「はあっ、はあっ、ふうっ…」
息を整えつつ、じっくりと前進する達也。立っているだけでツラいこの状況では、ジャブやローキックを打つ体力すらも惜しい。ほとんど足を止め、残された力の全てを乗せてのカウンターを叩き込むべく、じっと金田を見据える。
金田も達也の狙いを察知して、まずはじっくりと距離を取った。第9ラウンドで決めきる事こそできなかったが、もはや自分が圧倒的に優位である事は分かっている。焦る必要は全く無い。間もなく勝利は自ずと転がり込んでくる、今怖いのは不用意に攻め込んで強烈なカウンターを食らってしまう事ぐらいなのだから。
ラウンド数が2桁に突入し、まるで1周して第1ラウンドに戻ってしまったかのような、距離を取っての不気味な膠着がリング上を支配する。両者共にじっくりと、自らの機を窺う。
…だが。
達也が最後の力を託そうとしていたのは、実はカウンターではなかった。
じっくりと反撃の機を窺っているように見えた、その瞬間。
少しだけ、ほんの少しだけ重心を落として。
ダンッ!と達也は地を蹴った…!
そして、渾身の力で金田の顔面に膝をぶち当てるべく、猛スピードで飛びかかる…!
「なっ…!」
思いもしていなかった奇襲攻撃に、金田が身を引いてかわす。ありったけの力を振り絞って繰り出した飛び膝蹴りは、金田の鼻先を掠めはしたものの直撃には到らなかった。
しかし、達也にとっては、それも想定内だった。
なぜなら、残された体力の大半を注ぎ込んだこの飛び膝蹴りですら、実は本丸の攻撃ではなかったから。
「ぐぐっ…!」
達也が金田の体にガッシリと組み付く。そう、逆転KOを狙ったように見えた飛び膝蹴りは、実は金田との距離を一気に詰めるためのカモフラージュに過ぎなかったのだ。
そして達也は、密着した状態のまま金田の左腕だけに狙いを定めて。
強引に、アームロックを仕掛けた…!
悪夢の第9ラウンドから一転、達也の反撃に会場が沸いた。超満員の観客が、奇跡の大逆転を期待し達也に声援を送る。
だが、強引な組み付きからスタンド状態でのアームロックなどそうそう極まる筈もない。金田は冷静に左腕を極められないようケアしつつ、残った右腕で達也に細かくパンチを当てる。
しかし、達也はやはり百も承知だった。
相手が関節技を知らない素人ならともかく、金田相手にこんな強引なアームロックなど、1000回試みても極まる訳がないと。
だから、飛び膝蹴りだけではなく、この強引なアームロックまでもが。
最後の一瞬に全てを賭けるための、壮大な準備工作で…
「かはっ…!」
金田のクリンチのような細かいパンチに、達也の口から赤い飛沫が飛ぶ。
それが、金田の目にぴちゃっ、とかかった。
「うぐっ…」
もちろん単なる偶然という訳ではない。決して狙っていたという訳でもないのだが、達也と金田の身長差であれば、密着した状態で血を吐けばそれが金田の顔面に…おそらくは目の付近に降りかかるであろう事は簡単に想像できた。
だからこれは、未必の故意というやつで。
俺の吐いた血がどこへ飛ぼうが、そんなの知ったこっちゃねえ…何で金田の顔を避けるようにして吐かなきゃならねえんだよ、って思いで。
「くっ…」
金田が反射的に目を閉じる。その瞬間を待っていたように達也がアームロックを極め…ようとするのではなく、何と逆に金田の腕を解放した。
直後、金田が咄嗟に距離を取ろうとする。アームロックから逃れてとりあえず視力を回復させたいと金田が体を引いたのは、自身の身を守らんとする動物の本能的行動で。
達也が全てを懸けていたのは、まさにこの瞬間だった。
反射的に目を閉じながら体を引く、その無防備な瞬間を狙って。
ありったけの力を力を込めて、その閉じられた目を狙って…!
―――ダンッッ!!!
飛び膝蹴りを囮(おとり)にしたアームロック…をも囮にした、目を狙った渾身の右ストレート。それが金田を左目を的確に捉えた。人体における最大の急所とも言える箇所への強烈な一撃に、金田の頭部が瞬間的に下がる。
誤解の無いように言っておくが、相手の目を狙う打撃は反則でも何でもない。ただ、あまりにも危険な攻撃なので誰もほとんど繰り出さないというのが実情だ。達也自身、相手の目を狙った攻撃はこれが生まれて初めてだった。
だが、もはや綺麗事を言っているような状況ではない。試合はもう殺るか殺られるか、生きるか死ぬかの文字通り『死闘』となっているのだから。
だから今度は、瞬間的に下がってきた金田の顔面の下部…顎を狙って…
―――ゴンッッッッッ!!!!
思い切り蹴り上げられた達也の足の甲が、金田の顎にぶち当たった。直後、あまりの衝撃に沈みかけていた金田の体が数センチだけ浮き上がる。
だが、それも一瞬。次の瞬間には、力を失った巨体がドサリとマットに崩れ落ちる。
そこに達也が飛びかかるようにして襲い掛かった。動かなくなった金田に、一心不乱にパンチを落とす。
2発、3発、4発、5発……今ここで仕留めなければ…ここで殺らなければ殺られるのは俺の方だ…
まだ打撃を浴びせる。6発…7発…8発…目の前の男がもう絶対に動き出さないよう、ここでとどめを刺さなければ――!!
――ストップ!ストップッ!!
その瞬間、第9ラウンド終了時に聞こえたのと全く同じ声が、達也の耳に響いた。
しかし、その声の対象は違って。
あの時は金田を止めるために。そして今度は、達也を狂気から現実へと連れ戻すために…
「小野っ、離れろっ…!」
ストップの声がかかっても、まだ達也は金田の顔面へと拳を振り下ろそうとしていた。それをレフェリーが必死に引き剥がして。
「やめろっ…小野っ、もう試合は終わったっ…!」
なおも殴りかかろうとする達也。しかしレフェリーが必死にそれを制止する。
そこに、晴香と香菜も走り込んで。
「達也くんっ、もういいのっ、勝ったのよっ…!」
「達也さんっ、落ち着いてくださいっ、ほら、ゴングが聞こえませんかっ…!」
「はあっ…はあっ…はあっ……え……」
聞き慣れた声に、興奮状態にあった達也の意識が少しずつ正常な状態へと戻ってきて。
次の達也が耳にしたのは、試合の終了を告げるゴングが打ち鳴らされる音だった。
「お…終わった…?」
何とか冷静さを取り戻しながら、前方へと視線をやる。
するとそこに見たのは、仰向けになったままぴくりとも動かない、金田陽希の姿だった。
「は、はは…」
その時初めて、達也は状況を理解した。
死闘は、終わったのだと。
(勝った…勝ったんだ…)
仰向けになって、天井を見上げる達也。もう起き上がれない…それどころか1ミリも動けない。本気でそう思うぐらいに、体は限界を超えていた。
(はは…もう無理…)
体のどこにも力が入らなかった。目を開けているのも億劫だった。
ゆっくりと、瞼が閉じられていく。
そしてそのまま、会場の大歓声に包まれるようにして。
達也もまた、意識を失ったのだった。