を甚振(いたぶ)りたくて殴り続けている訳ではなかった。
「さあ、早くタップして下さい。本当に死んでしまいますよ」
拳を落としながらまた呟く。金田の言う通り、このまま殴られ続ければ本当に死んでしまう可能性も無くはなかった。それ程までに、リング上で繰り広げられている光景は凄惨で救いが無かった。
しかし…
「がはっ…!かっ…はっ…くあぁぁっっ…!」
無数のパンチを落とされながらも、達也の目はまだ死んではいなかった。降り注ぐ拳を見据え、僅かでもダメージを軽減させようと必死にガードを試みる。
だが、それも虚しく、金田の拳は達也の顔面を捉え続けた。ゴツッ、ゴツッと不気味な音が響き、鮮血が飛び散る。
レフェリーがちらりと赤コーナーに目をやった。セコンドの晴香に、タオルを投入するよう促したのだ。
本来ならもうタオルを投げ入れてギブアップしなければならない…それはもちろん晴香も分かっていた。だが晴香の手は硬直したように、タオルを掴んだまま動かなかった。投げなければいけない…達也を救わなければならない…それは分かっている筈なのに、でもどうしても投げられなかった。
「晴香さん、何してるんですかっ!このままじゃ達也さんが殺されちゃいますっ!」
同じくセコンドにつく香菜が強い口調で晴香にタオル投入を促す。だが、タオルを持つ晴香の右手はやはり動かなかった。まるで達也の瞳の奥にまだ確かに残る闘志の炎に、その動きを止められているように…
「あぐっ…!はっ…かはっ…!」
しかし晴香が躊躇している間にも、金田の猛攻は続く。ある時間帯から金田は、振り下ろす拳を達也の顎に集中させた。顔面の中心部や頬への打撃は、ダメージを与える事はできても失神には繋がらない。頑としてギブアップしない達也に敬意を表して、金田は顎への打撃で達也を失神させる事を決意したのだ。
重い拳が振り落とされる。時には横から、アッパーカットのようにパンチが達也の顎へと突き刺さる。
だが達也は、必死に顎を引いて金田の打撃を耐え続けた。気力を振り絞って上半身を起こして顔面を金田の体へ少しでも密着させ、ダメージの軽減を試みる。
しかし金田は冷静に、達也の上半身をマットへと押し付け、さらに拳を落とす。そんな光景が延々と、延々と繰り広げられる。
そして、どれだけ拳を落としただろう。達也の顔面を思う存分に殴り続けた金田が、ついに決めに出た。
「小野さん、今、楽にしてあげますね」
地獄からの解放を宣言するように、小さくそう呟いて。
自らの腕を90度に曲げ、達也の喉元へと押し付けた。
「あっ…かはぁぁっっ……」
ギロチンチョークが入り、達也の意識が少しずつ遠くなっていく。ゆっくりとぼやけ始めた視界がだんだんと赤くなり、ついにはホワイトアウトが始まる。
(充希…みつき…みつ…)
その時、だった。
達也の脳裏に、ぼわっと充希の顔が浮かんだのは。
視界はどんどんと薄れていく。でも不思議な事に、充希の顔は対照的に少しずつ鮮明になっていって…
(そうだ…充希のためにも…まだ…こんな所で終われねえっ…!)
最後の、本当に最後の力を振り絞って達也が腰を跳ねて両膝を振り上げた。残された全ての力を使った、最後の抵抗。
それが、金田の背骨にゴンッ、と当たる。
「くっ…!」
思いがけない反撃に、金田の声が上がる。とはいえダメージは全く無い。背中に膝を当てられ、少し驚いただけだ。
だが次の瞬間、白く染まりかけていた達也の視界に鮮やかな色が戻った。ギロチンチョークがずれ、脳に血液が巡ったのだ。
その隙に達也が顎を引き、自らの喉元に自分の腕を当てる。
「このっ…往生際の悪いっ…!」
金田が拳を落としながら、達也の腕を引き剥がしにかかる。が、それを必死に堪える達也。もう一度ギロチンチョークを入れられたら今度こそアウト。ここが正念場とばかり、気力を振り絞って顎を引き、力強い打撃を顔面で受け続ける。
その時、だった。
――ストップ!ストップッ!!
飛び込むようにしてレフェリーが2人の間に割って入り、金田の体を達也から引き剥がした。
(え…え……?)
一瞬何が起こったのか分からず、無意識のままにレフェリーの方へと顔を向ける。
まさか知らない間に一瞬気を失ってて、レフェリーが試合を止めたのか…とも思ったけど。
「…ちっ!」
残念そうな表情を浮かべながら、金田がくるりと背を向ける。それを見て、達也もようやく理解した。
地獄のような第9ラウンドが、終わったのだという事に。
死の淵まで追い込まれながらも、奇跡的な生還を遂げたという事に。
「はあっ…はあっ…はあぁっ……」
とりあえず、仰向けになったまま酸素を補給する達也。だが…
「あふっ……!!」
血液が気管に逆流してしまい、反射的に血を吐き出す。口の中が血まみれなのはもちろん、肺にまでダメージを負っているのではないかと思う程に体はボロボロだった。
「達也くんっ…!」
セコンドの晴香と香菜が駆け寄る。本来セコンドは試合中にリングの中に立ち入る事は認められていないが、とてもそんなルールを守っている場合ではなかった。
「達也くんっ、大丈夫っ…?」
「え…あ…」
ヨロヨロと起き上がり、抱えられるようにしてセコンドへと戻る達也。その途中、口や顔面からボトボトと血が零れる。
すかさずドクターがチェックに入り、止血が行われる。幸いにも血管に損傷は無いようで、見た目の流血はとりあえず収まった。
とはいえ体は満身創痍。危機的状況なのは誰の目にも明らかで。
(はあっ…はあっ…くそっ…)
冷静になりながら、達也は自分自身の現状を確認する。少なくとも顎とアバラがイカれているのはすぐに分かった。
だが、何とか正気を保っていられるのは複数箇所の骨折による激痛のおかげな気もした。つまりは、気も失えないぐらいの痛みが全身を駆けていた。
「達也くん…ごめんなさい…」
晴香が申し訳なさそうに言う。その2つの単語の間に「タオルを投げなくて」という言葉が省略されている事はもはや言わずもがなだった。
そして、続ける。
「もう、ここで終わりにしましょう」
それが賢明な判断であるという事は達也自身も分かっていた。骨折した顎は閉じる事ができず、はあはあと荒い息に混じるようにぽたりと血が垂れる。
だが。
「ここで止められちゃ…何のために今のラウンド頑張ったのか分かんないっすよ」
「……」
晴香は何も言えなかった。悪夢の第9ラウンドでタオルを投げなかった自分に、もはやこの試合を止める権利など無いと分かっていたから…
インターバルの2分間が終わりに近づく。達也にとってはあっという間の、人生で最も短い2分間が。
「さあ…」
達也がゆっくりと立ち上がる。それだけで全身が軋む。
そして、ぽつりと言った。
「1分で決めてくるんで、それでダメだったらタオル投げて下さい」
「え…」
「小野達也の代名詞と言えば、はあっ、はあっ…秒殺っしょ」
その瞬間、セコンドアウトが響き渡り。
死闘は、運命の第10ラウンドへ――